第7話 音の集積
あれから藤堂玲奈と連絡を取れることは無く、
一睡もできないまま、三上は朝を迎えた。
机の上のモニターには、昨夜から一度も閉じていない解析ソフトが立ち上がっている。緑色のラインは、完全に静止していた。だが、データは確かにそこにある。
【RECORD_0184.wav】
録音時間:00:00:03
何度も波形を再生した。
ノイズの底から、劣化したスピーカーが潰れた声を吐き出すような、あの掠れた「セ ン セ イ」という響き。
研究室には、三上しかいなかった。
マイクの接続は切れていた。
これは錯覚ではない。
客観的な電子データとして、ハードディスクに書き込まれている。だが、このデータをどの学会に提出したところで、得られるのは「システムのバグ」か「データ破損」という結論だけだ。
科学の手法を用いながら、科学の枠組みから完全に滑り落ちていく。その事実に、胃の奥が焦げ付くように熱かった。
その時、デスクの上に置いたスマホが短く震えた。
藤堂玲奈からだった。
「藤堂さん! ご無事でしたか」
「三上さん……」
かすかに聞こえる彼女の声は、昨夜の凍りつくような冷たさから、どこか現実味を取り戻したように乾いていた。
「もう一人だけ……話を聞いてほしい人がいます」
◇
案内されたのは、
古びた県立高校の進路指導室だった。
夏休みの静まり返った校舎には、遠くで鳴く蝉の声と、廊下を歩く自分たちの足音だけが不自然に響いている。
指導室のドアを開けると、独特の古い紙の匂いと、天井の蛍光灯が発する「ジィー……」というかすかな高周波の唸りが三上の耳を突いた。
「新名くん、ですか。ええ、よく覚えていますよ。大人しくて、真面目な子でした」
目の前に座る白髪交じりの男──新名の高校時代の担任教師は、盆に乗った冷たい茶を勧めながら、穏やかに目を細めた。
「特に問題を起こすような子でもありませんでした。成績も中堅を維持していましたし、提出物も遅れたことはない。学校側としては、手のかからない、良い生徒でしたよ」
窓の外では、錆びた雨どいを伝って雨水が「トントン、トントン」と不規則なピッチでコンクリートを叩いている。
その音を聞きながら、三上は冷めかけた茶に手を付けず、担任の目をまっすぐに見据えた。
「本当に、それだけですか。彼から、何か相談はありませんでしたか」
担任は、一瞬だけ困ったように眉を下げ、苦笑した。
「相談、ですか。高校生ですからね、進路の悩みくらいはあったでしょうが……特別なことは何もありませんでしたよ」
「……これでもですか」
玲奈が、抱えていたカバンから一冊のファイルを取り出し、机の上に滑らせた。
当時の指導要録と、保健室の利用記録のコピー。玲奈が記者としてのコネクションを使い、独自に手に入れたものだった。
広げられたページには、担任の穏やかな言葉を否定するような、無機質な事実が書き連ねられていた。
【二学期以降、週に一度の頻度で保健室登校】
【頻発する偏頭痛による遅刻・早退】
【家庭環境:叔父との二人暮らし。ネグレクトの疑いあり。要経過観察】
【生活指導:衣服の汚れ、軽度の栄養失調の兆候】
担任の視線が、紙の上に落とされる。
窓の外では古い換気扇が風に煽られ、「カタ、カタ、カタ……」と乾いた金属音を立てていた。
「藤堂さん、あなたも新聞記者なら分かるでしょう」
担任は苦笑を浮かべたまま、机の上で手を組んだ。
「教師一人で、全部は背負えません」
その言葉に、三上の指が微かに強張る。
「あの子だけじゃなかったんです」
担任は、ファイルを指先で軽く叩いた。
「家庭内暴力を受けている子もいました。手首を切る子も、親が刑務所に入って家賃も払えないような子もいた。私一人で、その全員を完全に救い出すことなんてできますか。限界があるんです」
「だから私は、町内会に様子を見てほしいと引き継いだ。学校としての義務は、そこでちゃんと果たしているんです」
悪びれる様子は、微塵もなかった。彼は、ルールに従って、自分の領分の中で正しく処理したと言っているのだ。
帰り道でフロントガラスを激しく叩く雨音の中、三上はハンドルを握りながら、胸の中に澱む確信を言葉にしようとしていた。
これは、悪意に満ちた猟奇事件ではない。
誰一人として、新名を積極的に殺そうとした者はいない。
担任も、黒川も、警察も、新聞社も。全員がほんの少しずつ、手のひらの上で重くなった「責任」という熱い石を、隣の誰かへと放り投げた。
行き場を失った少年だけが、
最後まで、その重さを受け止め続けた。
◇
深夜二時。
三上は研究室で、
二つの音響データを並べていた。
一つは、昨夜、黒川の家で解析ソフトが勝手に拾い上げた波形。
もう一つは、玲奈が以前、学校の相談室で取材した際に回していたボイスレコーダーの環境音。
三上は、その二つの環境音に含まれる「18.3Hz」の微細な振動を抽出し、周波数解析を重ね合わせた。画面上で、二つの赤いラインが、吸い寄せられるようにぴったりと重なり合っていく。
「位置」ではない。
黒川の家と、学校の相談室。物理的な距離も、建物の構造も全く異なる二つの場所。三上は、震える手でキーボードを叩き、研究ノートに現在の観測結果を書き込んだ。
【観測メモ】
・黒川宅、および学校相談室で検出された18.3Hz帯の波形に、極めて高い相関性を確認。
・両地点における建築構造、地理的条件に物理的共通点なし。
・唯一共通する要因は、物故者「新名修平」との接触歴。
・何らかの心理的、または環境的因子がこの周波数を誘発、あるいは固定化している可能性。
・現段階における物理的同定は不可能。判断保留。
三上はソフトを閉じようとした。
これ以上解析を続けても、今の自分では説明がつかない。
ソフトを閉じようとした、その時だった。
カチッ……。
スピーカーから、乾いた電子ノイズが一度だけ弾けた。
言葉ではなかった。
意味のある文字列でもない。
ただ──。
誰かが、マイクのすぐ傍で、短く、切迫した息を吸い込んだような音。
「……っ」
三上は弾かれたように椅子から立ち上がり、振り返った。
誰もいない。
冷たい蛍光灯の下、雨に濡れた窓ガラスが、自分の怯えた表情を映し出しているだけだ。
恐る恐る、画面に視線を戻す。
録音状態を示すインジケーターは「停止」。波形も、平坦な一本線のままだった。
三上は息を吐き、
電源を落とそうとマウスへ手を伸ばす。
その時だった。
解析ソフトの右下の
録音時間。
"00:00:03"
その表示が、
何の操作もしていないのに、
"00:00:04"
へ変わった。
"00:00:05"
カチ、カチ、と、
静かに、しかし確実に、
"00:00:06"
へと、時間は進み続けていた──。




