最終話 業務終了
カウンターを挟み、薄暗い旧式の蛍光灯の下で、玲奈は静かにパイプ椅子へと腰掛けた。
三上は彼女の元へと駆け寄ろうとしたが、まるで目に見えない分厚いアクリル板に阻まれたかのように、一歩も前へ進むことができなかった。身体が完全に、この「手続きの場」の外部へと排除されている。
ノイズを纏った受付係の男は、机の上に置かれた赤い帳簿を、パタンと静かに閉じた。
意図的な悪意などそこにはない。あまりにも徹底された、どこにでもある普通の役所の、無機質な初期対応そのものだった。
受付係が万年筆を握ると、机の上には、パラパラと音を立てて夥しい数の書類がどこからともなく出現し、整然と積み上げられていった。
出生届、住民票の写し、小学校の卒業証明、健康保険の加入履歴、市民税の納税証明……。
それは、藤堂玲奈という人間が生まれてから今日に至るまで、行政のシステムと交わしてきた「記録」のすべてだった。彼女の人生そのものが、公文書として客観的に査定されていく。
正式な手続きとして粛々と進む中、三上の脳裏には強烈な違和感が弾けていた。
彼は自分の手元から消え、再びカウンターの上へと戻っている「赤い帳簿」を、遠目から血走った目で凝視した。
一九八八年の最初の相談者の記録。
『1988-00001 / 氏名: / 状態:保留』
なぜ、この最初の案件だけが38年間も処理されず、保留のまま残されているのか。
行政は前例に基づいて動く。そして、未処理の案件を抱えたまま、フローを途中で破棄することを絶対にしない。
「おい……!」
三上は阻む壁に向かって叫んだ。
「一九八八年に何があった! なぜ、その最初の相談だけが『保留』になっている!」
カウンターの奥の男が、初めて万年筆を動かす手を止めた。
顔のノイズが微かに歪む。感情の起伏を一切排した事務音声が、ただ一言だけを返した。
「相談内容が、提出されませんでした」
それ以上、男は何も語らなかった。
三上は、机の脇に置かれた別の古い書類へと目を凝らした。
38年間、誰も触れることのなかった、経年劣化で真っ白に褪せていた一枚の受付票。最初の相談者が手にして、そのまま残されたものだ。
そこに刻まれた文字を、三上の眼が捉える。
『1988-00001』
『状態:受付済』
『相談内容:未登録』
なぜ提出されなかったのか。
それは、もう38年前の記録の中にも残っていない。ただ一つ確かなことがある。相談内容だけが存在しないまま、受付だけが完了していた。
受付は完了した。
しかし、相談内容が未提出である以上、面談も、その後の処理も行うことができない。
行政システムは、未処理の案件を閉じることができない。
案件が終了しない限り、この窓口の「業務」は永遠に継続される──。
三上は理解した。
ここは、誰かを殺すための場所ではない。
ただ一件の未処理案件を、38年間待ち続けていた場所だったのだと。
窓口の男が、再び万年筆を玲奈の書類へと向けようとする。
「待て!」
三上は見えない壁に体当たりをしながら、必死に手を伸ばした。
指先がその白い受付票を掠め、強引にカウンターの向こう側、受付係の机の上へと押し戻す。
三上は解決したのではない。
本来あるべき場所へ、書類を戻しただけだった。
受付票が机に触れた瞬間、閉じていたはずの赤い帳簿が、猛烈な勢いでひとりでにページを開いた。台帳のシステムが、38年越しに提出された書類を自動照合し、裏面を読み取る。
白紙だったはずの受付票の裏面に、じわりと文字が浮かび上がった。
──『 助けてください』
かつて確かに存在した人間の悲鳴のような手書きの文字を、行政システムが認識した瞬間、赤い帳簿の余白に淡々と文字が追加されていった。
『相談内容:受理』
『1988-00001 / 状態:処理済』
パタン。
赤い帳簿が、今度こそ完全に閉じられた。
