第四十三話 置いていく側
発つ日は、十二の月の十八日に決まった。
王都まで六日。着任は一の月の十日である。二十日ほど余るが、雪の季節は便が遅れる。遅れる分を見込んで、早く出る。
前の日の夕方、俺は出張所の戸を開けたままにして、机を片づけた。
片づけるものは、ほとんどなかった。台帳も覚書も目録も、置いていく。俺の抽斗に入っていたのは、使いかけの炭が三本と、封蝋の欠片だけだった。
炭を、俺は置いていくことにした。
◆
最初に来たのは、マヤだった。
粉挽きである。五十を過ぎている。証の帳簿には最後まで触れなかった人だ。
「これ、持っていきな」
布の袋を置いた。開けると、麦粉が入っている。
「王都で粉は買えます」
「買える」
彼女は言った。
「買えるが、うちのは挽きが粗い。粗いほうがパンが重くなる。重いパンは腹が減らん」
「持っていきます」
「持っていけ」
彼女はそれだけ言って、戻っていった。
俺は袋の重さを量った。二斤半ある。六日の道で食べきる量ではない。
◆
二斤半という重さを、俺は覚えておくことにした。
この人は、証の帳簿に一度も触れなかった。寄合で候補に挙がったとき、粉が回らんくなると言って降りた。降りた人が、最後に持ってくるものが粉である。
自分の仕事のものしか持ってこない。それがいちばん正しい渡し方だと思った。
次に来たのは、トビだった。
「四十枚のときは、悪かったな」
「試したんですよね」
「試した」
彼は帳場から持ってきた紙を出した。証が一枚ある。
「これ、返す」
「返す」
「あんたが最初に村に持ってきた紙だ。ゴルドが最初に使って、うちで酒に換えた」
俺は、その紙を見た。
手のひらの半分ほどの大きさで、刻印が薄い。十年使われていなかった印を、俺が押した。
「取っておいたんですか」
「取っといた」
トビは言った。
「あの日、宿に四人おった。四人が見て、翌朝には三十戸が知っとった。あれが最初だ」
◆
「これは、村のものです」
俺は言った。
「返しません。台帳に貼ってください」
「貼るのか」
「貼ります。横に、いつ誰が最初に使ったかを書いてください」
トビは、少し不服そうな顔をした。
「あんた、そういうところがな」
「気味が悪いですか」
「ゴルドが言うとったな」
彼は笑った。
「わしもそう思う」
◆
最初の一枚が、台帳に貼られることになった。
半年前、俺はあの紙を出張所の台帳から切って作った。大きさは手のひらの半分。真ん中に数字を書いて、下に刻印を押した。刻印は建物にあった。十年、誰も使っていなかった。
その一枚が、いま村の記録になる。使われて、戻ってきて、貼られる。紙としては、これでいちばん長く残る形になった。
ハウルは、夜になってから来た。
村長である。六十を過ぎている。半年前、嫌がる九軒に一緒に来てくれた人だ。
彼は座らなかった。戸口に立ったまま、こう言った。
「置いていくものと持っていくものは、分けたか」
「分けました」
「どうなった」
「持っていくものが、一つしかありませんでした」
俺はゴルドの印を見せた。押せない三つ目の印である。
ハウルはそれを見て、しばらく黙っていた。
「それでいい」
◆
「レンデル」
「はい」
「わしは、あんたに礼を言わん」
「はい」
「言うと、あんたがこの村に何かをしてくれたことになる」
彼は言った。
「そうじゃない。あんたは仕事をした。仕事に礼を言うと、次の者にも礼が要ることになる。次の者は、礼が要る仕事だと思って来る」
俺は、その言い方を頭の中で二度繰り返した。
「では、なんと言いますか」
「言わん」
ハウルは言った。
「代わりに、あんたが決めたことを守る。それがこっちの仕事だ」
◆
最後に来たのは、セリだった。
夜が更けてからである。台帳を持っていた。この子は、いつも持っている。
「ヨナさん」
「はい」
「これ、読んでください」
彼女が開いたのは、台帳の最後の頁だった。
俺は読んだ。
そこに書いてあったのは、四十一の質問だった。アンナが集めたものである。番号が振ってある。
答えが、書き足されていた。
◆
「三十六まで、埋まりました」
「誰が埋めましたか」
「みんなです」
セリは言った。
「わたしと、リナちゃんと、ロダンさんで十九。アンナさんが九。村長さんたちが六。ゴルドさんとトビさんとマヤさんで二」
「五つ残っていますね」
「残っています」
彼女は頁をめくった。
残っているのは、全部「誰が」の質問だった。三月前、俺が一つも答えられなかった五つである。
