自分のために泣けない
通商交渉の第二ラウンドは、前回よりも難航した。
リヴァーシュ本国から追加の指示が届き、交易品目の一部について税率の引き上げを強く求めるよう命じられていた。アドリアンの裁量の幅は狭まっている。相手国との妥協点を探るには、こちらの事情を読み取れる交渉相手が必要になる。
セレスティーヌ・ド・モンフォールは、その交渉相手だった。
追加要求を提示したとき、辺境伯領側の交渉官たちが顔をしかめる。無理もない。前回の合意から一歩踏み出した要求だ。だがセレスティーヌは資料を一枚めくっただけで口を開いた。
「リヴァーシュ側の追加要求は、本国の国内事情に基づくものと拝察します。であれば、品目を限定した上で段階的な引き上げとし、辺境伯領への影響を緩衝期間で吸収する形が双方にとって現実的かと存じます」
的確だった。こちらの事情を推測し、双方が受け入れられる落としどころを一手で提示している。前回の交渉で見た力は偶然ではなかったと、改めて確認する。この人は、交渉の地図を頭の中に持っている。相手がどこにいて、どこに向かおうとしていて、どこなら合流できるかを見通せる人だ。
交渉は予定より早く決着した。
食堂で遅い昼食を取っていると、他の出席者が退室し、セレスティーヌとアドリアンだけが残った。窓際の席で、食器はすでに下げられている。テーブルの上には交渉の覚書だけがある。
セレスティーヌの手元を見た。覚書に注釈を書き加えている。辺境伯の名前で出される文書に、セレスティーヌの筆跡で書かれた注釈。この字はこの人自身のものなのに、署名欄に載るのは別の名前だ。前回の交渉のときも同じことを思った。この人の仕事は、この人の名前で出ない。王宮でもそうだったのだろう。
話したいことがあった。前回の交渉のあと、辺境伯領の周辺から噂が流れてきた。第二王子が婚約者を破棄したこと。その婚約者が辺境伯の娘だったこと。そして最近、王子の恋人が王子のもとを去ったこと。噂の真偽は確かめていない。確かめる立場にないし、確かめたいわけでもない。ただ、目の前にいるこの人が、その渦中にいたことは分かる。
「モンフォール嬢、少し立ち入ったことを聞いてもいいか」
セレスティーヌがペンを止め、顔を上げる。
「王宮のことは……いや、すまない。これは俺の領分じゃない」
言いかけて、引いた。交渉相手の私事に踏み込む権利は、アドリアンにはない。知りたい気持ちはある。だがそれを尋ねることが彼女にとって何の助けにもならないなら、知りたいという感情は飲み込むべきだ。
セレスティーヌはしばらく黙っていた。ペンを置き、覚書の上で手を組む。それから、静かに言った。
「……触れていただいても、構いません」
予想していなかった。この人が自分から許すとは。前回の交渉のときも、今日の交渉の席でも、この人は自分のことを語らない。辺境伯の代理として、実務担当として、常に枠の中にいる。自分という個人を、枠の外に出すことを避けている人。
その人が「触れていい」と言った。枠を、自分から少しだけ開けている。
「君は、あの人に戻る可能性を、まだ残しているのか」
「いいえ」
即答だった。迷いのない声。けれどその後に、少し間があった。
「ただ……私は、役に立たなければ、ここにいていい理由がないのです。」
声は落ち着いている。感情を込めずに、事実として述べている。それが余計に重い。この人にとって「ここにいていい」ことと「役に立つ」ことは同義になっている。婚約者として役に立ったから王宮にいた。役に立たなくなれば、いる理由がない。辺境伯領でも同じことを考えている。交渉の実務ができるから、ここにいていい。できなくなれば、いる場所がない。
「ここにいていいかどうかは、君が決めることだ。俺が決めることじゃないし、前の婚約者が決めることでもない。」
セレスティーヌがこちらを見た。何か言おうとして、けれど言葉が出ない顔。この人がこういう顔をするのを、アドリアンは初めて見た。いつもは完璧に言葉を選び、的確に返す人が、返す言葉を持っていない。交渉の席では一度も見せなかった表情。枠の外に、ほんの少しだけ出ている。
アドリアンは窓の外に目を移した。踏み込みすぎたかもしれない。だが引くのも違う気がした。ここで引けば、この人はまた枠の中に戻る。「辺境伯の代理」という枠。役に立つから許される、という枠。その枠は、誰かがこの人のために作ったものではない。この人が自分で作った檻だ。
「俺は公爵家の三男だ」
自分の話をするのは得意ではない。外交官は相手の話を聞く仕事であって、自分の話をする仕事ではない。だが今は、この人に対等な重さを渡すべきだと思った。こちらだけが相手の内側を覗いて、自分は何も見せないのでは、交渉にならない。
「三男には何も期待されない。家を継ぐのは長兄で、軍務は次兄が負う。三男は余りものだ。家にいても椅子がない。だから俺は自分の力で外交官になった。期待されなかった分、自分で立つしかなかった。立つ場所を、自分で見つけるしかなかった」
セレスティーヌは黙って聞いている。
「君は逆だ……力があるのに、自分のものだと思えない。俺にはそれが、少しもどかしい。」
もどかしい、という言葉が、自分でも予想していなかった感情を含んでいた。外交次官として、交渉相手の能力を評価している。それは確かだ。だが「もどかしい」は、評価の言葉ではない。もっと個人的な感情だ。この人が自分の力を自分のものだと思えないことが、自分にとって何か居心地が悪い。鏡を見ているような感覚。期待されなかった自分と、力を認められなかったこの人。傷の形は違うのに、歪み方が似ている。
セレスティーヌの目が潤んでいた。
泣いてはいない。泣く手前で止まっている。唇が一瞬だけ震え、すぐに引き結ばれる。姿勢が正される。背筋が伸びる。感情を、体の形で押し戻している。
「……明日の交渉資料を、確認しておかなければ」
声は平らだった。さっきまで潤んでいた目が、もう実務の目に戻っている。覚書を手に取り、注釈を読み直し始める。辺境伯の代理として。実務担当として。誰かのために立つことで、自分を保っている。
アドリアンは何も言わなかった。今は言うべき言葉がない。ただ、ここで見ている。
この人は、誰かのために立っている限り、自分のために泣けない。




