第2話 波形の谷間
朝になっても、
三上の胸の奥に残響していた。
302号室で拾った波形の端に浮かんだ「レ」「ナ」という影が、網膜の裏側に焼き付いたように離れない。
あの歪んだ線が、まるで意味のある文字のように見えた瞬間から、環境条件による偶発性を見い出そうとしていた。
研究室の机に計測器を置き、昨夜録音した全データをモニターに呼び出す。
波形は静かに、しかし確実に立ち上がっていた。
50Hzの街灯トランス、60Hzの換気扇ノイズ。その下に沈む18Hz帯が、ゆっくりと脈打っている。
三上は高感度マイクで録音したデータを再生した。
スピーカーからは何も聞こえない。ただ、空気がわずかながら重くなり、胸の中心が鈍く押される感覚。
耳では捉えられないのに、身体が拾おうとする。
扁桃体が警鐘を鳴らし、自律神経がざわめき、視界の端がほんの少し揺れる。
「……おかしいな」
三上は波形を拡大した。
18.3Hzの主成分の谷間に、微細なパルスがいくつも並んでいた。
時間軸を伸ばし、ノイズ除去フィルタを多重にかけ、振幅を強調し、周波数分解能を最大まで引き上げる。
すると、谷間の底にいくつもの「断片」が浮かび上がった。
番地らしき数字。古いアパートの名前らしき文字列。そして、イニシャルと思われる文字の組み合わせ。
関連性は不明だった。
番地。
イニシャル。
古い建物の名称。
共通点は見えない。
ただ、どれも昨夜の死と無関係には思えなかった。
三上はメモ帳を開いた。
昨夜の死者——住民A。
町では顔の広い男だった。
近所の噂話によく首を突っ込み、人の話を面白おかしく広げる癖があった。しかし、その死と波形に残った断片との繋がりまでは、まだ三上も把握できていなかった。
そのとき、研究室のドアがノックされた。
藤堂玲奈だった。
29歳の新聞記者。顔色は悪く、目の下に薄い影ができている。
「昨夜の件……聞きました。三上さん」
彼女は短く挨拶を済ませると、鞄から分厚いファイルを取り出した。
何度も開かれた跡がある。付箋と書き込みで膨れ上がっていた。表紙には、ある人物の名前が書かれていた。
「取材はしていました。でも記事にはなっていません」
「なぜです?」
「……証拠が足りなかったので」
玲奈は淡々と答えた。
しかし、その声にはわずかに翳りがあった。
三上はそれ以上深くは聞かず、谷間に浮かぶ複数の断片として、波形のデータを一部見せた。
玲奈は画面をじっと見つめた。
しかし、何も言わない。聞かない。ただ、唇を軽く結んだまま、しばらく沈黙していた。
玲奈が去った後、三上はもう一度データを解析した。
すると、スペクトラムのノイズ列が、奇妙に一致するものを見つけた。
ある住所らしき数字列で、同じ並びが三度現れた。
偶然だと思ったが、GISに重ねても一点だけ一致した。
……確認だけしてみるか。
三上は計測器をバッグに詰め、研究室を出た。外は厚い雲に覆われ、風は一切ない。湿度が高い夏の朝も、こうして町の音は逃げ場を失う。
車を走らせる間、エンジンの50Hzが一定のリズムで響く。
指先が無意識に一定の間隔でステアリングを叩いていた。
◇
目的の家に着くと、
そこは築50年は超える木造平屋だった。
昨夜同様に外壁に細いひびが無数に走り、窓は全て閉ざされている。生活の気配が、ひどく薄い。
三上はまず、加速度センサーを外壁に押し当てた。
数値は0.03G
建物の経年振動としては大きすぎる。
だが周囲に工事はなく、風も吹いていない。原因が見当たらなかった。
計測器の電源を入れると、波形が浮かぶ。
環境ノイズの下に、昨夜と同じ「波」を持った揺れ。まだ弱いが、確かに存在した。
18Hz帯
家の前に立つと、胸の奥が強く押された。
まるで空気の底から、低い振動がゆっくりと這い上がってくるような感覚だった。鼓膜ではなく、後頭部の奥が揺れる感覚で、昨夜と同じ圧迫感だった。
インターホンを押しても反応はなかった。
二度、三度。静寂だけが返ってくる。
郵便受けには、数日分の新聞とチラシが溢れていた。三上は家の横に回り、勝手口の扉に手をかけた。
鍵は——かかっていなかった。
ゆっくり押し開ける。
暗い廊下の奥から、湿った空気とともに低い震えが濃密に滲み出てきた。
その瞬間、胸の中心が強く振動した。視界の端が、水の底から覗いたように歪んだ。
息が浅くなり、心拍が乱れる。昨夜と同じ圧迫感が、再び強まっていた。
廊下を進むと空気が重く、壁に手をつくと掌に微かな振動が伝わってくる。この家自体が、ゆっくりと息づくかのように。
居間に辿り着くと、中年男性が、ソファに深く腰を下ろしていた。
目を開けている。しかし目の下に濃い隈ができ、顔色は悪い。
部屋のテーブルには、
