幕間 掲示板
朝、アンナが最初にすることは、掲示板の前に立つことだった。
十二年、そういう職場だったと聞いている。彼女が入ったのは六年前だから、その全部を見たわけではない。ただ、朝いちばんに掲示板が埋まっているのは、当たり前のことだった。
今日も空だった。
空になって、十九日になる。
◆
「まだ出ないのか」
最初の客は、東区の粉屋だった。三度目である。
「申し訳ありません」
「額を出せんというのは、どういうことだ。うちは水路の掃除を頼みたいだけだぞ。子どもの使いじゃない」
「危険度の査定に、少しお時間を」
「先週もそう言われた」
アンナは頭を下げた。下げるしかなかった。
依頼票の様式は変わっていない。用紙も、判も、机も同じ場所にある。ただ、危険度の欄と報酬額の欄が空のまま返ってくる。
支部長は書けないのではなく、書いていた。書いた額で誰も受けないだけだった。
◆
「〈黒沼〉の薬草、銀貨五枚で出した」
昼前に、支部長がそう言った。
「受け手はいるか」
「……まだ、どなたも」
「三日貼って一人もか」
「はい」
支部長は掲示板を見た。二十六枚あった依頼票は、いま四枚しか貼られていない。四枚とも、彼が査定したものだ。
「相場が分からん」
彼が自分でそう言ったので、アンナは驚いた。責められると思っていた。
「等級表はあるだろう。危険度三、往復二日、採取量二十。計算すれば五枚だ」
「……表は、そうなります」
「では五枚でいいはずだ」
アンナは言葉を探した。
〈黒沼〉の周りで薬草が採れなくなったのは、去年の秋からだ。同じ量を集めるのに、以前の倍歩く。歩けば宿代がかかる。だから相場は十二枚まで上がっている。
その話を、彼女は誰から聞いたのだったか。
思い出せなかった。思い出せないくらい、当たり前に空気の中にあった。
「表に載っていない事情が、いくつかあります」
「たとえば」
「……申し訳ありません、正確な数字を、私は」
支部長は少し待った。待ってから、掲示板に背を向けた。
◆
午後、〈鉄槌〉のバルドが受付に来た。
A級である。この支部でいちばん稼ぐ男で、いちばん短気だと言われている。今日はどちらの顔もしていなかった。
「クレイグの家に行ってきた」
アンナは立ち上がった。
「北の第三区だ。前は西区にいたんだが、去年移った。俺も知らんかった」
「はい」
「金が届いとらん」
彼女は台帳を出した。死亡給付の欄に、クレイグの名前がある。金額も書いてある。処理済みの判が押されていない。
「送り先が、記録では西区になっております」
「移ったと言っとるだろう」
「はい。ですので、書き換えが必要で」
「誰が書き換える」
アンナは答えられなかった。
書き換えの起票は内務が行う。内務の席は、いま空いている。
「机を見せてくれ」
「机は、先週片付けました」
言ってから、自分の声が薄いのが分かった。
片付けたのは彼女ではない。支部長の指示で、備品の再配置が行われた。抽斗の中身は、まとめて倉庫の箱に入っている。何箱かは分からない。
「探します」
「いつまでに」
「……今日中に」
バルドは、しばらく彼女を見ていた。
「あんたを責めとるんじゃない」
彼はそう言った。
「クレイグの女房に、俺が金を渡した。組合の名前で渡した。俺の金だ。だが、そういうことを俺がやり続けるなら、俺はここにいる意味がない」
彼は帰った。
次の日、〈鉄槌〉は登録を移した。西の第二支部へ、六人まとめてである。
◆
その日の終わりに、書記官が言った。
部屋には三人しかいなかった。誰にともなく言ったような口調だった。
「前は、誰がやってたんですかね」
アンナは書類を揃える手を止めた。
止めてから、揃え直した。
「発注書、締め日が明日なんですけど」書記官は続けた。「三日前に出すものらしいって、誰かが言ってて。でも誰が言ってたか思い出せなくて」
「……三日前です」
「え」
「締め日の三日前に出します。当日ではなく」
書記官は、へえ、という顔をした。
「詳しいですね」
アンナは何も言わなかった。
名前を出せば、支部長の耳に入る。切った人間の名前を、切った本人の前で出す意味を、彼女はまだ決められずにいた。
◆
三日後、支部長が掲示を出した。
——内務職員 一名 急募。
応募は四人あった。三人は帳簿を扱った経験があった。
採用された男は、初日に前任者の引継ぎ書を渡された。三十二枚あった。
一枚目の注釈を読んで、彼は言った。
「〈二〉というのは、何ですか」
誰も答えられなかった。




