誰も、俺を信じた目で見なくなっていた
通商会議は、いつもなら退屈な行事だった。
各国の大使が集まり、交易路の調整や関税の確認を行う、年に一度の定例会議。セレスティーヌがいた頃は、フィリベールは席について挨拶をし、要所で頷き、最後に署名をすれば済んだ。議題の順序も、各国の立場の整理も、すべて彼女が用意していた。
今は、誰も用意していない。
グスタフが徹夜で議題表を作ったらしいが、フィリベールの手元に届いたのは今朝だった。読む時間はあったが、読んでも頭に入らなかった。条項の番号と国名の対応が複雑で、以前はこれを一目で分かるように整理した注釈がついていたのに、今の議題表にはそれがない。
会議が始まって三十分。フィリベールは議題の優先順位を間違えた。
関税の調整を先に取り上げようとしたが、今年の最優先議題は検疫規定の改定だった。北方の疫病の影響で検疫の強化が急務になっている。各国の大使はそのために集まっていた。
「まず関税の件から始めたい」
フィリベールがそう切り出した瞬間、空気が変わる。隣国の大使が眉をひそめ、正面に座ったクレール公国の大使は椅子を引きかけた。その動きは小さかったが、外交の場で椅子を引くのは「この議論に参加する価値がない」という意思表示に等しい。
「殿下」
グスタフが耳元で囁く。「検疫規定が先でございます」
フィリベールは笑顔で「失礼、順序を入れ替えよう」と言い直した。場は収まった。しかしクレール公国の大使の目は、もう元に戻らない。目の奥に、値踏みの終わった後の冷淡さがある。会議の冒頭で優先順位を取り違える王子を、信頼に足る交渉相手だとは見ていない。
会議は何とか終わった。以前のような円滑さはなく、各国の大使は署名を済ませると足早に退出していく。以前は会議後に雑談の時間があった。大使たちがフィリベールの周りに残り、政治の裏話や社交の近況を交わす。あの時間が外交の本質だった。本題よりも、雑談の中で築かれる信頼が、次の交渉の土台になる。
今日は誰も残らなかった。最後に退出したクレール公国の大使が、扉の手前で振り返り、何か言いかけて、やめた。口を閉じ、小さく頭を下げて出ていった。言わなかった言葉の重さだけが、空の会議室に残る。
廊下を歩いていると、囁き声が聞こえる。
「婚約者に嘘をつき、恋人にも嘘をついた王子」
声の主は見えない。柱の陰か、扉の向こうか。はっきりとした悪意ではなく、事実を確認するような調子で語られている。噂というよりも、宮廷の共通認識になりつつある温度。
別の声が応じた。「退屈な婚約者、と仰っていたそうだけれど、退屈だったのはどちらかしら」
退屈。あの言葉が、こういう形で返ってくるとは思わなかった。
フィリベールは足を速める。聞こえなかった、ということにした。
だが足を速めても、廊下は続く。すれ違う貴族たちの目が、以前とは違う。以前は笑顔で会釈をしてきた人々が、今は目を伏せるか、あるいは好奇の色を浮かべてすれ違う。
午後、ロザリンドの部屋を訪ねた。
扉を開けてくれたのは侍女。以前は侍女が開ける前にロザリンド自身が扉に駆け寄ってきたものだ。足音で来客が分かるのだと言って笑っていた。あの笑い声が、今日は聞こえない。ロザリンドは窓際の椅子に座ったまま振り向く。立ち上がらない。
「ロザリンド、今日は少し時間があるんだ。一緒に庭でも歩かないか」
「……今日は少し、気分が優れないのです」
声が平らだった。以前の声には抑揚があった。嬉しいときは少し高くなり、甘えるときは語尾が柔らかくなる。今の声にはそのどちらもない。敬語の温度だけが、そこにある。
以前のロザリンドなら「殿下がお忙しいのに来てくださった」と嬉しそうに言ったはずだ。「気分が優れない」と断るにしても、「でも少しだけなら」と譲歩した。今日のロザリンドには、譲歩する気配がない。
ロザリンドの胸元に目が行く。何かが足りない。白い花。いつも胸元につけていた花がない。舞踏会の夜も、東屋で会ったときも、必ずつけていた白い花弁の飾り。今日はつけていなかった。
「花、つけていないんだな」
「ええ。枯れてしまいましたので」
それだけだった。新しい花を用意する気配もない。以前のロザリンドは、花が枯れれば翌日には新しいものを摘んできた。「殿下の前ではいつも綺麗でいたいから」と言って、庭園の白い花を選んでいた。今日のロザリンドには、新しい花を選ぶ気持ちがないように見える。
フィリベールは何か言おうとして、けれど何を言えばいいか分からず、「無理はするな」とだけ言って部屋を出た。
忙しいのだろう。舞踏会の後からいろいろあった。疲れているだけだ。
廊下で、すれ違った侍従が一瞬だけ目を逸らした。以前はこちらに頭を下げて微笑んだ侍従が、今は目を合わせない。
夜、執務室に戻った。
机の上には明日の予定表と、未処理の書簡の束が積まれている。グスタフが整理したものだが、以前のように注釈は付いていない。フィリベールは書簡の束に手を伸ばし、一枚目を開いて、閉じた。読む気力がない。
引き出しを開けた。ペンを探していた。奥に、束ねられた書類がある。見慣れない筆跡の注釈が付いた書簡の控え。セレスティーヌの書いたものだと、すぐに分かった。細い字で、正確で、余白に丁寧な注釈が添えてある。
一枚だけ引き出しかけて、止めた。
今はいい。今は、これを読む必要はない。読んだところで、彼女が戻ってくるわけではない。明日には新しい補佐が見つかるかもしれない。体制が整えば、元に戻る。ブランシュ公国の件も、今日の会議の件も、立て込んでいたからだ。ロザリンドの態度も、花をつけていなかったのも、疲れているだけだ。
控えを引き出しの奥に押し戻し、引き出しを閉じた。
「少し立て込んでいるだけだ。すぐに元に戻る。」
声に出して言った。誰もいない執務室で、自分だけが頷いた。
窓の外には暗い庭が広がっている。以前この時間に窓から見下ろすと、庭園の花が月明かりに白く浮かんでいた。ロザリンドが好きだと言っていた庭。今夜は花が見えない。月が出ていないだけかもしれないし、季節が変わっただけかもしれない。
今日一日を振り返る。大使の冷たい目。廊下の囁き。ロザリンドの平らな声。侍従の逸らした視線。それぞれに理由がある。忙しかった、疲れていた、立て込んでいた。どれも一時的なことで、体制を整えれば解決する。そう思おうとしている自分がいる。
けれど理由を並べても、一つの事実は変わらない。
誰も、俺を信じた目で見なくなっていた。