その瞬間、カウンターの前に整然と並んでいたパイプ椅子の失踪者たちの身体が、端から順に、光に溶けるようにして静かに消えていく。彼らの顔からは縛り付けられていた虚無感が消え、元の平穏な表情に戻っていた。
三上の後ろに立っていた新名も、どこか穏やかな笑みを浮かべ、その姿を霧のように希薄にしていった。
「……帰れる」
という微かな吐息だけを残して。
自分という存在が単なるデータとして消費された暗闇から、彼はようやく解放されたのだ。
玲奈の手の中にあった青い受付票の文字が、じわりと薄れ、ただの白紙へと戻っていく。
「あ……」
玲奈の瞳に、確かな生気が戻った。
彼女は自分の足で立ち上がり、三上の元へと駆け寄る。見えない壁は、すでに消失していた。
三上がそちらを向いた時、カウンターの奥から、激しいテレビの砂嵐のようなノイズが完全に消え去った。
そこに立っていたのは、おぞましい怪異などではない。
38年前のあの日、生真面目に机に向かって職務を遂行していた、若い職員の姿だった。
職員は静かに万年筆を胸ポケットへ収めると、三上と玲奈に向かって、深く、丁寧に頭を下げた。
「……本日の業務を終了いたします」
男は静かに、窓口の古い照明のスイッチへと手を伸ばし、パチンと音を立てて落とした。直後、チカチカと鳴っていた旧式の蛍光灯が完全に消灯する。
昭和のリノリウムの床が、焦茶色の木製カウンターが、音もなく暗闇の中へと崩壊し、消滅していった。
◇
数週間後。
市役所の地下書庫は、いつもの退屈で埃っぽい空間に戻っていた。
三上と玲奈は、再び建築課から取り寄せた現在の庁舎図面を広げていた。
当然、そこには「地下第一相談室」の文字も、不自然な空間の輪郭も、最初から存在しなかったかのように消え失せている。
三上は、手元に残された黒川事件の古い記録の束をめくった。
その中に、以前は何度も見落とし、なぜか意識から零れ落ちていた「新名修平」の名前が、今は普通に読み取れる状態で残っている。
だが、その名前が記載された欄の端に、かつての役所のインクで、奇妙な一言が印字されているのを見つけた。
『認識処理対象外』
玲奈は資料の一頁を覗き込んだ
「先生。それ……」
三上はしばらく黙って、その欄を見つめていた。
黒川事件の関係者。確かにそう書かれている。
なのに、その名前を見ても、以前のような頭痛も、記憶の欠落も起こらない。
「……やっぱり、おかしいですね」
三上は小さく笑った。
「事件の資料には最初から載っていた」
「私だけじゃありません。警察も、市役所も、誰一人として気付かなかった」
「先生。あの『18.3ヘルツ』って、結局、何だったんでしょうね」
三上は資料を閉じ、少し考えてから答えた。
「私の中では、今も因果関係は証明できていません」
「ですから、論文には書けません」
「ですが、もし誰かが将来また同じ現象に遭遇したのなら——」
「私はまず18.3Hzを測るでしょうね」
「それが、今の私に言える唯一の結論です」
◇
夜。
閉庁時間を遥かに過ぎた、無人の市役所。
誰もいない地下一階、コンクリートの壁の奥。
そこには、もう通路も、昭和の執務室も存在しない。
完全な、ただの暗闇と静寂だけがある。
だが、かつてカウンターがあったはずの、今ではただの冷たい壁の隙間に、一枚の事務用紙だけが、ひっそりと残されていた。
夜間巡回の警備員のライトも決して届かないその場所で、書類には、色褪せたインクでこう印字されていた。
第一相談室
本日の受付件数 0件
本日の処理件数 1件
未処理案件 0件
閉庁時刻 18:00
────────────────
業務終了
それ以来、第一相談室が開庁することは、一度もなかった。
翌年度。
市役所の基幹システム更新に伴い、過去ログの整理が行われた。
削除対象一覧の中に、一件だけ残った記録があった。
『1988-00001』
削除理由欄には、ただ一行。
『保存期間:永久』




