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死の周波数──18.3Hzの振動  作者: 比古狭霧


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第7話 音の集積

あれから藤堂玲奈と連絡を取れることは無く、

一睡もできないまま、三上は朝を迎えた。


机の上のモニターには、昨夜から一度も閉じていない解析ソフトが立ち上がっている。緑色のラインは、完全に静止していた。だが、データは確かにそこにある。


【RECORD_0184.wav】

録音時間:00:00:03


何度も波形を再生した。

ノイズの底から、劣化したスピーカーが潰れた声を吐き出すような、あの掠れた「セ ン セ イ」という響き。


研究室には、三上しかいなかった。

マイクの接続は切れていた。


これは錯覚ではない。

客観的な電子データとして、ハードディスクに書き込まれている。だが、このデータをどの学会に提出したところで、得られるのは「システムのバグ」か「データ破損」という結論だけだ。


科学の手法を用いながら、科学の枠組みから完全に滑り落ちていく。その事実に、胃の奥が焦げ付くように熱かった。


その時、デスクの上に置いたスマホが短く震えた。

藤堂玲奈からだった。


「藤堂さん! ご無事でしたか」

「三上さん……」


かすかに聞こえる彼女の声は、昨夜の凍りつくような冷たさから、どこか現実味を取り戻したように乾いていた。


「もう一人だけ……話を聞いてほしい人がいます」





案内されたのは、

古びた県立高校の進路指導室だった。


夏休みの静まり返った校舎には、遠くで鳴く蝉の声と、廊下を歩く自分たちの足音だけが不自然に響いている。


指導室のドアを開けると、独特の古い紙の匂いと、天井の蛍光灯が発する「ジィー……」というかすかな高周波の唸りが三上の耳を突いた。


「新名くん、ですか。ええ、よく覚えていますよ。大人しくて、真面目な子でした」


目の前に座る白髪交じりの男──新名の高校時代の担任教師は、盆に乗った冷たい茶を勧めながら、穏やかに目を細めた。


「特に問題を起こすような子でもありませんでした。成績も中堅を維持していましたし、提出物も遅れたことはない。学校側としては、手のかからない、良い生徒でしたよ」


窓の外では、錆びた雨どいを伝って雨水が「トントン、トントン」と不規則なピッチでコンクリートを叩いている。


その音を聞きながら、三上は冷めかけた茶に手を付けず、担任の目をまっすぐに見据えた。


「本当に、それだけですか。彼から、何か相談はありませんでしたか」


担任は、一瞬だけ困ったように眉を下げ、苦笑した。


「相談、ですか。高校生ですからね、進路の悩みくらいはあったでしょうが……特別なことは何もありませんでしたよ」


「……これでもですか」


玲奈が、抱えていたカバンから一冊のファイルを取り出し、机の上に滑らせた。


当時の指導要録と、保健室の利用記録のコピー。玲奈が記者としてのコネクションを使い、独自に手に入れたものだった。


広げられたページには、担任の穏やかな言葉を否定するような、無機質な事実が書き連ねられていた。


【二学期以降、週に一度の頻度で保健室登校】

【頻発する偏頭痛による遅刻・早退】

【家庭環境:叔父との二人暮らし。ネグレクトの疑いあり。要経過観察】

【生活指導:衣服の汚れ、軽度の栄養失調の兆候】


担任の視線が、紙の上に落とされる。


窓の外では古い換気扇が風に煽られ、「カタ、カタ、カタ……」と乾いた金属音を立てていた。


「藤堂さん、あなたも新聞記者なら分かるでしょう」


担任は苦笑を浮かべたまま、机の上で手を組んだ。

「教師一人で、全部は背負えません」


その言葉に、三上の指が微かに強張る。


「あの子だけじゃなかったんです」


担任は、ファイルを指先で軽く叩いた。


「家庭内暴力を受けている子もいました。手首を切る子も、親が刑務所に入って家賃も払えないような子もいた。私一人で、その全員を完全に救い出すことなんてできますか。限界があるんです」


「だから私は、町内会に様子を見てほしいと引き継いだ。学校としての義務は、そこでちゃんと果たしているんです」


悪びれる様子は、微塵もなかった。彼は、ルールに従って、自分の領分の中で正しく処理したと言っているのだ。


帰り道でフロントガラスを激しく叩く雨音の中、三上はハンドルを握りながら、胸の中に澱む確信を言葉にしようとしていた。


これは、悪意に満ちた猟奇事件ではない。


誰一人として、新名を積極的に殺そうとした者はいない。

担任も、黒川も、警察も、新聞社も。全員がほんの少しずつ、手のひらの上で重くなった「責任」という熱い石を、隣の誰かへと放り投げた。


行き場を失った少年だけが、

最後まで、その重さを受け止め続けた。





深夜二時。


三上は研究室で、

二つの音響データを並べていた。


一つは、昨夜、黒川の家で解析ソフトが勝手に拾い上げた波形。

もう一つは、玲奈が以前、学校の相談室で取材した際に回していたボイスレコーダーの環境音。


三上は、その二つの環境音に含まれる「18.3Hz」の微細な振動を抽出し、周波数解析を重ね合わせた。画面上で、二つの赤いラインが、吸い寄せられるようにぴったりと重なり合っていく。


「位置」ではない。

黒川の家と、学校の相談室。物理的な距離も、建物の構造も全く異なる二つの場所。三上は、震える手でキーボードを叩き、研究ノートに現在の観測結果を書き込んだ。


【観測メモ】

・黒川宅、および学校相談室で検出された18.3Hz帯の波形に、極めて高い相関性を確認。

・両地点における建築構造、地理的条件に物理的共通点なし。

・唯一共通する要因は、物故者「新名修平」との接触歴。

・何らかの心理的、または環境的因子がこの周波数を誘発、あるいは固定化している可能性。

・現段階における物理的同定は不可能。判断保留。


三上はソフトを閉じようとした。


これ以上解析を続けても、今の自分では説明がつかない。

ソフトを閉じようとした、その時だった。


カチッ……。


スピーカーから、乾いた電子ノイズが一度だけ弾けた。


言葉ではなかった。

意味のある文字列でもない。


ただ──。

誰かが、マイクのすぐ傍で、短く、切迫した息を吸い込んだような音。


「……っ」


三上は弾かれたように椅子から立ち上がり、振り返った。


誰もいない。

冷たい蛍光灯の下、雨に濡れた窓ガラスが、自分の怯えた表情を映し出しているだけだ。


恐る恐る、画面に視線を戻す。

録音状態を示すインジケーターは「停止」。波形も、平坦な一本線のままだった。


三上は息を吐き、

電源を落とそうとマウスへ手を伸ばす。


その時だった。


解析ソフトの右下の

録音時間。


"00:00:03"


その表示が、

何の操作もしていないのに、


"00:00:04"


へ変わった。


"00:00:05"


カチ、カチ、と、

静かに、しかし確実に、


"00:00:06"


へと、時間は進み続けていた──。

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