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死の周波数──18.3Hzの振動  作者: 比古狭霧


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第1話 『Vic Tandyの実験』

【音声記録ログ No.17】

被験者:男性(42歳)

場所:市営アパート302号室


00:00:01  

環境ノイズ(冷蔵庫50Hz、換気扇60Hz)


00:00:03

心拍数 72→91


00:00:04

呼吸が急激に乱れる


00:00:05

未知の低周波成分 18.3Hz 急激に立ち上がる


00:00:06

発声「ちょっと待っ──」


00:00:06.4

重い転倒音


00:00:07

心拍停止


00:00:08

18.3Hz 完全消失


【記録終了】


再生を止めた瞬間、

研究室の空気が一瞬で静寂の底に落ちた。


モニターの青白い光だけが、

表情をなくした三上直哉みかみ なおやの顔を

不気味に下から照らしている。


38歳の心理音響学者は、

椅子に深く背を預け、長い息を吐いた。

指先がわずかに震えていた。


これまで3件の突然死現場で、

同じ周波数が死の直前数秒だけ出現し、

死を待つと同時に消えることを確認していた。


再現性は極めて高い。偶然ではない。

科学者として、そう結論せざるを得なかった。


もちろん、最初から信じられる類の話ではない。


一件目は計測器の故障を疑った。

二件目は近隣工場の振動ノイズを疑った。

三件目では、別メーカーの機材を持ち込み、

測定者も変えた。


それでも結果は同じだった。

死亡推定時刻の数秒前。


18.3Hz


心拍異常。

そして停止。


3つの現場は互いに5キロ以上離れている。


建物の構造も違う。

周辺環境も違う。


共通していたのは、

死者だけだった。


大学の倫理委員会へ報告した時、

返ってきた答えは簡潔だった。


「因果関係は証明されていない」


当然だ。


周波数が人を殺すなど、

科学者である三上自身ですら認めたくない。


だが、3件の死亡ログを並べた時、


偶然という言葉の方が、

よほど非科学的に思えた。


18.3Hz


人間の可聴下限である20Hzをわずかに下回る、

極めて低い帯域。


耳では捉えられないのに、

胸腔や内臓に直接響き、身体全体を振動させる。


1998年にVic Tandyが報告した

「18.98Hzの幽霊現象」と同じ領域だ。


不安感、視界の揺れ、胸の圧迫——


そして極限状態では

心臓への致命的な干渉を引き起こす可能性がある。


だが、今日の通報内容は

これまでのすべてを覆すものだった。


「誰も死んでいない部屋から、

 その周波数が鳴り続けている」


という、信じがたい報告。


しかも通報者は、

その現象を「音」ではなく

「周波数」と表現した。

一般人ならまず使わない言葉だ。


声は震えていた。

だが、それ以上に気になったのは、

その人物が"以前にも同じものを知っている"

