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殿下の真実の愛は、殿下の嘘を許しませんでした  作者: 九葉(くずは)


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2/12

この方は、嘘をつける方だった

昨夜の花が、まだ胸元に残っている。


朝の光の中で見ると、白い花弁の縁がわずかに茶色く変わり始めていた。昨夜の舞踏会でつけたまま眠ってしまったらしい。ロザリンドは花に触れ、そのまま手を止める。


侍女のマリーが湯を運んできた。盆を置くとき、いつもより手つきが慎重になっている。


「……お嬢様、昨夜のことでございますが」


ロザリンドは顔を上げた。マリーの目が泳いでいる。こういう顔をするときの彼女は、言いにくいことを抱えている。


「殿下には、婚約者がおいでだったそうです。辺境伯家のお嬢様で、二年前からの正式な婚約だったと」


二年。


ロザリンドは、自分がフィリベールと出会ったのが半年前だったことを数えた。出会ったとき、彼は言った。何でもないような顔で、笑いながら。


「婚約者はいない。君が初めてだ」


庭園の東屋で、午後の光の中で。花が咲き乱れる季節で、ロザリンドはまだ殿下と知り合って間もなかった。


「殿下のようなお方に、お相手がいらっしゃらないのですか」


そう尋ねたとき、フィリベールは肩をすくめて笑った。嘘をついている顔には見えなかった。目を逸らさず、声も揺れず、まるで本当のことを話すように嘘を言う人。あの日の風は穏やかで、東屋の柱に蔦が巻きついていて、午後の光が彼の髪を金色に照らしていた。美しい午後。その美しさごと、嘘だった。


あれが嘘だった。


婚約者は、いた。二年もの間。自分が殿下と踊り、殿下と語らい、殿下に恋をしている間、ずっとあの方はいたのだ。


マリーがまだ何か言おうとしている。ロザリンドは「ありがとう」とだけ言って、部屋を出た。


フィリベールの私室の前に、側近のグスタフが立っている。ロザリンドの顔を見て、一瞬だけ何かを言いかけた。唇が動き、しかし声にはならず、代わりに小さく頭を下げて扉を開ける。


フィリベールは窓際の椅子に座っていた。朝の光を浴びて、昨夜のことなど何もなかったかのようにくつろいでいる。ロザリンドを見ると微笑んだ。


「ロザリンド。朝早いな。昨夜は疲れただろう、もう少し休んでいればよかったのに」


ロザリンドは微笑みを返さなかった。


「殿下は、私に嘘をおつきになったのですね。婚約者はいないと。」


フィリベールの笑顔が、ほんの少し固くなる。けれどすぐに表情を整え直した。その切り替えの速さが、ロザリンドの胸に引っかかる。


「形だけの婚約だったんだ。君を傷つけたくなかった。」


言葉は柔らかい。声も穏やかで、ロザリンドのことを大切にしている響きがある。半年前なら信じただろう。あの東屋で「君が初めてだ」と言われたときのように。


けれど今は違う。


フィリベールの目を見た。優しい目をしている。自分を安心させようとする目。この目で、半年前も嘘をついた。同じ目で、同じ声で。優しさの形をした嘘を、この人は完璧に作れる。


「傷つけたくなかったのではなく、嫌われたくなかったのでしょう?」


フィリベールの表情が止まった。一瞬だけ、何も取り繕えない顔になる。


それが答えだった。


傷つけたくなかったのなら、最初から婚約者がいると言えばよかった。それでも自分を選んでくれたなら、ロザリンドはそれを受け止める覚悟があった。少なくとも、正直に話してくれたなら。


けれどフィリベールは隠した。嫌われることを恐れて、婚約者がいることを黙っていた。真実の愛だと言いながら、その愛のために真実を一つ隠した。


フィリベールが口を開く。


「ロザリンド、聞いてくれ。セレスティーヌとは本当に形だけで、感情はなかったんだ。政略で決められた婚約で、俺には選ぶ権利がなかった。君に出会って初めて、自分の意思で誰かを好きになった。それは本当のことだ」


言葉が多い。説明が長い。嘘を覆すために、いくつもの言葉を重ねている。半年前の東屋では、肩をすくめて笑うだけで済ませたのに。嘘のほうが、ずっと手短だった。


ロザリンドは何も答えず、部屋を出た。


背後でフィリベールが「ロザリンド」と呼ぶ声がする。追いかけてはこない。声だけで引き止められると思っているのだろう。半年前ならそうだったかもしれない。あの声で名前を呼ばれるたびに胸が跳ねた頃が、たしかにあった。


廊下に出ると、グスタフがまだ立っていた。ロザリンドと目が合い、またあの表情をする。何か言いたそうで、言わない顔。口を開きかけて、けれど結局は小さく頭を下げるだけで終わる。ロザリンドが通り過ぎるのを、黙って見送った。


午後、母に付き添われて訪れた伯爵家の茶会で、隣に座った令嬢がそっと耳打ちした。


「昨夜の舞踏会、大変でしたわね。ロザリンド様にとっては晴れの場だったのに、あんなことがあって」


「あんなこと、とは」


令嬢は扇の陰で小さく笑う。


「殿下が以前から、婚約者のことを『退屈な婚約者』と仰っていたのは有名ですわ。側近の方にも、お仲間にも。退屈だから新しい恋を探していた、という話になっております」


令嬢はさらに続けた。


「あの婚約者の方、辺境伯のお嬢様でしょう。地味な方でしたけれど、殿下の外交の下支えをなさっていたとか。それを退屈と仰るのですから、殿下もお人が悪い」


退屈な婚約者。


ロザリンドは紅茶の杯を持ち上げ、また置いた。中身は飲めなかった。


退屈だから捨てた。殿下はそう言っていたのか。二年間の婚約者を、退屈の一言で片づけて。あの舞踏会の広間で、微笑んで「おめでとうございます」と言った女性を。


あの方は、泣かなかった。


問い詰めもしなかった。ただ一つだけ、静かに尋ねた。「その方に私のことをお伝えになりましたか」と。あの問いの意味が、今なら分かる。あの方は最初から知っていたのだ。自分の存在が恋人に伝えられていないことを。殿下の沈黙で確認しただけだった。あの微笑みは、諦めの微笑みだった。すべてを分かった上で、それでも礼を保った人の顔。


二年間尽くして、退屈と呼ばれて、それでも泣かなかった人がいる。自分は半年で、こんなにも揺らいでいる。


ロザリンドは胸元の花に手を触れた。白い花弁はさらに茶色く変わっている。昨夜あれほど香っていた甘い匂いは、もうほとんどしない。


殿下は嘘をついた。婚約者がいないと。婚約者を退屈だと笑い、自分には「真実の愛」だと囁いた。その真実の愛のために、嘘を一つ隠した。


一つ嘘をつける人は、次も、その次も躊躇しない。嘘に慣れている手つきだった。あの東屋での微笑みも、今朝の言い訳も、同じ手つき。


この方は、嘘をつける方だった。

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