私の名前を肩書きなしに呼んだ人は、この人が初めてだった
末席に座るのは慣れている。
辺境伯邸の会議室は王宮の広間に比べれば狭い。窓は一つ。机は楕円形で、片側に辺境伯領の代表団、もう片側に隣国リヴァーシュの使節団が座る。セレスティーヌは辺境伯領側の末席に座っていた。肩書きは「辺境伯代理の実務担当」。父が体調を理由に正面には立たず、娘に実務を任せた形になっている。
交渉の相手は、リヴァーシュの外交次官アドリアン・ド・ヴァロワ。二十代半ばの、落ち着いた目をした男だった。公爵家の三男と聞いている。家柄で登りつめた人ではないらしい。席についたとき、こちら側の出席者を一人ずつ確認する目の動きが素早かった。末席のセレスティーヌにも、一瞬だけ視線が止まる。
交渉の議題は、辺境伯領とリヴァーシュの間の交易路に関する通商条約の更新だった。三年ごとの定例で、通常は大きな争点にはならない。だが今回は、交易品目の関税率を巡って双方の主張に開きがあった。
セレスティーヌは手元の資料に目を落とす。この資料は自分が作った。辺境伯の名前で出される文書を、自分の手で書いた。筆跡は同じ。以前は殿下の名前で書いていた書類と、まったく同じ筆跡。違うのは署名欄の名前だけだ。
「辺境伯領としては、関税率の据え置きを求めます」
セレスティーヌが口を開くと、リヴァーシュ側の何人かが微かに眉を動かした。末席の若い女性が交渉の第一声を切るとは思っていなかったのだろう。アドリアンだけは表情を変えなかった。ペンを置き、こちらを見ている。
議論は膠着した。
リヴァーシュ側は関税率の引き上げを求めている。辺境伯領側は据え置きを主張する。双方の根拠となる条項が異なり、前回の交渉記録の解釈にもずれがある。リヴァーシュ側の交渉官が前回の合意文書を引用し、「この条項に基づけば引き上げは既定路線だ」と述べた。
セレスティーヌは手元の資料をめくった。前回の合意文書は手元にある。自分で注釈を付けた文書だ。
「恐れ入ります。その条項は、品目ごとの上限を定めたものであり、一律の引き上げを認める趣旨ではございません。第八条の付帯事項に、品目ごとの個別交渉を前提とする旨が明記されております」
部屋が静まった。
リヴァーシュ側の交渉官が合意文書を開き直し、第八条の付帯事項を確認する。数秒の沈黙。交渉官の指が条文を辿り、止まった。セレスティーヌの指摘は正確だった。
アドリアンが静かに頷く。一律の引き上げを前提にしていた議論の土台が崩れ、交渉は品目ごとの個別協議へと切り替わる。膠着は解けた。
アドリアンがペンを取り直し、新しい論点を書き留め始める。書き留めながら、一度だけこちらを見た。目が合う。表情は変わらないが、ペンを持つ手が一瞬止まったように見えた。その手元を見ながら、セレスティーヌは自分の仕事が終わったことに気づいた。打開策を示した。あとは個別の交渉に移る。自分の役目は、ここまで。
父の代理として、辺境伯家の実務担当として、やるべきことはやった。
交渉が休憩に入った。出席者たちが廊下に出て、茶を受け取っている。セレスティーヌも廊下に出ると、窓際にアドリアンが立っていた。
「モンフォール嬢」
名前で呼ばれた。辺境伯の代理、でも、お嬢様、でもなく。
「先ほどの第八条の付帯事項の指摘は見事だった。あれは、辺境伯の判断か」
「父の指示ではありません。資料を読み直した際に気づきました」
「つまり、君自身の判断だ」
セレスティーヌは答えに詰まった。自分の判断。そう言われると、どこか落ち着かない。資料を読んだのは自分で、指摘をしたのも自分で、それは事実だ。だが「辺境伯家の実務担当として」という枠の中で行ったことであり、自分個人の功績だとは思えない。王宮でも同じだった。殿下の書簡を書くのは自分だったが、それは「婚約者の務め」であって、自分の能力として数えられることはない。そう扱われてきた。ずっと。
アドリアンは窓の外を見たまま、短く言った。
「君の分析は、辺境伯家のものじゃない。君自身の力だ。」
窓からの光が、廊下の石畳に長く伸びている。その光の中で、アドリアンの横顔は穏やかだったが、声には確信がある。社交辞令ではない。交渉の場で相手の力量を測ることに慣れた人間が、正確に評価を下している。
セレスティーヌは何も返せなかった。
「君自身の力」という言葉が、胸の奥に落ちてきて、底に当たる音がする。重い音ではない。乾いた場所に水が落ちたときの、静かな音。これまで誰にも言われたことのない言葉だった。殿下は言わなかった。父も言葉にする人ではない。
初めてだった。自分がやったことを、自分のものだと言ってくれた人は。
交渉は午後に再開され、品目ごとの個別協議が進む。セレスティーヌは実務の補佐に徹し、必要な数字を辺境伯領側の交渉官に渡した。
アドリアンとは交渉の席で何度か視線が合う。合うたびに、アドリアンは小さく頷いた。交渉相手への敬意を示す頷き。それ以上のやり取りはなかったが、あの頷きの中に午前中の言葉が含まれている気がして、セレスティーヌは手元の書類に目を落とした。
自分が書いた書類。辺境伯の名前で出される文書。筆跡は王宮で殿下の書簡を書いていた頃と変わらない。同じ手が、違う名前のために書いている。いつか、自分の名前で書ける日が来るのだろうか。
夕方、交渉が終わる。リヴァーシュの使節団が馬車の前に並び、アドリアンが振り返った。
「モンフォール嬢」
また、名前で呼ばれた。
「もう少しだけ、君と交渉していたかった。」
笑っていた。交渉の相手に向ける笑顔ではない。もう少し柔らかい、個人的な笑み。けれどそれが何を意味するのか、セレスティーヌにはまだ分からなかった。分かる必要があるのかどうかも。
「次の条約更新は三年後でございます」
セレスティーヌは実務的に返した。それ以外の返し方を知らない。
アドリアンは少しだけ目を細めて、「三年は長いな」とだけ言い、馬車に乗った。
馬車が去っていく。夕暮れの光が交易路に長い影を落としている。
セレスティーヌは一人で門の前に立ち、考えていた。「君自身の力だ」と言った声と、「もう少しだけ」と笑った声。同じ人の、同じ低い声。
王宮にいた二年間、殿下はセレスティーヌの名前を呼ばなかった。呼ぶ必要がなかったのだろう。婚約者は「いるもの」であって、名前を持つ個人ではなかった。
あの人は違った。
私の名前を、肩書きなしに呼んだ人は、この人が初めてだった。




