口実がなくても、会いに来ていただけますか
窓から朝の光が差していた。
リヴァーシュの執務室は小さい。王宮の広間の十分の一もない。机は一つ、椅子は二つ、棚には自分が整理した書類が並んでいる。この棚の並び順は自分が決めた。注釈を付けたのも自分。署名欄にあるのも、自分の名前。
セレスティーヌ・ド・モンフォール。
机の上に、今日発送する外交書簡が三通ある。辺境伯領との通商条約の運用に関する実務連絡。相手国はブランシュ公国とクレール公国、それから辺境伯領。どれもセレスティーヌが起草し、セレスティーヌが注釈を付け、セレスティーヌの名前で送る書簡だ。
蝋を溶かした。
小さな火の上で蝋が透明になっていく。蝋印を手に取る。この印はリヴァーシュ外交局のもので、殿下の紋章ではない。けれど蝋を溶かし、封を押し、固まるまで指先で押さえる動作は同じだ。同じ手で、同じ仕草で。
違うのは、この封の中身が自分の書簡であること。自分が考え、自分が書き、自分の名前で出す文書。殿下の名前を支えるための仕事ではない。自分の仕事のための封。
蝋が固まった。指を離すと、きれいな印影が残っている。今度は、自分の手の形が消えても構わない。この書簡には自分の名前が書いてある。印影よりも確かなものが、ここにある。
朝の光が書簡の表面に当たっている。リヴァーシュの朝は穏やかだ。王宮の朝は蝋燭の灯りの中で始まった。殿下の書簡が机に積まれ、封をする前に注釈を確認し、一通ごとに殿下の紋章を押す。あの朝の光は冷たかった。窓から入ってくる光よりも先に、仕事が始まっていた。
ここの朝は、光のほうが先に来る。
三通の書簡に封をし終えた頃、扉が軽く叩かれた。
「朝食を持ってきた。食堂が混んでいたから、こちらで食べないか」
アドリアンが盆を持って入ってくる。パンと果物と、温かい茶。外交次官が朝食を運んでくるのは職務ではないが、この人は「たまたま通りがかった」という顔をして毎朝やってくる。たまたまにしては、盆の上に茶が二人分載っている。
「ありがとうございます、アドリアン様」
「今日の連絡書簡は仕上がったか」
「三通とも封をしました」
「相変わらず早い。俺が来る前に終わっているのは、少し悔しいな」
悔しい、と言いながら笑っている。この人の「悔しい」は、本当は嬉しいときに使う言葉だ。交渉の席で相手に的確な反論をされたとき、「悔しいが見事だ」と言う。同じ種類の笑みが、今、朝の光の中にある。
机の上に朝食を並べ、二人で今日の予定を確認する。午前中にクレール公国の使節と面会がある。午後は辺境伯領との実務協議。書類はすでに揃えてある。
「クレールの使節は長男の婚姻を済ませたそうだ。冒頭の挨拶で触れておくといい」
「注釈に書いてあります」
アドリアンが書簡の控えを覗き込む。余白に書かれた注釈を読み、頷いた。かつて殿下の書簡にも同じ種類の注釈を書いていた。あの頃は殿下の名前の裏に隠れていた文字が、今はセレスティーヌの名前の隣にある。
「この注釈は、本当に助かる。各国の大使がリヴァーシュの外交を褒めるのは、半分以上がこの注釈のおかげだ」
以前なら、「辺境伯領の教育のおかげです」と答えていただろう。自分の力だと認められず、所属の功績として返していた。もう、そうはしない。
「ありがとうございます」
それだけ返した。自分の仕事を褒められたとき、「ありがとう」と言えるようになった。それは小さな変化だけれど、王宮にいた頃には考えられなかったことだ。あの頃の自分は、褒められても「婚約者としての務めですから」と答えた。自分の力だと思えなかった。今は違う。自分の力だと、分かっている。分かるようになった。
ブランシュ公国の大使が、先日の会議で「リヴァーシュのモンフォール嬢」と呼んでいた。以前は「辺境伯の代理」。その前は「殿下の婚約者」。肩書きが変わるたびに、少しずつ自分の名前に近づいている。今、各国の外交官が「モンフォール嬢」と呼ぶとき、その名前は自分自身を指している。退屈だと呼ばれていた頃の自分を、あの人たちは知らない。知らなくていい。あの頃の自分は、自分の名前で立っていなかったのだから。
朝食を終え、茶を飲みながら、アドリアンが窓の外を見ていた。
「通商条約の運用が軌道に乗れば、俺がこの執務室に顔を出す公務上の理由がなくなる」
声は穏やかだった。事実を述べている声。けれどその事実の奥に、別の感情が沈んでいるのが分かる。初めて交渉の席で会ったときから、この人の声には二層ある。表の実務と、裏の本音。交渉の比喩で距離を詰め、踏み込みすぎたと思えば引く人。
今日は、引くつもりだろうか。
セレスティーヌは茶の杯を置いた。
王宮にいた頃、自分から何かを選んだことがない。婚約は政略で決められ、仕事は殿下の名前で行い、退屈と呼ばれても黙っていた。選ぶ側ではなく、選ばれる側にいる。選ばれなくなったとき、微笑んで「おめでとうございます」と言った。あの夜の微笑みは、自分で選んだものではなかった。選択肢がなかっただけだ。
今は選べる。ここにいることも、この仕事をすることも、この人に会いたいと思うことも、自分で選んでいる。
もう、選ばれる側にはいない。
「では……口実がなくても、会いに来ていただけますか。」
自分の声が、自分で驚くほど静かだった。震えてもいない。決意して言ったのではなく、ただ自然にこぼれた言葉だった。口実がなくても会いたい。この人の朝食の盆と、この人の「悔しい」という笑顔と、この人が引かずに待ってくれる静けさが、自分の朝に必要だと思った。
アドリアンはこちらを見た。一瞬だけ、外交官の仮面が外れた顔になる。驚きと、それから、抑えきれないものが混じった目。
「交渉成立だ。」
笑っていた。交渉の比喩で始まった二人の距離が、交渉の比喩で閉じていく。この人は最初に「もう少しだけ君と交渉していたかった」と言った。三年は長いと笑った。その交渉が、今、成立した。三年どころか、もっと長く続くかもしれない交渉。それでいい。この人との交渉なら、いつまでも終わらなくていい。
窓から差す光が暖かかった。
王宮の朝は冷たい光だった。殿下の書簡に蝋封を押しながら、あの光の中で誰かのための朝を過ごしていた。辺境伯邸の朝は中立の光。誰のものでもない光の中で、自分が何をしたいのかを考え始めた。
リヴァーシュの朝は暖かい。自分の書簡に自分で封をし、自分の名前で仕事をし、自分が選んだ人と朝食を取る。この光の中にいることを、自分で選んだ。自分の足で、ここまで歩いてきた。
この朝は、私のための朝だった。




