私はもう、殿下の婚約者ではございません
通商式典の大広間は、舞踏会の夜と同じ白百合の香りがした。
けれど立っている場所が違う。あの夜は壁際にいた。殿下の婚約者として、目立たない場所で、温くなったグラスを持って。今日はリヴァーシュの実務官として、使節団の席に並んでいる。辺境伯領との通商条約の締結を受けて、リヴァーシュ外交次官アドリアン・ド・ヴァロワの随行実務官という肩書が与えられていた。
自分の名前で、ここにいる。
大広間には各国の外交官が揃っていた。ブランシュ公国のヴァランス卿。クレール公国の大使。その他の同盟国、中立国の使節たち。宮廷の貴族も列席している。式典は通商条約の署名式で、本来ならば儀礼的な行事に過ぎない。
父が来ていた。辺境伯は式典の出席者として、辺境伯領側の席についている。セレスティーヌと目が合ったとき、小さく頷いた。何も言わなくていい、という頷き。
広間の反対側に、フィリベールがいるのが見えた。
距離がある。大広間の端から端まで、五十歩は離れている。この距離があれば大丈夫だと思った。式典が終わるまで近づかなければ、何事もなく終わる。
式典の第一部が終わり、署名が済んだ。各国の使節が立ち上がり、杯を手に歓談に移る。セレスティーヌはリヴァーシュの使節団と共に東側の柱の近くに立ち、隣国の外交官と挨拶を交わしていた。
足音が近づいてきた。
自分に向かっている足音だと、分かった。歩幅の広い、少し急いだ足音。以前は聞き慣れていた足音。
「セレスティーヌ」
振り向くと、フィリベールが三歩先に立っていた。
大広間が、静まった。会話をしていた外交官たちが口を閉じ、杯を持つ手が止まる。フィリベールとセレスティーヌの間に、百人の視線が集まっている。あの舞踏会の夜と同じ構図。けれど今度は、切り捨てる側と切り捨てられる側が入れ替わっている。
フィリベールの顔は、蒼ざめていた。蒼ざめているのに笑おうとしている。その中途半端な表情が痛々しい。
「セレスティーヌ。……頼む、話を聞いてくれ」
声が震えていた。舞踏会の夜、「真実の愛を見つけた」と宣言したときの堂々とした声とは別の声。追い詰められた人間の声。手紙は開封されず、母は門前払いされ、残された最後の手段がこの場だった。そう知っている。この人がここに来たのは、他に行く場所がないからだ。
「俺が間違っていた。全部、俺の責任だ。やり直させてくれ。」
大広間に、フィリベールの言葉だけが響いた。各国の外交官の目が、セレスティーヌに向く。どう応じるのか。この場の全員が、答えを待っている。
セレスティーヌは一呼吸だけ置いた。
心の中は、静かだった。怒りはない。恨みもない。悲しみは、もう通り過ぎた場所にある。ただ一つだけ、はっきりしていることがある。この人の隣に戻る理由が、何もない。
「お気持ちは、ありがたく存じます。ですが……私はもう、殿下の婚約者ではございません。殿下がそうお決めになったのです。」
声は震えなかった。大きな声でもない。大広間の半分にしか届かない程度の、丁寧な声。けれどその声は、沈黙の中で硝子のように響いた。
フィリベールの唇が動いた。何か言おうとしている。「だが」か「待ってくれ」か。言葉を探している顔だった。
その前に、父が一歩前に出た。
辺境伯の足音は静かだった。武門の当主は、大広間でも足音を立てない。けれどその一歩は、百人の視線を集めた。
「殿下は娘を、恋人に紹介できない存在としてお扱いになりました。紹介できない相手に、もう一度選ばれる理由がございません。」
低い声だった。怒鳴っていない。声を荒らげてもいない。静かに、地面に沈むような声で、事実だけを述べた。辺境伯の怒りは声に出ない。声の低さだけが、飲み込んだ怒りの深さを示している。
フィリベールが辺境伯を見た。言い返そうとして、言葉が出ない。「紹介できない存在」という言葉は、母后から聞いたときよりも、この場で百人の前で言われたほうが重い。辺境伯の視線は静かだが、その奥に、娘を差し出した父の怒りが凝縮されている。