ような口ぶりだったことだ。


最初は悪戯だろうと考えた。


順番が逆だ。

死ぬ前に、周波数が先に鳴っている。


死を待つのではなく、

死を招く周波数とでも言うのだろうか。


「……まるで、死神だな」


空虚な独り言は、静まり返った研究室に反響した。


三上は車に低周波対応の高感度マイクと、

三軸加速度センサーを慎重にバッグに詰め込んだ。


ここ数ヶ月で何度も調整を重ね、

死の直前の18Hz帯を捉えるために最適化した機材だ。


外に出ると、

湿気の重さが三上の肌と夜を包み込む。


風の気配すら吸い取られ、

月だけが薄霧の向こうでぼんやりと震えている。


この谷間の町では、

夜の音がゆっくりと逃げ場を失くす。


古い建物と地形が、

まるで巨大な蜷局の共鳴腔のように

低周波を閉じ込め、増幅させる。


市営アパートに着いたのは午前1時47分。


築40年を超える古びた建物。

外壁に走る細かいひびの奥に沈んだ暗がりは、

時間の牙が抉り取った傷跡のように見えた。


階段は上がるたびに鈍く軋み、

錆びついた足音が吸い込まれるように消えていく。


廊下の空気はどこか湿り、照明は弱々しく、

光よりも影のほうが幅を利かせている。


壁のシミは、かつての雨漏りの名残か、

あるいは住人たちの気配が沈殿して染みついたものか。


歩くたび、足元の床材が低く呻きながら

わずかに沈み、建物の疲れを語る。


長年の湿気と埃が積み重なった入口には、

呼吸の気配は感じられず、

時間そのものが凝固したような重苦しさが漂っていた。


その沈殿した空気の中に、

“人ではない何か”が混じっているような気がした。


形を持たず、温度もなく、

ただそこに居続けるだけの存在が。


302号室の前に立った瞬間、

胸の中心がゆっくり押される感覚が襲った。


78、83、89、93……


心拍計の画面は、

階段を上っただけでは説明できない上昇を見せる。


その横で、

計測器の主成分がゆっくり立ち上がる。


17.8Hz、18.0Hz、18.2Hz


そして——


18.3Hz


三上は無意識に息を止め唾を飲み込んだ。

身体の異変と波形が一致している。


築40年の建物特有の沈み込みでわずかに傾き、

ドアは完全には閉まりきらず、

ほんの数ミリの隙間が常に空いている。


その隙間からは、

外よりも冷たい空気がゆっくりと漏れ出し、

“中に何かが息を潜めている”気配を漂わせる。


壁の奥、配線の隙間、

そして入口の暗がりに沈む“影”までもが、

その振動に合わせてゆっくりと脈打っている。


計測器の画面に波形が浮かぶ。

空気の底から、低い振動が這い上がってくる。

このアパートに積もった時間が微かに震えている音のようだ。


ドアはわずかに開いていた。

通報者が開けたまま逃げ出したのだろう。


三上は慎重にドアを押し、中へ入った。

蝶番が小さく鳴った。


部屋の中は暗く、湿った空気が充満していた。

台所の奥で冷蔵庫の駆動音だけが、単調に続いている。


流しには洗っていない皿が残り、

テーブルには開きかけのコンビニ弁当と、

回覧板が置かれていた。


この部屋に数時間前まで温度が居たことだけは、

はっきりと分かった。


町内会の役員名簿。

男の名前には何本もの書き込みが目に入る。

赤ペンで書かれたメモ。


「例の件確認済」

「住民対応」

「苦情受付」


その下に挟まれていた古いコピー用紙が、

ふと目に留まった。


--------------------------

【騒音・迷惑行為相談票】


発生場所:

○○アパート201号室


相談内容:


・夜間の泣き声

・叫び声

・壁を叩く音


対応状況:

「本人へ注意済み」

--------------------------


日付は3年前。


相談者欄には、複数人の名前が並んでいた。

だが対応結果は、たった一行だけだった。


"本人へ注意済み"


三上は眉をひそめた。


叫び声、泣き声、壁を叩く音。

それだけ続いて、対応は一度きり。


紙の端には、

赤ペンでこう追記されていた。


"以後対応不要"


