殿下はまだ、あのお嬢様がいない世界を知らない
セレスティーヌ嬢が王宮を去って、二週間が過ぎた。
グスタフが最初に気づいたのは、資料棚だった。執務室の東壁にある棚。各国の通商規約の控え、使節団の来訪記録、式典の席順表。それらを分類し、整理し、必要なときに殿下の机に揃えていたのは、すべてセレスティーヌ嬢の仕事だった。
棚は、空ではなかった。書類はある。だが並び順が分からない。どの書類がどの交渉に紐づいているのか、注釈が付いていない。セレスティーヌ嬢は棚に並べる前に、それぞれの書類に細かい注釈を書き添えていた。「ブランシュ公国・通商規約・第十二条関連」「リヴァーシュ・交易路・前回交渉の論点」。その注釈がなければ、書類はただの紙の束になる。
注釈は彼女の頭の中にあった。棚に残ったのは、筋の通らない紙の山だけだった。
今朝、同盟国ブランシュ公国の使節が到着する。
グスタフは夜明け前から棚の前に立ち、必要な書類を探していた。ブランシュ公国との通商規約。直近の交渉記録。使節団の構成と、前回の来訪時の会食の席順。
見つからない。
書類そのものはある。けれど「ブランシュ公国の通商規約」と書かれた表紙を開いても、中身のどこが今回の交渉に関係するのかが分からない。セレスティーヌ嬢ならば、該当する条項に付箋を挟み、相手国の主張の傾向を余白に書き添え、殿下が目を通すだけで全体像が掴めるように整えていた。
彼女がいた頃は、使節到着の三日前にはすべてが殿下の机の上に揃えられていた。グスタフが何かをする必要はなかった。
棚の前に座り込み、一枚ずつ書類を読む。この作業をセレスティーヌ嬢は毎回、一人でやっていたのだ。グスタフは三時間かけて、彼女が三十分で終わらせていたであろう仕事の半分にも辿り着けなかった。
当たり前だと思っていた。空気のように。
会食は、広間の小部屋で行われた。
ブランシュ公国の使節ヴァランス卿は、初老の穏やかな紳士だった。前回の来訪は半年前。その際の対応を取り仕切ったのもセレスティーヌ嬢だったが、ヴァランス卿は彼女の名前を知らない。外交の場では、すべてが殿下の名前で行われていたからだ。
フィリベールは上座に座り、杯を掲げた。社交の挨拶は得意としている。場を和ませ、笑いを取り、相手に親しみを感じさせる。その技術は本物で、セレスティーヌ嬢がいなくても変わらない。
問題は、その先だった。
ヴァランス卿が通商規約の改定について切り出した。フィリベールは頷き、自信を持って応じる。
「たしか第七条の関税の条項ですな。我が国としても、見直しの余地はあると考えています」
グスタフの背筋が冷えた。第七条は関税ではない。第七条は検疫に関する条項で、関税は第十二条だ。セレスティーヌ嬢が用意した注釈を読んでいれば、絶対に間違えない内容。だが殿下は注釈を読まない。注釈があることすら、知らないのかもしれない。
「殿下、ブランシュ公国の通商規約は第七条ではなく第十二条でございます。」
グスタフは椅子を引いて立ち上がり、できる限り穏やかに訂正した。フィリベールが一瞬だけ目を見開く。すぐに笑顔で「ああ、そうだった」と返したが、ヴァランス卿の表情はすでに変わっていた。
凍った、というのではない。温度が一段下がった、というほうが正確だ。
ヴァランス卿は杯を置き、ゆっくりと口を開いた。
「以前お会いした際は、もう少し……準備がおありでしたな」
静かな声だった。皮肉を含んでいるが、声を荒らげてはいない。外交官の皮肉は秤に似ている。相手の価値をその場で測り直す。ヴァランス卿の秤は今、殿下の価値を一段下げた。
フィリベールは笑った。
「少し人手が足りなくて。すぐに体制を整えます」
ヴァランス卿は笑わない。杯の中身を一口含み、テーブルの上に視線を落とす。
「体制、とは」
「新しい補佐を探しているところです」
「以前の補佐の方は、どちらに」
フィリベールの笑顔が、ほんの一瞬だけ硬くなる。
「辺境伯領に戻りました。……個人的な事情です」
ヴァランス卿は何も言わず、静かに頷いた。了承の頷きではない。値踏みの頷きだった。
会食が終わり、使節が客間に下がる。グスタフは一人で執務室に残った。
殿下は自室に戻っている。「少し疲れた」と言って。疲れたのだろう。セレスティーヌ嬢がいた頃の会食では、殿下は社交の挨拶だけをすればよかった。数字も条項も、すべて彼女が下支えしていた。殿下が疲れなかったのは、疲れる仕事を彼女が代わりにしていたからだ。
ヴァランス卿の最後の目を、グスタフは忘れられない。「体制を整えます」と殿下が言ったとき、使節の目は殿下ではなくグスタフを見ていた。この側近は知っていたのか、と問う目だった。知っていた。セレスティーヌ嬢がすべてを支えていたことも、殿下がそれに気づいていなかったことも。知っていて、何もしなかった。
机の引き出しを開けた。
奥に、書簡の控えが束ねてあった。セレスティーヌ嬢が書いた外交書簡の控え。殿下の名前で各国に送られた書簡の、原稿にあたるもの。一枚を取り出す。
文字はセレスティーヌ嬢の筆跡だった。細く、正確で、余白に注釈が書き添えてある。「この条項は前回の交渉で相手国が難色を示した箇所。引用する場合は第三項と合わせて提示すること」。書簡の末尾には蝋封の跡が残っている。封を押したのも彼女だった。殿下の紋章を、殿下の代わりに押していた。
一枚一枚、めくる。どの書簡にも同じ筆跡で注釈が付いている。署名だけが殿下のもの。中身を書いた人間の名前は、どこにもない。
ブランシュ公国への書簡には、今夜殿下が間違えた第十二条の要約が添えてあった。「関税に関する条項。改定時には第三項の免除規定に留意」。この注釈を殿下が読んでいれば、今夜の失態はなかった。
グスタフはそっと書簡を机の上に置いた。
自分は何をしていたのだろう。セレスティーヌ嬢がこれらの書類を整えていた二年間、グスタフはそれを「婚約者としての務め」だと思っていた。殿下もそう言っていた。婚約者なのだから、これくらいは当然だと。
当然ではなかった。これは一人の有能な実務官の仕事だった。そしてその実務官を、殿下は退屈だと呼んだ。グスタフはそれを聞いていて、何も言わなかった。
殿下はこの控えを一度も読んだことがないだろう。引き出しの奥に束ねてあったのが、その証拠だ。書いた人間のことも、封を押した人間のことも、殿下は知らなかった。知ろうとしなかった。
外交官としての殿下の評価は、この書簡によって築かれている。殿下の名前の裏に、名前のない人間の仕事がある。
控えを元の引き出しに戻し、静かに閉じた。
殿下はまだ、あのお嬢様がいない世界を知らない。




