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死の周波数──18.3Hzの振動  作者: 比古狭霧


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3/4

第3話 『消えた青年』

朝の研究室は、

いつものように静かだった。


三上直哉は机に座り、

昨夜のログと302号室のデータを並べて比較していた。


死亡者の主成分は18.31Hz。

生存男性のそれは18.28Hz。

誤差の範囲内だ。


しかし、振幅と心拍変動の推移が明らかに違った。


死亡ログでは、18.3Hzに到達した直後、

心拍数が急激に乱れ、10数秒で消失している。


一方、生存男性は同じ帯域を受け続けていたにもかかわらず、心拍は乱れながらも維持されていた。


個体差か。

それとも――発症に何らかの条件があるのか。


三上はメモに走り書きした。


【比較メモ】

死亡者:18.31Hz到達後、心拍急変→消失

生存者:18.28Hz持続も心拍維持

→ 強さだけでなく「何か」が閾値を左右している可能性


三上は椅子に深く背を預け、

天井を見つめた。


新名修平にいな しゅうへいの名前を思い浮かべると、胸の奥に声が疼いた。


理由は考えないようにした。

今はまだ、その沈んだ響きの正体を直視したくなかった。


資料を広げ、警察の簡易報告書と町内会の聞き取りメモ、数枚の新聞切り抜きを並べる。内容は薄く、肝心な部分が意図的に省かれているように感じられた。


新名修平に関する情報が少ないのではなく、

町全体が無意識に「見ないようにしていた」痕跡が、そこにあった。


死因は自殺。

遺書は見つかっていない。

目撃者もなし。


家族は遠方に住んでおり、

ほとんど連絡を取っていなかった。


資料の端に貼られた小さな付箋を開いた。

「近隣住民の証言」と書かれている。


そこに並ぶ短い文は、

まるで記憶の断片がばらばらに散らばったようだった。


「夜中に泣いているような声がした気がする」


「いや、あれは笑い声だったよ。元気そうだったじゃないか」


「そもそもあいつ、本当にあの部屋に住んでいたのか? 見たことないぞ」


「毎朝すれ違ったはずだ。挨拶もした覚えがある」


同じ出来事に対する証言が、

これほど食い違う。


新名という一人の青年の輪郭は、

その歪みの渦の中で何度も形を変え、

波紋のように意識の外へと消えていったのだろう。


誰も本気で確かめようとしなかった。

その「無関心の連鎖」が、

町全体の空気を重く淀ませている。


三上は資料を閉じた。


部屋の空気が、わずかに——

本当にわずかに揺れた気がした。


気のせいかもしれない。


だが、こういう「わずかな違和感」が、

後で致命的な意味を持つことを、

彼は何度も経験していた。


昨夜録音したデータを再生した。

18.3Hzの主成分が静かに立ち上がる。

その谷間に並ぶ微細なパルス。


そして、藤堂玲奈の名前が波形の端に浮かんでいた。


彼女は数日前、新名について取材に来た。

電話をかけても、留守番電話に切り替わるだけ。


「藤堂です。今は出られません——」

その声は、わずかに震えていた気がした。


胸の奥が、再び重く沈んだ。

嫌な予感が、ゆっくりと形を成し始めている。


三上はスマートフォンを机に置いたまま立ち上がった。


研究室の窓から見える町並みは、

いつもと変わらない。


商店街。

市役所。

古い公民館。


生まれてから三十八年。

この町で暮らしてきた景色だった。


だが――。


「新名修平」


名前を口にすると、

妙な空白感だけが残る。


取材記録には残っている。

町内会のメモにも名前がある。

数年前には新聞記事にもなったらしい。

それなのに、自分の記憶には輪郭がない。


顔が浮かばない。

声も浮かばない。


コンビニの店員ですら

何となく覚えているのに、

なぜか新名だけ輪郭が抜け落ちている。


存在だけが抜け落ちている。

それが気持ち悪かった。


科学者としてではない。

同じ町に住む人間として。

自分は本当に何も知らなかったのか。


市立図書館へ向かう為に外に出た瞬間、

曇りの重みが胸に沈み、

湿った空気が耳の奥を押した。

谷間の町は息を潜めている。


研究室の裏手に停めてある

古いステーションワゴンへ乗り込み、

エンジンをかけた。


後部座席には計測器のケースや資料箱が積み上がり、

助手席には飲みかけの缶コーヒーが転がっている。

三上が十年以上乗り続けている車だ。


低い振動が車体を伝い、

カーナビの時計が午前九時を示した。


平日の午前中。

利用者は少ない。


地域新聞の縮刷版を借り、

新名修平の名前を検索する。


だが妙だった。


不登校の記事はある。

若年層の孤立問題の記事もある。

自殺統計の記事もある。


それなのに、

新名修平の名前だけがほとんど出てこない。


ようやく見つけたのは、

地方欄の隅に載った十行ほどの短い記事だった。


町内在住男性死亡

警察は自殺とみて調査中


それだけだった。


人が一人死んだ。

それだけなら珍しくない。


だが。


町内会の記録。

藤堂玲奈の取材。

昨夜の波形。


すべてを合わせて考えると、

この扱いの小ささが妙に引っかかった。

ページを閉じても違和感は消えなかった。


図書館を出ると、

昼前の商店街を歩いた。


昔からある八百屋。

小さなクリーニング店。

古びた喫茶店。


三上は何気ないふうを装って尋ねた。


