残された手段がもうない
手紙を書くのに、三日かかった。
何を書けばいいのか分からなかった。謝罪の言葉はいくらでも思いつく。「俺が間違っていた」「考え直してほしい」「もう一度だけ会ってほしい」。どれも正しい。どれも本心だ。けれどどの言葉を並べても、紙の上では薄く見える。口で言えば声の温度が補ってくれるのに、文字にすると温度がない。
三日目の夜、ようやく書き上げた。短い手紙だった。
「セレスティーヌ。俺が間違っていた。君に会って、直接伝えたいことがある。考え直してほしい。」
読み返すと、言葉が足りない気がした。もっと書くべきだろうか。何が間違っていたのか。何を反省しているのか。けれど具体的に何を書けばいいかが、分からない。婚約破棄のことか。ロザリンドに婚約者の存在を隠したことか。「退屈な婚約者」と呼んだことか。全部なのかもしれないが、全部を書いたら手紙が長くなりすぎる。
長い手紙は読まれない。そう思って、短いまま封をした。結局、何を書いても足りない気がする。けれどこれ以上は書けなかった。
蝋を溶かし、自分の紋章を押す。蝋が固まるまでの数秒間、指先で押さえている。以前、この仕事をしていたのは誰だったか。一瞬だけ考えて、思い出す前にやめた。
手紙は三日で戻ってきた。
グスタフが盆に載せて持ってくる。最初は返事が来たのかと思った。けれど封筒を見て、胸の底が冷える。自分の手紙だった。宛名も、封も、そのまま。蝋封が切られていない。指で触った跡すらない。
開けなかったのだ。
読まずに返した。中身を確かめもせず、自分の言葉を受け取ることすら拒んだ。蝋封の表面は滑らかなままで、誰の指も触れていない。自分が三日かけて溶かし、押した紋章が、そのままの形で戻ってきた。
かつて、この蝋封の仕事をしていた人がいた。毎朝、殿下の紋章を蝋に沈めて、書簡に封をしていた人。あの人が封をした書簡は各国に届き、開封され、読まれ、返答を受けた。あの人の封には、信頼が宿っていたのだ。自分が押した封には、開ける価値すらない。
グスタフは何も言わなかった。盆を置いて、静かに下がる。
手紙を机の上に置き、しばらく見ていた。未開封の手紙。これが、自分に対するセレスティーヌの返事だった。不在そのものが答えになっている。読まないという行為が、どんな言葉よりも明確に拒絶を示している。
手紙では駄目だ。別の方法を考えなければ。
翌日、母后を訪ねた。
「母上にお願いがあります。辺境伯領のセレスティーヌに、宮廷に戻るよう伝えていただけませんか」
母后は息子の顔を見て、少し黙った。舞踏会の夜のことも、ロザリンドが去ったことも、母は知っている。知っていて何も言わなかった人だ。今も、しばらく黙った後で頷いた。
「行ってまいります。ただし、フィリベール。辺境伯が承諾するとは限りませんよ」
「俺が間違っていたと伝えてください。セレスティーヌが戻ってくれるなら、何でもする」
何でもする、という言葉を口にしたとき、自分でも少し驚いた。王子が「何でもする」と言うのは、体面を捨てるのと同じだ。けれど今は体面よりも、セレスティーヌが戻ってくることのほうが大事だった。彼女がいなければ、外交も、宮廷の評判も、何も立ち行かない。
母后は二日後に辺境伯領へ出発し、その日のうちに戻ってきた。
日帰り。一泊の予定で出かけたはずが、日帰りで戻っている。つまり、邸に泊まることすら許されなかったということだ。王族の母后を、辺境伯は門の前で帰した。門前払い。王族に対する門前払いは、外交上の侮辱に等しい。けれど辺境伯はそれを承知の上で行った。それほどの怒りだということだ。
母后の表情は静かだった。怒りではない。困惑に近い。自分の息子のために出向いて、門前で断られた人の顔。息子の行いが、こういう結果を招いたのだと理解している人の顔。
「辺境伯はお怒りでした。静かな方ですが、あの静かさは、怒りを飲み込んでいる静かさです。娘御のことを、あの方は許していません」
「何と言っていましたか」
母后は一呼吸置いてから、辺境伯の言葉をそのまま伝えた。
「殿下は娘を、恋人に紹介できない存在としてお扱いになりました。紹介できない相手に、戻ってほしいと仰る資格が、どこにございますか。」
紹介できない存在。
その言葉が、フィリベールの中で引っかかる。
紹介できない。ロザリンドに、セレスティーヌの存在を伝えなかった。婚約者がいることを隠した。紹介できない相手。紹介する必要がないと思っていた。政略で決められた婚約で、形だけのもので、自分にとっては義務でしかない。だから紹介しなかった。
それがどういう意味を持つか、考えたことがなかった。紹介しないということは、その人がいないことにするということだ。存在を消すということだ。
けれど辺境伯の言葉は、それを許さなかった。紹介しなかったのは、存在しないことにしたのと同じだと。二年間隣にいた娘を、透明にしたのだと。
刺さる。しかし刺さったのは、セレスティーヌを傷つけたことへの痛みよりも、「その扱いをしたから戻してもらえない」という現実のほうだった。
間違いだったと認める。悪かったと思う。だが、だからといって戻ってくれないのか。こちらは反省している。何でもすると言っている。セレスティーヌが戻ってくれれば、全部元に戻る。外交も、宮廷の評判も、生活も。彼女さえ戻れば。
その考えのどこが自己中心的なのか、フィリベールにはまだ分からない。
許されない。
手紙は開封されず、母は門前払いされた。手紙で届かず、母の仲介でも届かない。残されているのは、直接会って伝えるしかない。
通商式典がある。各国の外交官が集まる公式の場だ。セレスティーヌが辺境伯領の実務を担当しているなら、出席する可能性がある。公式の場なら、辺境伯も門前払いはできない。そこで会えれば、直接話せる。
直接話せば、伝わるはずだ。手紙では伝わらなかった言葉が、声で伝われば届く。俺の言葉を聞けば、分かってくれるはずだ。セレスティーヌは賢い人だ。直接顔を見て、声を聞けば、俺が本気で反省していることが伝わる。きっと。
そう思わなければ、もう何も手段がない。
机の上に、未開封の手紙がある。蝋封は滑らかで、誰の指も触れていない。この手紙を書くのに三日かかった。三日かけた言葉を、読んですらもらえなかった。
手紙は返され、母は門前払いされた。残された手段が、もうない。




