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第四十四話 椅子が二つある

 支部長室に入るのは、九月ぶりだった。

 前に入ったときは、椅子を勧められなかった。次に入ったときは、椅子が一つ出ていた。

 今日は、二つあった。


「座れ」


 カルロが言った。


「どちらにですか」


「どちらでもいい」


 俺は、机の手前の椅子に座った。半年前に座ったほうである。


           ◆


「引継ぎだ」


 彼は机の上を指した。

 紙束が二つある。

 一つは、三十二枚。角が丸くなっている。九月、繰り返し開かれた紙の形をしている。

 もう一つは、六十八枚だった。真新しい。


「どちらを渡す」


「両方いただきます」


「両方か」


「両方です」


 俺は言った。


「六十八枚は読めます。三十二枚は読めません。読めないほうに、読めるようにした人の九月が入っています」


           ◆


 カルロは、そこで少し黙った。


「レンデル。一つ言っておく」


「はい」


「私は、お前に謝らん」


「はい」


「謝ると、九月前の判断が間違いだったことになる」


 彼は言った。


「間違いだった。だが、あのとき私が持っていた材料で、あの判断以外を出せたとは思わん。材料が足りなかった。足りない材料で判断したのは私だが、材料を渡さなかったのはお前だ」


「そうです」


 俺は言った。


「渡しませんでした」


           ◆


「だから、謝らん代わりに、これを渡す」


 彼は六十八枚を押した。


「私が読めるようにさせた。トーレンとレイが書いた。私は一枚も書いていない」


「一枚も」


「一枚もだ」


 カルロは言った。


「書こうとした。三度やって、三度とも書けなかった。私は帳簿が読める。読めるが、この支部の仕事を知らん。知らん者が書くと、知らんことが書けん」


 彼は椅子を引いた。


「書けんことに気づくのに、九月かかった」


           ◆


 書けんことに気づくのに九月かかった、というのは、正確な言い方だった。

 この人は、書けなかったのではない。書けないと気づけなかった。書けないと気づくには、何を書くべきかを先に知っていなければならない。知らない人間には、自分が何を知らないかが見えない。

 俺も同じだ。半年前、俺は自分の帳簿が読めないものだと気づいていなかった。


 俺は六十八枚を開いた。

 一枚目に、目次があった。三十二枚には目次がなかった。

 二枚目に、こう書いてある。


 ——この書面には、未定が二十七箇所あります。未定の箇所は、そのように書いてあります。


 ——未定を埋めるのは、次の支部長の仕事ではありません。未定であることを引き継ぐのが、この書面の役目です。


 俺は、その二行を三度読んだ。


「これは、誰が書きましたか」


「トーレンだ」


「二行目もですか」


「二行目はレイだ」


           ◆


「レイさんが」


「三月前に、あいつが持ってきた」


 カルロは言った。


「未定が二十七ある引継ぎ書と、未定が零の引継ぎ書なら、後のほうが危ない。トーレンがそう言ったのを聞いて、書いたそうだ」


 俺は、その紙をしばらく見ていた。

 半年前、俺は三十二枚に四十七個の注釈をつけた。注釈をつけたのは、読めるようにするためだった。読めるようにすれば、渡ったと思っていた。

 未定を書くという発想は、なかった。

 俺の三十二枚に、未定は零だった。

 零だったのは、全部決まっていたからではない。決まっていないものを、書かなかったからだ。


           ◆


 零だったのは、俺が全部を決められる場所にいたからでもある。

 決められる人間の手元では、未定は生まれない。生まれた端から決めてしまうからだ。決めた記録だけが残って、迷った記録は残らない。


「支部長」


 俺が呼ぶと、カルロは扉のところで止まった。


「一つ、伺います」


「なんだ」


「半年、この三十二枚を開いていたそうですね」


「開いていた」


「読めないのに、なぜ開いたんですか」


 彼は、少し考えてから答えた。


「読めるようになる気がしたからだ」


「なりましたか」


「ならん」


 カルロは言った。


「ならんかったが、開いとると、書いた奴が何を毎日やっとったかは分かる。字の速さでな」


           ◆


 その日の午後、俺は支部を歩いた。

 掲示板は二十枚。全部に額が入っている。

 受付にレイがいた。もう一人、名前を知らない若い女がいた。二月前に入ったという。

 金庫室に降りた。

 トーレンが床に座っている。半年前と同じ座り方だった。


「レンデルさん」


「トーレンさん」


「終わりました」


 彼は六十八枚の控えを持ち上げた。


「終わりましたか」


「終わっていません」


 彼は言い直した。


「書き終わりました。渡し終わってはいません」


           ◆


「渡し終わるのは、いつですか」


「あなたが読んで、分からないところに印をつけたときです」


 トーレンは言った。


「印がついたら、そこを直します。直したら、また読んでいただきます。印がつかなくなったら、終わりです」


「何度かかりますか」


「分かりません」


 彼は言った。


「トゥーレでは、十一個だったと聞きました」


 俺は顔を上げた。


「誰から」


「あなたの手紙です。三月前の」


           ◆


 金庫室を出るとき、俺は棚の背を見た。

 〈繰入勘定〉と貼り紙のある帳面が、以前と同じ場所にある。インクはもう新しくない。

 この勘定の中身が他人の金だと、九月前は誰も知らなかった。俺は知っていて、書かなかった。書かなかったせいで、六十枚が正しい用途に使われて、遺族の三月が消えた。


 いま、背の紙には名前がついている。名前がついたものは、次に見た人間が意味を訊ける。


           ◆


 その晩、俺は支部長室で一人になった。

 机の上に、三十二枚と六十八枚が並んでいる。

 俺は三十二枚のほうを開いた。

 九月前、俺が三日で書いたものである。

 字が速い。乱れていない。書き慣れた人間の字だ。

 注釈が四十七個。〈灰〉は〈灰鉄〉商会。〈消/三〉は三の月の消耗品。円の中の点は、原資が別の勘定から来ているという意味。


 読める。俺には読める。

 読めるが、いま読み返すと、これは書面ではなかった。

 これは、覚え書きである。

 自分のために書いたものに、他人の名前をつけて渡した。


           ◆


 二十七枚目を開いた。

 橋の四十枚の見積りが、そこにある。〈石〉と〈灰〉と、丸の中の点。数字の下に線が二本。

 三年前、俺はこれを前の支部長に出した。保留になった。保留のまま、支部長が替わった。

 替わった支部長は、これを読めなかった。読めないまま、十三枚を四回押した。

 橋は五回落ちた。


 俺は、その頁に印をつけた。

 トーレンに言われたとおり、分からないところにつける印である。

 分からないところではない。

 俺が書いた頁だ。

 それでも、印をつけた。

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