たった一つの嘘で、全部を失った
夜の執務室は静かだった。
蝋燭の火が揺れている。窓の外は暗い。いつもなら、この時間にはグスタフが明日の予定を持ってくる。今夜は来なかった。来ない日が増えている。側近に避けられているのか、それとも持ってくる予定がないのか。どちらでも同じことだ。
机の引き出しに手を伸ばした。
前回ここを開けたとき、中にあった束を見て、すぐに閉じた。今は読む必要がない。体制が整えば元に戻る。新しい補佐が見つかる。そう自分に言い聞かせて、引き出しを閉めた。
何も見つからなかった。何も戻らなかった。体制は整わず、補佐は見つからず、元に戻るという言葉だけが空回りしている。
引き出しの奥から、束ねられた書簡の控えを取り出す。
最初の一枚を開いた。ブランシュ公国への通商書簡。署名は自分の名前。だが本文の筆跡は違う。セレスティーヌの字だ。細く、正確で、一字の乱れもない。余白に注釈が添えてある。
「ブランシュ公国の通商規約第十二条。関税に関する条項。前回の交渉時、相手国は第三項の免除規定を根拠に反論。再度引用する場合は免除規定の失効期限を確認のこと」
第十二条。ブランシュの使節ヴァランス卿との会食で、自分が第七条と間違えた条項だ。この注釈を読んでいれば、あの夜の失態はなかった。注釈はずっとここにあった。自分が読まなかっただけだ。
二枚目を開く。リヴァーシュとの交易路に関する書簡。これもセレスティーヌの筆跡。注釈には相手国の主張の傾向、過去の交渉での譲歩ライン、次の交渉で押すべきポイントが書かれている。一枚の書簡に、一回の交渉の全体像が凝縮されている。
三枚目。クレール公国への挨拶状の控え。挨拶状にすら注釈がある。「公国の大使は長男の婚姻を控えている。冒頭の挨拶で触れると好感を得やすい」。こんな細かいところまで。
四枚目。五枚目。六枚目。
めくるたびに、自分の知らなかった仕事が出てくる。隣国の大使の好む茶の銘柄まで注釈に書いてある。式典の会食で隣席に座る人物の家族構成と、避けるべき話題。贈答品の選定に関する助言。会議で使う数字の出典と、相手国が反論に使いそうな別の数字。
全部、セレスティーヌが調べて、書いて、整えていた。
自分が使節の前で「我が国としては」と語るたびに、その「我が国」の言葉を作っていたのは彼女だった。自分は器だった。中身を注いでいたのはセレスティーヌで、自分はその器を持って立っていただけだ。器が立派に見えたのは、中身が良かったからに過ぎない。
どの書簡にもセレスティーヌの筆跡がある。どの書簡にも注釈がある。署名だけが自分の名前で、それ以外のすべてが彼女の仕事だった。
自分は何をしていたのだろう。署名をして、使節の前で堂々と語って、「第二王子殿下は外交に明るい」と褒められて。褒められていたのは自分ではなく、この書簡を書いた人間だった。自分はただ、彼女の仕事の上に立っていただけだ。
彼女に、一度でも礼を言ったことがあるだろうか。
考えて、ない、と分かった。
一度もない。書簡を受け取り、署名して、返した。「ありがとう」も「助かった」も言わなかった。彼女が差し出すものを、空気のように吸っていた。空気に礼を言う人間はいない。だが空気がなくなれば、息ができなくなる。
今、息ができない。
書簡を机の上に広げたまま、椅子の背に体を預けた。蝋燭の火が揺れ、書簡の上に影を落とす。
数える。失ったものを、一つずつ。
ロザリンドは去った。庭園で「殿下の真実の愛は、殿下の嘘を許せませんでした」と言って。あの言葉は正確だった。真実の愛だと宣言しておきながら、その愛を嘘で守ろうとした。嘘がなければ成り立たない愛は、真実ではない。ロザリンドはそれに気づいた。自分よりずっと先に。
セレスティーヌへの手紙は返送された。蝋封のまま、開封されず。三日かけて書いた言葉を、読んですらもらえなかった。蝋封の表面は滑らかで、指の跡がない。その手紙はまだ机の隅にある。捨てることもできない。かといって送り直す勇気もない。同じ手紙が同じ形で戻ってくることが分かっているから。
