殿下の真実が何であったとしても、私の真実は変わらない
風の匂いが違った。
辺境伯邸の門をくぐったとき、最初に気づいたのはそれだった。
王宮の風は花壇の香料と蝋燭の残り香が混じっていたけれど、ここにあるのは土と草と、遠い山からの冷たい空気だけ。セレスティーヌは馬車を降り、見慣れたはずの門構えを見上げた。子どもの頃と同じ石造りの門。何も変わっていない。変わったのは自分のほうだ。
父は書斎で待っていた。
報告は短く済ませた。婚約は解消された。殿下から正式な書面が届くだろう。それだけ伝えて、口を閉じた。
辺境伯は机の向こうに座ったまま、しばらく黙っていた。ペンを持つ手が微かに力んでいる。武門の当主は感情を顔に出さない。けれど手は正直で、指の関節が白くなるほど握り締められていた。インク壺の横に置かれた書類が、ペン先の圧で少しだけ凹んでいる。
父がこの顔をするのを、以前に一度だけ見たことがある。領境を侵した盗賊団の処分を決めた日。あのとき父の声は低く、静かで、誰も口を挟めなかった。
「悔しくはないのか」
父の声は低い。怒りの質が違う。怒鳴るのではなく、声が地面に近くなる種類の怒り。この怒りは殿下に向いている。娘を差し出した自分にも、向いているかもしれない。
セレスティーヌは少しだけ考えてから、答えた。
「私は最初から、あの方にとって紹介できない存在だったのです。それが分かっただけで十分です。」
紹介できない存在。自分で口にして、言葉の輪郭を確かめる。殿下は恋人に婚約者の存在を告げなかった。つまり、殿下にとっての理想の世界には、セレスティーヌは最初からいなかった。いないほうが都合のいい人間だった。紹介できない相手。それは、いないことにされた相手だ。
悔しいかと問われれば、悔しさとは少し違う。鏡を覗いたら自分が映っていなかった、というような感覚に近い。そこにいたはずなのに、最初から数えられていなかった。
父は立ち上がり、窓のそばに歩いた。外を見たまま、背中だけをこちらに向けている。
「行く先は決めたのか」
「少し、考えたいことがあります」
父は振り返らなかった。ただ頷いた気配だけが、背中越しに伝わる。
「ここにいたければ、いればいい。お前の部屋はそのままにしてある」
それだけ言って、父は机に戻った。会話はそれで終わりだった。辺境伯は多くを語らない。けれど「そのままにしてある」という言葉の中に、娘が戻ってくる可能性をずっと残していた人の気配がある。政略婚約に娘を差し出しながら、部屋をそのままにしておいた人。
書斎を出ると、廊下に夕方の光が差していた。王宮の廊下は白い大理石で、光が反射して冷たく輝く。ここの廊下は木の床で、光が吸い込まれて柔らかく沈む。
部屋に戻ると、荷を解く前にまず窓を開けた。辺境伯領の空気が入ってくる。山から降りてくる風には夕暮れの湿気が混じっている。王宮の窓からは庭園しか見えなかったけれど、ここからは山の稜線が見える。
机の上に、子どもの頃に使っていた文具が並んでいた。父が「そのままにしてある」と言った通り、筆箱も紙挟みも、五年前の位置から動いていない。棚には外交の教本が並んでいる。父がこの家から嫁に出す娘に、せめてもの武器として持たせようとした本。
荷物の中に、蝋封の道具はない。王宮に置いてきた。殿下の紋章入りの蝋も、封を押す印も、すべてあちらに残してきた。
手のひらを見る。蝋を溶かし、封を押し、書簡を整えてきた手。今朝までこの手には仕事があった。殿下の名前で出される文書に封をする仕事。殿下の名前を支える仕事。
今、この手には何もない。
翌朝、窓の光で目が覚めた。
一瞬、体が起き上がろうとした。今日の書簡は何通で、使節の到着は何時で、式典の席順の最終確認がまだ済んでいない。そう思って布団を押し上げかけて、止まる。
書簡はない。使節もいない。式典もない。
辺境伯領の朝は静かだった。鳥の声と、遠くで使用人が水を汲む音だけが聞こえる。王宮の朝は、目を開けた瞬間から誰かのための時間だった。侍女が控え、書簡の束が机に積まれ、今日の予定が読み上げられる。すべてが殿下の名前で動き、セレスティーヌはその歯車の一つだった。
ここの朝は、まだ誰のものでもない。
窓から差す光を見た。冷たくも暖かくもない。ただ、そこにある光。
手のひらには蝋の匂いがしない。殿下の仕事がない。殿下の名前を支える必要がない。この手は、今日は自分のためだけに動く。
何をするかは、まだ決めていない。ただ一つだけ分かっている。
辺境伯領には通商の仕事がある。父が長年、隣国との交易路を維持してきた仕事。隣国リヴァーシュとの通商条約の更新が近いと、以前父が言っていた。外交の書類を扱える人間が、この領地にはまだ足りていない。自分にできることが、ここにはあるかもしれない。
今日は考える日にしよう。誰のためでもなく、自分が何をしたいのかを。
王宮の執務室では、もうすぐ同盟国の使節が到着する頃だろう。あの棚の書類を整理できる人はいるだろうか。考えて、やめた。もう、あの人の心配をする必要はない。
殿下の真実が何であったとしても、私の真実は変わらない。




