第5話 取材ノート
雨は朝から降り続いていた。
研究棟の窓を細かな雨粒が流れ落ちる音の中、三上は昨夜採取した波形を、PCの画面上で何度も重ね合わせていた。
黒川宅。
302号室。
新名修平のアパート。
二つの波形は、完全には一致しない。
だが18.3Hz帯だけは、生き物のように同じ癖を持っていた。
「……振幅だけが増えている」
周波数はほぼ一定。18.3Hz付近から外れない。
ならば原因は「音」そのものではない。音の性質を変化させている、別の要因があるはずだ。
心理状態の変化か。
建物の構造か。
あるいは──。
「俺は、何かを見落としているのか」
黒川の症状は確実に悪化していた。
解析結果をノートに書き込み、次の計測地点を考える。
距離感の喪失。
幻覚のような訴え。
実名を聞いた瞬間のあの過剰な拒絶反応。
何が彼らを繋げているのか。
音の専門家として、決定的な何かを見落としているのではないか。その疑問が、胸の奥で静かに重さを増していた。
その時、研究室のドアが二度、控えめに叩かれた。
入ってきた藤堂玲奈は、髪をまとめる余裕すらなかったのか、雨に濡れた前髪が額に張り付いていた。
肩から提げた革鞄は重そうに膨れ、両腕には分厚い紙ファイルが抱えられている。何度も開き直したのだろう。付箋が無数にはみ出し、角は白く擦り切れていた。
それは、何度も読み返され、何度も諦められた紙束だった。
「……私には、もう判断できません」
玲奈はかすれた声でそう言って、机の上へファイルを置いた。
「このまま、色々なことをはぐらかされたまま取材を続けるべきなのか。分かっている範囲だけでも記事にするべきなのか」
少しだけ視線を落としながら続けた。
「それとも私が、何か触れてはいけない、見てはいけないものまで見始めているだけなのか──」
玲奈はファイルの中から、いくつかの取材をまとめたノートを、それぞれゆっくりと机の上に並べていった。そこには、彼女が新名修平について集めた情報が、時系列順に綴じられていた。
三上は、並べられたページを静かに見つめた。
6月3日。
「夜中に男の子が泣いていた」
近隣住民の小さな証言。
さらに一枚、ページがめくる。
6月5日。
担任教師。
「家庭訪問を予定しています」
さらに、もう一枚。
6月10日。
町内会。黒川正人。
「家庭の問題でしょう。様子を見ておきます」
6月12日。
警察。
「事件性なしと判断」
6月15日。
新聞社。
「裏付け不足のため掲載見送り」
玲奈はそこで、ぽつりとページを閉じた。
部屋に残ったのは、雨音だけだった。
学校。
町内会。
警察。
新聞社。
どの紙にも「対応」の文字はある。
最後まで、「助けた」という文字だけがなかった。
「……」
玲奈も黙っていた。
言葉にしなくても、二人は同じことに気付いていた。
「怖かったんです」
玲奈が、絞り出すように言った。
「黒川さんに会うたび、どんどんやつれていって……私には聞こえない音が聞こえ、新名君の姿が見えると取り乱して」
「実は以前、別件で大学の別の教授に相談したら『素人はオカルトでも書いていればいい』って鼻で笑われたこともあって……」
雨音が、窓の外で一小節ほど不穏な拍子を刻んだ。
三上は机の上の資料を見つめたまま、静かに呟いた。
「おそらく私も最初は、機材を疑います」
三上は写真から目を離さなかった。
「次に、測定方法。最後に、自分です」
玲奈は少しだけ救われたような顔をした後、ファイルから一枚の写真を取り出した。
「これ……見てもらえますか」
机の上に置かれたのは、新名修平の部屋の写真だった。
玄関前の薄暗い通路。
割れた郵便受け。
閉じたままのカーテン。
三上は写真へ目を落とした。
それは、制服姿のどこにでもいそうな顔の青年だった。だからこそ、おかしかった。この町で三十八年暮らしてきた自分が、一度も見た記憶を持っていないことが。
「この時、新名さんは?」
「……生きていました」
三上は、写真の奥にある青年の瞳を見つめながら尋ねた。
「どんな人でしたか」
玲奈は少し考えてから、静かに答えた。
「……静かな子でした。怒鳴るような人じゃありません。むしろ、すぐに謝るような……」
「最後に会った時は?」
玲奈は答えなかったが、しばらく写真の青年の顔を見つめると、やがて小さな声が零れた。
「笑っていました」
「安心したように?」
玲奈は首を横に振った。
「……人を安心させるための、笑い方でした」
「『もう大丈夫ですから』って。私を早く帰らせるための、笑顔でした」
三上は胸の奥が、冷たく沈んでいくのを感じた。
「他には、何か言っていましたか」
玲奈はもう一度、長い沈黙のあとで言った。
「一つだけ」
『もう誰にも、迷惑を掛けたくないので』
強がりなのか、諦めなのか。
それとも、決定的な何かなのか。
ファイルの最後のページを、玲奈は一瞬だけ指で押さえた。だが、それをめくることはせず、手を引いた。
「……1ページ、ここだけ破り取られていますね」
三上が静かに指摘すると、玲奈の肩が微かに跳ねた。
「……燃やしました」
玲奈は視線を泳がせながら、震える声で言った。
「読んでしまったら。私は、一生、自分を許せなくなると思ったんです。だから燃やしました。でも……燃やしても、頭から消えないんです」
それ以上は、聞けなかった。
三上はただ、ゆっくりと頷いた。
玲奈が部屋を去ってからも雨は止まず、研究室にはPCの冷却ファンの音が低く響いていた。
三上は玲奈の取材ノートを机の端へ置き、黒川宅で採取した波形と、302号室の波形を改めて重ね合わせた。
18.3Hz
やはり、数値は完全に同じだ。
しかし、時間の経過とともに振幅だけが異常な脈動を見せている。
三上は解析を一時停止させようとして、マウスに手を伸ばしたが動かなかった。
画面上のカーソルが、ピタリと固まったまま入力を受け付けない。フリーズしたのかと思ったその時、画面右下のインジケーターに目が留まった。
──録音中。
そんなはずはなかった。
外部マイクの入力は切っている。
録音ボタンも押していない。スピーカーからは何の音も聞こえない。完全な無音のはずだ。
それなのに、画面の波形だけが、何もない暗闇からゆっくりと立ち上がっていった。
18.02
...
18.11
...
18.19
...
18.27
いつの間にか、
三上は瞬きを忘れていた。
18.30Hz
三上は反射的に、誰もいない研究室を見回したが、背後にあるのは冷たいコンクリートの壁と、激しい雨を映す窓ガラスがあるだけだった。
誰も、いない。
それでも波形だけは、ゆっくりと脈を打ち続けていた。




