第四十五話 引継ぎに、どれくらい
一の月の二十日、俺は最初の判を押した。
押したのは、〈黒沼〉の依頼の額である。レイが書いた。二十三枚のうちの一枚だ。
押すのに、四半刻かかった。額が間違っていたからではない。押していいのかを、自分で確かめるのに時間がいった。
半年前まで、俺は押される側だった。押される側は、押す側が何を確かめているかを知らない。
知らないまま、遅いと思っていた。
◆
二十一日目に、書記官が二人辞めた。
支部長が替わると、こういうことが起きる。俺は引き止めなかった。引き止めても、半年で辞める。
辞める前に、二人とも引継ぎ書を書いた。
一人は四枚。もう一人は一枚だった。
一枚のほうを、俺は読んだ。
書いてあったのは、鍵の場所と、備品の在り処と、掃除の当番だけだった。
俺は、その人を呼んだ。
「これで、全部ですか」
「全部です」
「あなたは三年いました」
「三年です」
「三年で覚えたことが、一枚ですか」
◆
その人は、少し困った顔をした。
「書くことが、思いつきません」
「思いつかないのは、当たり前です」
俺は言った。
「毎日やっていることは、書くものだと思いません。自分の家の階段の段数を紙に書く人はいません」
「では」
「訊きます」
俺は紙を出した。
「俺が訊きます。あなたは答えてください。答えを、俺が書きます」
◆
二日かかった。
一枚が、十四枚になった。
出てきたのは、こういうものだった。
受付に来る人のうち、朝いちばんに来る人はたいてい急いでいない。急いでいる人は昼前に来る。
北から来た依頼者は、宿を取ってから来る。宿を取っていない人は、その日のうちに帰る。帰る人の書類は先に回す。
〈鉄槌〉のマルコは、書類を三度確かめる。三度目まで待つ。
三年ぶんである。
書いてみると、十四枚あった。
「これ、要りますか」
その人は訊いた。
「要ります」
俺は言った。
「これがないと、次の人が三年かけます」
◆
十四枚を綴じて、俺はその人に渡した。写しを一部取って、支部に置いた。
渡すとき、その人は少し笑った。
「三年で十四枚ですか」
「十四枚です」
「思ったより、やっていたんですね」
「やっていました」
俺は言った。
「やっていたことに、辞める日まで気づかないのが、この仕事です」
◆
二の月に入って、新しい書記官が来た。
二十歳だという。名をミナといった。
着任の日、彼女は俺のところへ来て、こう訊いた。
「引継ぎに、どれくらいいただけますか」
俺は、その一言で手が止まった。
九月前、俺は同じ言葉を、この部屋で言った。
言った相手は、いま王都を出て、家に帰っている。
三日だ、と言われた。
三日では無理です、と俺は答えた。
◆
「日数では、お答えできません」
俺は言った。
「日数ではない、というのは」
「終わりを日で決めません」
俺は十四枚を出した。
「前の方が書いたものです。読んでください。読んで、分からないところに印をつけてください」
「印をつけたら」
「そこを直します。直したら、また読んでいただきます」
「何度もですか」
「印がつかなくなるまでです」
◆
ミナは、少し不安そうな顔をした。
「終わりが、見えません」
「見えません」
「困ります」
「困ります」
俺は言った。
「ですが、三日と言われて三日で終わったことにするより、困るほうがましです」
「そうですか」
「そうです」
俺は言った。
「九月前、この部屋で三日と言われました。三日で書きました。書いたものは、誰にも読めませんでした。読めるようにするのに、そのあと九月かかりました」
◆
「誰が読めるようにしたんですか」
「本部から来た人と、三月前に入った人です」
「その人たちは、書いた人ではないんですね」
「違います」
「書いた人は、何をしていたんですか」
俺は答えた。
「訊かれたことに、答えていました」
ミナは、しばらく黙った。
「それだけですか」
「それだけです」
俺は言った。
「それだけが、いちばん難しいと分かるまでに、九月かかりました」
◆
「支部長」
ミナが振り返った。
「一つ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「終わりが見えないのは、支部長も同じですか」
「同じです」
「不安じゃないんですか」
「不安です」
俺は言った。
「ただ、不安なのと、間違っているのは別です。九月前、終わりが三日だと決まっていました。決まっていたので、不安ではありませんでした」
「そのときは、どうなりましたか」
「全部、間違っていました」
◆
その日の夕方、俺は覚書を一枚書いた。
トゥーレで書いていたのと、同じ形式である。
——引継ぎの終わりを、日数で決めない。
——渡した側ではなく、受け取った側が、印がつかなくなったと言ったときに終わる。
——渡した側は、終わりを宣言しない。
三行目を書いてから、俺はその下に足した。
——この規則は、渡す側に不利である。いつまでも終わらない可能性がある。それでよい。渡す側の都合で終わる引継ぎは、渡っていない。
◆
書き終えて、俺は壁を見た。
この部屋には、何も貼っていない。
一階の掲示板の脇には、レイの紙が二枚貼ってある。「説明できるうちに書く」と、「空になる前に気づく方法。(未定)」である。
俺は自分の書いた一枚を、壁に貼った。
貼ってから、少し考えて、下にもう一行足した。
——これを書いたのはヨナ・レンデル。九月前、三日で引継ぎ書を書いて、誰にも読めないものを残した者である。
名前を書いたのは、そのほうが取り消しにくいからだ。
◆
貼った紙を、翌朝レイが見に来た。
見て、何も言わずに戻っていった。三日後、一階の掲示板の脇に、彼の紙がもう一枚増えていた。
——渡す側は、終わりを宣言しない。
俺の書いた三行目を、そのまま写している。写したことを、彼は俺に言わなかった。
言わなくていい。写されたものは、もう俺のものではない。
◆
二の月の十日、トゥーレから便が来た。
アンナの字だった。
——覚書に印をつけました。二十二個です。
——うち九個は、その日のうちに直しました。九個とも、ヨナさんの書き方が速すぎるところでした。
——残り十三個は、ロダンさんとセリさんと三人で、二十日かけて直しています。
——一つだけ、直せないものがあります。四十一の質問の、二番です。
——反対する役の人が取次官になった場合、反対するのは誰か。
——まだ決まっていません。決まっていないと、覚書に書きました。
◆
俺は、その手紙を三度読んだ。
二十二個の印。九個は即日、十三個に二十日。数字だけ見れば、順調である。
順調なのに、落ち着かなかった。
落ち着かない理由は、四十一の質問の二番が残っていることではない。あれは残っていていい。俺も答えを持っていない。
落ち着かないのは、**まだ何も失敗していない**からだった。
半年前、俺は九月で三回失敗した。麦の見積りで二枚。断らないと書いて撤回。証の上限を自分で決め続けたこと。
三回とも、失敗してから仕組みが直った。直る前に、必ず一度、外している。
あの村の仕組みは、失敗を書けるようにできている。書けるようにはできているが、まだ一度も書かれていない。
書かれていない仕組みが動くかどうかは、書かれるまで分からない。




