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殿下の真実の愛は、殿下の嘘を許しませんでした  作者: 九葉(くずは)


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あの一瞬の沈黙が、全ての答えだった

舞踏会の大広間には、白百合と蜜蝋の匂いが満ちていた。


セレスティーヌは壁際に立ち、手元のグラスに口をつけずにいた。中身はもう温くなっている。到着してから二時間、殿下は一度もこちらを見ていない。婚約者の席は壁際に用意されていた。よく見える場所ではなく、よく見えない場所に。


いつものことだった。


殿下……第二王子フィリベールは、広間の中央で男爵令嬢ロザリンドと踊っていた。金の髪を揺らして笑うロザリンドの隣で、フィリベールは見たことのない顔をしている。柔らかく、少し得意げで、自分だけの宝物を見せびらかす子どものような顔。


あの顔を、こちらに向けられたことは一度もない。


音楽が止まった。


フィリベールが広間の中央に留まり、ロザリンドの手を取ったまま声を上げた。


「皆に伝えたいことがある」


広間が静まる。セレスティーヌはグラスを卓に置いた。


「俺は真実の愛を見つけた。セレスティーヌ、婚約は……ここまでにしよう。」


百人を超える視線が一斉にこちらへ向く。扇の陰で囁く声、隣の令嬢の袖を引く手。セレスティーヌは自分が今この広間でどう見えているかを知っていた。公の場で捨てられた女。哀れな婚約者。


セレスティーヌは動かなかった。手元のグラスを置いた卓の木目を、指先でなぞった。


驚きは、なかった。言葉にされる前から、形はすでに見えている。半年前から減っていく面会の回数。三ヶ月前から届かなくなった式典の出席要請。一ヶ月前、すれ違った廊下で殿下がこちらを見つけて、ほんの一瞬だけ目を逸らしたあの仕草。


どれも小さい。一つひとつは取り立てるほどのものではない。けれど小さなものが積み重なると、ある朝、形ができている。崩れたのではない。最初から存在しなかったものの輪郭が、ようやく見えるようになっただけのこと。


セレスティーヌは微笑んだ。自分でも驚くほど自然に、口の端が上がる。


「おめでとうございます」


広間が揺れた。囁きが波のように端から端へ走る。


フィリベールの表情が一瞬だけ歪んだ。泣かれると思っていたのだろう。取り乱されると覚悟していたのだろう。微笑みは、彼の用意していた台本にはなかったらしい。


セレスティーヌは一度だけ視線をロザリンドへ向けた。華やかな令嬢は驚いた顔をしている。目が合った。ロザリンドの瞳には困惑があった。婚約者がこの場にいることを、知らされていなかった者の目。自分がどういう立場に置かれたのか、まだ整理がついていない者の目。


あの方も知らなかったのだ。


セレスティーヌは、フィリベールに目を戻した。


「……では、その方に私のことをお伝えになりましたか?」


フィリベールの唇が動く。けれど声は出ない。


一瞬だった。答えに詰まったのは、ほんの一呼吸分。すぐに笑顔を作り直し、何か言おうとしている。けれどセレスティーヌにはもう聞こえていなかった。


あの一呼吸の沈黙で、十分だった。


ロザリンドは知らない。殿下に婚約者がいたことを、殿下は彼女に告げていない。「真実の愛を見つけた」と宣言した相手には、婚約者の存在すら伝えていなかった。


その程度の真実だった。


広間を出る前に、二年間のことを考えた。


毎朝、殿下の名前で送られる外交書簡を整える。それがセレスティーヌの日課だった。各国の使節団が到着する前に応対資料を作り、相手国の通商規約を確認し、式典の席順を組み、条約の草案に注釈を付ける。殿下はそれを読み、署名し、使節の前で堂々と語る。使節たちは「第二王子殿下は外交に明るい」と感心した顔を見せる。その資料を誰が書いたかは、誰も尋ねない。殿下も言わない。セレスティーヌも、言う必要はないと思っていた。


書簡の末尾に蝋封を押すのは、いつもセレスティーヌの仕事だった。朝の薄い光の中で、殿下の紋章入りの蝋を溶かし、封をする。蝋が固まるまでの数秒間、指先で押さえている。殿下の名前で出される文書に、自分の手で封を押す。その蝋の温もりだけが、自分がこの仕事に関わった証だった。


蝋が冷えると、もう自分の手の形は残らない。殿下の紋章だけが残る。


その仕事が好きだった。自分の名前は残らなくても、殿下の信用が積み重なっていく。それで十分だと、そう思えていた頃がある。


好きだと思っていた。


「退屈な婚約者」と殿下が側近に仰っていたことは、三ヶ月前に使用人の噂で知った。侍女が湯を運んできた朝、不自然に目を伏せたので問い詰めたのではない。ただ、その日から侍女の態度が少しだけ柔らかくなった。気を遣われていると気づいて、理由を察する。難しいことではない。


知ったとき、泣きはしなかった。手にしていた書簡の蝋封が、少しだけ傾く。ああ、と思った。殿下にとって私は退屈だったのか。それはそうだろう。外交書簡の注釈に、華やかさはない。式典の段取りは正確であるほど目立たない。目立たないことが仕事の出来だと思っていたが、殿下が求めていたのは正確さではなく華だったらしい。


退屈。


それ以来、蝋封を押す手が少し重くなった。殿下の紋章を溶けた蝋に沈めるたびに、退屈な手で退屈な封をしているのだと考えた。けれど手は止めなかった。止めたところで、殿下は気づかないだろう。封をしていたのが誰だったか、きっと知らない。


この二年間で殿下の口から聞いたどの言葉より、その一語は正確にこちらの輪郭を描いた。


広間を横切る。足音を立てないように歩く癖は、式典の段取りを確認しながら広間を移動していた二年間で身についたものだった。百人の視線が背中に当たっている。同情か、好奇か、安堵か。どれであっても構わなかった。


退屈な婚約者は退屈に去る。それでいい。


ロザリンドの横を通り過ぎるとき、花の香りがした。あの令嬢が胸元につけている白い花の香り。華やかで、甘くて、広間の空気を変えるような匂い。自分がつけたことのない種類の花。殿下が選んだのは、こういう香りのする人だったのだろう。


扉の前で足を止める。振り返ろうとして、やめた。


殿下に言いたいことが、何かあったはずだった。二年分の仕事のこと。蝋封のこと。毎朝の書簡のこと。退屈だったかもしれないけれど、あれは全部、殿下のために。


そこまで考えて、やめた。言ったところで、何が変わるだろう。


「退屈な婚約者」には、退屈な別れが似合う。


セレスティーヌは扉の向こうに出た。振り返らなかった。


広間の喧騒が、扉一枚分だけ遠くなる。


あの一瞬の沈黙が、全ての答えだった。

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