その文字を眺めながら

無意識に深く観察を始めようとしたが、

床の中央に仰向けに倒れている、

体温を失くした1人の男に

優先順位を奪われる。


40代前半。目は半開きのまま天井を向いている。

外傷はない。争った形跡もない。


冷蔵庫の50Hzと重なりながら、

見えない低い唸りが部屋全体を満たしていく感覚の中、

三上はしゃがみ込み、脈を確認した。

冷たい。既に死後硬直が始まりかけている。


そのときだった。


計測器が短く反応した。

波形が立ち上がっていた。


18.3Hz


先刻と同じく、思わず息を止める。

死が息づく周波数は、今度は数秒だけ現れすぐに消えた。


呼吸を思い出すと男のそばにスマートフォンが落ちていた。

録音アプリが開いたまま、停止ボタンだけが赤く光っている。


三上は手袋をはめ、再生を押した。


4件目の死に際で最初に聞こえたのは、

荒く浅い呼吸音だった。

喉の奥が擦れるような音が混じる。


『うるさい……うるさいんだよ……!』


男の声が、壊れたように飛び出した。


『見てたよな……』

『知ってたよな……』

『お前も……見てたよな……!』

『なのに何もしなかった……!』


声が一瞬裏返り、次の瞬間、激しく途切れた。

喉の奥で肉が潰れるような湿った音、

心臓が不自然に大きく跳ねるような、

重く鈍い衝撃音がした。


その直後——

すべてが、急激に、まるで満足したように

ゆっくりと底知れぬ静寂に飲み込まれた。


誰の声なのか分からない。

男本人の声が歪んだものか、それとも——

この部屋そのものが、吐き出した別の「何か」なのか。


“見てたよな”


録音のはずなのに、その部分だけが、

耳ではなく頭の内側から響いてくる。


男の掠れた声が流れる。

そして、録音には入っていないはずの、

低い唸りが混じる。


スマホのスピーカーからではなく、

部屋の空気そのものから直接響いてくるような、

不気味な感覚。音のない機械的な結合感。


何か——この町に長年積もったものが、

まるで周波数の形を得たかのように、

物理的な波として顕在化し、

空気の底で微かに震えていた。


三上は画面を見つめたまま動かなかった。

無意識に自分の胸を押さえた。

心拍が上がっている。静かで粘つく恐怖。


再生を止めた後も、何かが引っかかった。

恐怖ではなく、もっと別の感情。

責められている……、そんな感覚に近い。


記憶の糸を手繰り寄せようと試みるが、

それはあまりにもか細く、あまりにも無数過ぎる。


計測器をもう一度確認する。

波形は出ていない。数値も正常だ。

それでも、違和感だけが残る。


録音データを解析ソフトへ転送した。

数秒後、スペクトラム上に奇妙な乱れが現れる。


18.3Hzのキャリア波の谷間に

ノイズではない「影」のようなものが浮かんでいた。


つぶさに拡大した画面を観察すると、

波形がゆっくりと輪郭を持つ。

歪んだ線の並びが、意味を持つ形のように見えた。


“レ”


その隣に、


“ナ”


三上は眉をひそめた。


玲奈。


藤堂玲奈とうどう れな

数日前、この町へ取材に来た新聞記者。


ある人物について、

谷間の町を聞いて回っていた。


「新名修平の件です」

「町の人たちは何を知っているんですか」

その質問だけが妙に記憶に残っている。


波形はすぐに崩れ、音の底へ沈んでいった。

ただのノイズだったのかもしれない。

解析ミスだったのかもしれない。

余地は、まだ残されていた。


手のひらに残る機械の温度と共に部屋を出ると、

空がわずかに白み始め、思っていた以上に冷たかった。


302号室は何も語らず、

開ききらないドアだけが、夜の終わりに取り残されていた。


風はなかった。それでも三上には、

あの部屋の奥で何かがまだ息を潜めているように思えた。


死の直前に現れるはずの18.3Hzが、

今夜は死を送り出した後にも残響し、

その波形の中に、忘れていない名前がある。


三上はスマートフォンの録音をもう一度確認した。

何度聞いても、男の最後の叫びは同じだった。


"見てたよな"

"知ってたよな"

"何もしなかった"


小さな声が身体の内側に響く。

まるで何かを見落としている自分へ、

警告音を鳴らすように。


三上は目を閉じた。


もし、昨夜の叫びが、

ただの幻聴ではなかったとしたら。


もし、あの男が死の直前に聞いていたものが、

本当に"誰かの声"だったとしたら。


助けを求める声を、

人は何度まで聞こえなかったことにできるのか。


そして、聞こえなかったふりをした代償は、

いったい誰が、どのようにして払うべきなのだろうか。

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