母后の仲介は拒否された。辺境伯は母を門前払いにした。王族の母を、門の前で帰した。「紹介できない相手に、戻ってほしいと仰る資格がどこにございますか」。あの言葉の重さが、日が経つほどに増してくる。最初に聞いたときは「厳しい」と思った。今は「正しい」と思う。紹介できない存在としてセレスティーヌを扱ったのは自分だ。ロザリンドに婚約者の存在を隠した。いないことにした。二年間いた人を、いなかったことにする。それが「紹介できない」の意味だ。辺境伯はそれを許さなかった。娘を透明にされたことを、武門の父は許さない。
外交の信用は地に落ちた。通商会議で議題の順序を間違え、ブランシュの使節には皮肉を言われ、各国の大使は会議後に残らなくなった。以前は自分の周りに人が集まった。今は避けられている。信頼に足る交渉相手だと見られていない。
宮廷では噂が定着している。「婚約者に嘘をつき、恋人にも嘘をついた王子」。そして「退屈な婚約者」と呼んでいたことも広まった。あの言葉は側近に漏らしただけのつもりだった。けれど言葉は広がる。壁に染みるように、宮廷の隅々にまで。
今、退屈だと言われているのは自分のほうだ。「退屈な王子」「嘘をつく王子」「補佐がいなければ何もできない王子」。自分がセレスティーヌに貼った名前が、形を変えて自分に返ってきている。退屈だと呼んだ人間が去った後、退屈になったのは自分の世界のほうだった。
グスタフは正論を言った。「殿下は嘘をお一つつかれました。その一つが、すべてを壊しました」。あのとき、言い返せなかった。言い返す言葉がなかった。グスタフの言葉は正確だった。嘘は一つだ。婚約者がいることをロザリンドに隠した。それだけ。
たった、それだけのことだった。
書簡の束の下に、小さな木箱がある。開けると、蝋印が入っていた。自分の紋章の蝋印ではない。書簡の封に使う、実務用の印。セレスティーヌが毎朝使っていた道具。蝋を溶かし、この印で封を押し、書簡を整えていた。
この印は彼女の手に馴染んでいたはずだ。毎朝、蝋が固まるまで指先で押さえていた。自分の紋章を、自分の代わりに押してくれていた。あの朝の習慣を、自分は一度も見たことがない。毎朝行われていた仕事を、一度も見に行かなかった。見る必要がないと思っていた。彼女がやるのが当然だと思っていた。
もう、この印を使う人はいない。新しい補佐を雇っても、この印に手を馴染ませるまでに時間がかかるだろう。いや、問題はそこではない。印を使う人間がいないことではなく、この印を使いたいと思ってくれた人間を、自分が追い出したことだ。
蝋印を手のひらに載せた。冷たい金属の感触が、手の中で少しずつ温まっていく。彼女が毎朝、こうして手の中で温めていた道具。
「たった一つの嘘だった。あの子がいることを、ロザリンドに言わなかった。それだけで、全部が壊れた。」
声に出して言った。静かな執務室に、自分の声だけが落ちる。返事はない。当然だ。ここには誰もいない。セレスティーヌはいない。ロザリンドもいない。グスタフは来なかった。自分一人で、自分の声を聞いている。
通商式典がある。最後の手段だ。あの場にセレスティーヌがいれば、直接伝えられる。反省していること。間違いだったこと。戻ってほしいこと。直接会えば、言葉が届くはずだ。手紙では届かなかった。母の仲介でも届かなかった。だが直接顔を見れば、声を聞けば、きっと届く。
だが、自分はまだ分かっていない。
戻ってほしいのは、彼女のためではない。自分のためだ。彼女がいなければ、自分は何もできない。その事実が痛いのであって、彼女を傷つけたことが痛いのではない。その違いに、自分ではまだ気づけない。
蝋燭の火が揺れている。書簡の控えが机の上に広がっている。蝋印が手のひらに載っている。全部、彼女の痕跡だ。自分の執務室に、自分のものではないものが溢れている。この部屋の仕事は、全部彼女のものだった。
たった一つの嘘で、全部を失った。