◆
「これ、埋まりませんでした」
「埋まりません」
俺は言った。
「埋まらないのが、正しいと思います」
「なんでですか」
「答えが人だからです」
俺は言った。
「人は変わります。いま埋めると、その人がいなくなったときに書き直します。書き直すのを忘れると、いない人の名前が残ります」
セリはペンを取った。
「じゃあ、そう書いておきます」
「そう、というのは」
「答えが人の質問は、埋めない。埋めずに、毎年見る」
◆
俺は、その一行を見ていた。
毎年見る、というのは、俺が言ったことではない。
この子が、いま自分で足した。
「セリさん」
「はい」
「一つ、頼めますか」
「なんですか」
「その頁を、毎年一度、寄合で読んでください」
「読みます」
「読んで、答えが変わっていたら、書き直してください」
「書き直します」
彼女はそう言って、それから顔を上げた。
「ヨナさん。わたし、選ばれなくてよかったです」
◆
「悔しいと言っていました」
「言いました」
「変わりましたか」
「変わっていません」
セリは言った。
「悔しいままです。悔しいままだけど、よかったです」
「両方ですか」
「両方です」
彼女は台帳を閉じた。
「ヨナさんが、両方書けって言いました」
◆
両方書けと言ったのは、俺だ。
悔しいと、よかったの両方が本当なら、両方書く。片方だけ書くと、書かなかったほうが後で嘘になる。
この子は、それを九月で覚えた。俺は十二年かかって覚えなかった。
アンナは、来なかった。
朝、俺は便に乗った。
荷は服が二着と、木の椀と、引継ぎ書の写しが三十二枚。それに押せない印と、麦粉が二斤半。
村の入口に、人が出ていた。
数えなかった。数えると、数えたことになる。
便が動き出してから、俺は一度だけ振り返った。
看板が見えた。取の字が、まだ曲がっている。
◆
二つ目の丘を越えたところで、御者が馬を止めた。
道の脇に、人が立っている。
アンナだった。
厚い外套を着て、鞄を一つ提げている。書類の鞄だ。角が擦れている。
「乗るんですか」
「乗りません」
彼女は言った。
「ここまでです」
「なぜ、村ではなく」
「村だと、取次官が取次官を見送ることになります」
◆
俺は便から降りた。
雪が降りはじめていた。道に積もるほどではない。
「渡すものがあります」
アンナは鞄から紙を出した。一枚である。
——覚書 第十六枚
——取次官が村を出た日から、覚書に取次官の名前を書かない。役職名だけを書く。
——理由。名前を書くと、その人がやったことになる。役職名で書くと、次の人が同じことをする。
俺は、その一枚を読んだ。
◆
「十五枚目までは、ヨナさんの名前が入っています」
アンナは言った。
「入っています」
「消しますか」
俺は少し考えた。
「消さないでください」
「なぜですか」
「十五枚目までは、俺が一人で決めた記録です」
俺は言った。
「消すと、一人で決めた時期があったことが消えます。次の人が、最初から三人で決めていたと思います。思うと、一人で決めたくなったときに、自分だけが特別だと思います」
アンナはうなずいた。
「では、残します」
◆
彼女は鞄を閉じた。
「ヨナさん」
「はい」
「私は、まだ一度も取次官の仕事をしていません」
「していません」
「たぶん、失敗します」
「します」
俺は即答した。
彼女が少し笑った。
「即答するんですね」
「します」
俺は言った。
「俺は九月で三回失敗しました。麦の見積りで二枚。断らないと書いて撤回。それから、証の上限を自分で決め続けたこと」
「三つ目は、失敗ですか」
「いちばん長く続いた失敗です」
◆
雪が少し強くなった。
御者が咳をした。急かしているのではない。寒いだけだ。
「行ってください」
アンナは言った。
「一つだけ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「失敗したら、手紙を書きます」
彼女は言った。
「そのとき、答えを書かないでください」
「書きません」
「訊いたことと、考えたことだけ書いてください」
「書きます」
俺は言った。
「答えは、そちらで出してください」
◆
便が動き出した。
振り返らなかった。
振り返らなかったのは、戻らないからだ。
三月前、王都へ立ち会いに行ったときは振り返らなかった。あのときは戻るからだった。
同じ動作の理由が、逆になっている。
膝の上に、麦粉の袋があった。二斤半ある。
六日で食べきる量ではない。