複数の空の睡眠薬のシートが散らばっていた。
「……誰だ。なんだ、三上先生か。そうだな、先生なら何か分かるかもしれん…」
町内イベントなどで、何度か見かけた事がある黒川正人の声は、疲れ果てた響きを帯び掠れていた。
「なぁ先生、あれは何なんだ。先生にはあの音が聞こえないのか? もう、頭がおかしくなりそうだ」
黒川は乾いた笑いを浮かべた。
三上は計測器を構えながら、穏やかに聞いた。
男はゆっくりと顔を上げ、しばらく三上を見つめた。
「何度も聞こえるんだよ……あの音が」
三上は計測器を構えながら聞いた。
「音が聞こえるんですか。それは今も聞こえているんですか?」
男は小さく笑った。
しかし笑顔はすぐに消えた。
「最初は遠くで鳴っていた。でも最近は近い。家の中で鳴る……いや……頭の中かもしれない。夜中に目を覚ますと、もう鳴っていた。眠る前から鳴っていたのか、眠っている間に近づいたのか分からない」
三上はメモを片手に質問を重ねていく。
「聞こえる時間は決まってないが、まぁ夜中が多いな」
「聞こえる時間の長さは一定ですか」
「数分だったり、一時間だったり。決まってないな」
「その時に、何かスマホなどで録音は残りましたか」
「いや、残らなかった。スマホで撮ろうとしたら、何も入ってなかった」
男はテーブルに置かれた空のシートを指差した。
「もう、かなり飲んじまってるよ。医者には言ってない。言ったら、精神科に回されるだろうしな」
三上は周囲を見回した。
部屋は散らかっているが、
何者かが物色したような形跡はない。
「……最近はな」
黒川は掠れた声で、ようやく出会えた相談者に対して声を絞り出すように続けた。
「……音だけじゃないんだよ先生」
三上は顔を上げた。
「夢を見るんだ」
「夢……ですか。例えばどんな夢を?」
「玄関を叩く音とかだな」
黒川は視線を落とした。
「開けても誰もいない」
「でも分かる」
男の指先が震えていた。
「外にいるんだよ、あいつが!」
黒川は答えなかった。
代わりに、小さく呟いた。
「今さら現れやがって……何しに来たんだ……」
ただ、男の目には明らかに疲労と不安が浮かんでいた。
被害者たちに何か繋がりがある気がしてならない。
答えは音の壁の向こう側にあるように思えた。
男はゆっくりと立ち上がり、窓の外を眺めた時、ふと三上の視線が、棚の上で止まった。古い町内会の集合写真だった。
十数人の男女が並ぶ中に、黒川の若い頃の姿があった。
年代はバラバラ、一人の顔だけ不鮮明な写真の端には手書きで日付がある。
三年前。
その隣には、見覚えのある住所が記されていた。
新名修平が住んでいたアパートだった。
「何度か顔をお見かけしたことがあると思ってましたが、町内会長さんをやってらしたんですね」
三上が尋ねると、
黒川は一瞬だけ顔を強張らせた。
「もう、昔の話だよ」
吐き捨てるように言った。
それ以上は話したくない。そんな空気がはっきり伝わってきた。
「あの日のことは……もう終わった話だと思ってたんだがな」
声は小さく、しかしはっきりと聞こえた。
三上は計測器の画面を確認した。
302号室の主成分は18.31Hz。
今回のものは18.28Hz。
誤差の範囲内とも言える。
振幅は昨夜の三分の一以下だった。
少なくとも今すぐ致死的なレベルではない。
三上はメモ帳に走り書きした。
【観測ログ】
18.28Hz
振幅 0.14Pa
壁面振動あり(0.03G)
居住者は睡眠障害を訴える
録音成功せず
玄関脇に積まれた古い段ボールへ目を向けると、自治会議事録に廃棄予定と書かれた一番上の紙が半分だけ飛び出していた。
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【騒音・迷惑行為相談票】
発生場所:
○○アパート201号室
相談内容:
・夜間の泣き声
・叫び声
・壁を叩く音
対応状況:
「本人へ注意済み」
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三上は足を止めた。
昨夜、302号室で見た紙と同じだった。
しばらく注視した後、男の家を出る頃に計測器が短く反応した。波形の底に、再びノイズのようなものが浮かんでいた。
今度は住所ではない。
一行だけ。
" ミ テ イ タ "
偶然にしては再現性が低く、
意志があるようで、意志では説明できない“音のふるまい” 。
その文字は、数秒後にはノイズの中へ沈んでいく。
研究室へ戻る車中でも、胸の奥の濁った響きだけは消えなかった。
帰り際、三上の背中を見つめながら、黒川は声を落とした。
「先生、もし俺が死んだら……俺だけ責めるなよ」