そこへ、もう一つの声が続いた。
アドリアンが一歩前に出ていた。以前なら引いた場面だった。「俺の領分じゃない」と身を引いた人が、今度は引かない。領分を超えてでも言うべきことがあると、この人は判断した。
「貴国の王子は、信頼で築くべき関係を嘘で始められた。外交も恋愛も、信頼がなければ成り立たない。それを殿下に教えてくださったのは、他でもないセレスティーヌ殿のご不在だったのではありませんか。」
外交官の言葉だった。感情を込めず、事実を述べている。けれどその事実の重さが、フィリベールの最後の足場を崩した。辺境伯の正論が「父としての怒り」なら、アドリアンの正論は「外交官としての評定」だ。私情ではなく、構造として、この王子は信頼に値しないと述べている。
フィリベールは何も言い返せなかった。
大広間の沈黙が、彼の返事の代わりになっている。百人の外交官と貴族が見守る中で、王子は一言も返せずに立ち尽くしている。
広間の隅に、ロザリンドがいるのが見えた。辺境伯家の遠縁として出席しているらしい。白い花をつけていない。以前の華やかさは影を潜め、落ち着いた装いになっている。ロザリンドの目がフィリベールを見ていた。「真実の愛」と呼ばれた自分の前で、フィリベールが別の女性にすがっている。その光景を、静かな目で見ている。
あの目に映っているのは、もう怒りでも悲しみでもないのだろう。確認。この人は、誰も本当には愛していなかったのだ、という確認。婚約者を「退屈」と切り捨て、恋人に嘘をつき、今は元婚約者にすがっている。真実の愛を宣言した相手の前で、別の女性に「やり直させてくれ」と言える人。ロザリンドの静かな目は、その全てを見ている。
式典は続いた。フィリベールは何も言わないまま、自分の席に戻った。歩いている背中が小さい。
署名式の残りが終わり、各国の使節が退場していく。セレスティーヌはリヴァーシュの使節団と共に広間を出た。
廊下に出ると、アドリアンが待っていた。
柱に寄りかかって腕を組んでいる。セレスティーヌが来るのを見て、組んでいた腕を解いた。
「大丈夫か」
「はい」
短い返事だった。大丈夫だった。大丈夫だということに、自分でも少し驚いている。あの大広間で、百人の前で殿下に断りを入れて、心臓は平らに動いている。怒りも悲しみも通り過ぎた後の場所にいる。残っているのは静けさだけだ。
「先ほどのお言葉、ありがとうございました。アドリアン様」
アドリアンは少し困ったような顔をした。
「礼を言われるようなことはしていない。あれは俺の立場としての発言だ」
嘘だ、と思った。立場だけの発言なら、あんな目はしない。あのとき、正論を述べながらアドリアンの目は一瞬だけセレスティーヌを見ていた。「引かない」と決めた目だった。以前は引いた人が、今度は引かないことを選んだ。
「これで俺が君に用事を作る口実がなくなった。」
アドリアンが苦笑した。通商条約は締結された。交渉は終わった。公務上の用事はもうない。この先、この人に会う理由が、制度の上にはもう存在しない。
セレスティーヌは立ち止まった。
何かを言いたい。けれどまだ、何を言えばいいか分からない。今日はまだ、殿下のことが終わったばかりだ。この静けさの中で、次の言葉を見つけるには少し時間がかかる。
「アドリアン様」
「ああ」
「……少しだけ、時間をいただけますか」
アドリアンは頷いた。「待つのは得意だ。交渉官だからな。急かしたら交渉にならない」
笑っていた。穏やかで、急かさない笑み。この人は待ってくれる。答えが出るまで、自分のペースで考え、自分の足で歩くことを許してくれる。
廊下の窓から、夕方の光が差していた。式典の大広間では冷たく感じた光が、ここでは少しだけ暖かい。
先ほど口にした言葉が、胸の中でまだ響いている。怒りで言ったのではない。恨みで言ったのでもない。殿下が決めたことを、そのまま返しただけだ。
私はもう、殿下の婚約者ではございません。殿下がそうお決めになったのです。