「新名修平って人、覚えてますか」


八百屋の店主は首を傾げた。


「さあな」


クリーニング店の老婆は、


「ああ……いたような気もするけど」


と言ったあと、

それ以上は話さなかった。


喫茶店の店主は、


「そんな人いたっけ」


と笑った。


反応は全員違う。

だが一つだけ共通点があった。


誰も話を続けたがらない。

話題そのものを閉じようとしている。


三上は商店街の外れで足を止めると、

背中にじっとりと汗が滲んでいた。


そのときだった。


「三上先生?」


振り返ると、町内会で何度か顔を合わせたことのある男が立っていた。


「珍しいですね」


「ああ、少し調べものを」


男は曖昧に笑った。

そして何気なく言った。


「先生、本当に知らなかったんですか」


「え?」


「新名のことですよ」


男は不思議そうな顔をした。


「同じ町なんだから、みんな何となく知ってると思ってました」


三上は返事ができなかった。


知っていたのか。

知らなかったのか。

思い出せない。


男は気まずそうに会釈すると、

そのまま去っていった。


商店街に残された三上は、

しばらく動けなかった。


遠くで救急車のサイレンが鳴っている。


町はいつも通りだった。

だが、その音が妙に遠く感じられた。


まるでこの町全体が、

何かを忘れたふりをしているようだった。


三上は指先が冷えるのを感じながら、

ゆっくりと相手の方角へと体を向ける。


逃げ道はあるのに、足元だけが静かに覚悟を受け入れ、

新名が住んでいた古い木造アパートへと車を走らた。


外壁にはやはり細いひびが無数に走り、窓ガラスはほとんど割れ、階段の手すりは赤錆に覆われている。生活の気配は、すでに完全に消え失せていた。


玄関前に立つと、胸の中心がゆっくりと、しかし強く押される感覚が襲ってきた。


湿気の底から、低い揺れが這い上がってくる。

計測器の波形が、静かに反応する。


18Hz帯。


これまでの死の現場より弱い。

だが、「同じ癖」を確かに持っていた。


管理人に頼んで部屋の中に入った。

室内は空っぽだった。


家具の跡が床に薄く残り、

壁には黄ばんだ汚れと剥がれかけた壁紙だけ。


生活の痕跡が、

まるで誰かに「消された後」のように不自然に残っていた。


湿ったカビ臭い空気が肺にまとわりつく。

計測器を構え、慎重に波形を観測する。


18.3Hzではない。

もっと微弱だ。


しかし、記憶の揺らぎのような、

奇妙な周期性があった。


三上は部屋をゆっくりと歩き始めた。


壁際でわずかに上がる。

床の中央では下がる。

押入れの前で、再び上がる。


「……発信源じゃない」

「……残留しているのか?」


三歩下がり、再び測定した。

数値は下がる。


さらに一歩戻り、もう一度測る。

上がる。


三上は床にチョークで印をつけた。

三度測定したが、結果は変わらない。


【新名修平 自宅観測ログ】

特定地点で主成分が上昇

(18.02Hz → 18.11Hz → 18.19Hz)

壁際・床・押入れ付近で顕著

移動により変動 → 場所に染み付いた残留現象の可能性


部屋の隅、厚い埃の中に一枚の紙切れが落ちていた。

拾い上げると、震える筆跡で短い言葉が書かれていた。


──聞こえなかったふりをした

──助けを呼ばなかった

──誰も来なかった


途中で途切れている。

誰が書いたのかは分からない。


ただ、部屋に残された断片が、

静かに訴えているように思えた。


三上は何気なく紙片を裏返した。

裏面には、別の文字があった。


かすれて読みにくいが、

何度か角度を変えてようやく判読できた。


「また始まった」

「気にするな」

「放っておけ」


独り言にしては不自然で、

誰かとの会話の断片に見える。


紙の端には、

さらに途中で切れた文章が残っていた。


「町内会にも相談した」


その先だけが破れている。


三上は紙切れをメモ帳に挟み、

部屋を出た。


肌に触れた瞬間、薄い刃の面でそっと撫でられたような冷えが走る。


風はないのに、その冷たさだけが谷間からゆっくりと押し寄せてくるのを感じた。


研究室に戻ると、机の上に置いた名簿が目に入った。新名修平の名前に、薄い線が引かれている。


その一行の隣で、計測器が短く反応した。

波形の底に、再びノイズのようなものが浮かんだ。


" ワ ル ク ナ イ "


" ワ タ シ ハ ワ ル ク ナ イ "


" ア イ ツ ガ ワ ル イ "


三上は眉をひそめた。


「悪くない、私は悪くない。あいつが悪い」


自己保身、

いや、


責任転嫁……?

自己正当化……?


まだ断定はできない。

三上は画面を見つめた。


責任転嫁。

自己正当化。

拒絶。


そして――否認。


新名の部屋に残されていた言葉と、

どこかで繋がっている気がした。


その直後、

別の文字列がゆっくり浮かび上がる。


黒川正人くろかわ まさと


三上は名簿を開き、名前を再度確認した。

その名前を見つけた瞬間、胸の奥がわずかに暗くなる。


黒川正人(51)

新名死亡後、「自分は関係ない」と近隣住民へ繰り返し説明。


三上は画面を見つめたまま、

ゆっくり息を意識した。


数日前から18Hz帯の相談記録を残していた男で、

つい先日、データ解析中に同じ並びの住所が三度現れ訪問した、

町内会長の名前と一致した。

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