第四十話 名前を言わない三月
三月のあいだ、俺は名前を言わなかった。
言わないというのは、思ったより難しい。
訊かれるからではない。訊かれたら断ればいい。難しいのは、訊かれていないのに言いたくなることだった。
寄合が候補を挙げているのを、俺は横で聞いている。聞いていると、違うと思う名前が出る。出た瞬間に、口が開きかける。
開きかけて、閉じる。それを三月やった。
◆
言わないと決めたのは、俺だ。決めたものを守るのに、これほど手が要るとは思っていなかった。
半年前、俺は「断らない」と書いて、書いたことを撤回した。撤回したのは、守れない約束だったからだ。
今度のは、守れる。守れるが、毎日守り直さなければならない。
候補は、五人挙がった。
一人目はノーレのリナ。十五である。数字に強い。谷を月に二度越える。
二人目はカムリのロダン。窯を六日かけて数え直した男だ。
三人目はセリ。十七。
四人目はアンナ。
五人目は、トゥーレの粉挽きのマヤだった。
マヤの名前が出たとき、俺は少し驚いた。
彼女は五十を過ぎている。粉の相場を三年ぶん覚えているが、証の帳簿には触れたことがない。
「なぜマヤさんですか」
俺はそう訊きかけて、やめた。
訊くと、俺が反対していることになる。
◆
挙げたのは寄合である。俺は一人も挙げていない。
五人のうち三人は、俺が挙げるとしても挙げた名前だった。二人は違った。違う二人が入っていることが、たぶん、いちばん良かった。
二月目に、二人が降りた。
リナが降りた。理由は「ノーレの記録係を続けたい」だった。谷を越えるのは自分の仕事だと思っている、と言った。
マヤが降りた。理由は「粉が回らんくなる」だった。
残ったのは、ロダンとセリとアンナである。
三人が並ぶと、性質がはっきりした。
ロダンは遅い。だが、確かめないと進めない。窯を六日数えたのはそれである。
セリは速い。速いが、まだ十七で、俺の言葉をそのまま使う癖がある。
アンナは、この村で唯一、俺に反対したことがある人間だった。
◆
三月目の初め、俺は宿でトビに捕まった。
「レンデル」
「はい」
「誰がいい」
「言いません」
「わしは寄合に出とらん。言うても構わんだろう」
「構います」
俺は言った。
「あなたが誰かに言います。言われた人が寄合で言います。同じことです」
トビは笑った。
「試したんだ」
「また試しましたか」
「また試した」
彼は樽を叩いた。
「四十枚のときと同じだ。あんたが断るかどうかを見た」
◆
「なぜ試すんですか」
「あんたがおらんくなるからだ」
トビは言った。
「おらんくなる人間が、最後まで同じことを言うかどうかは、見といたほうがいい。最後だけ甘くなる奴がおる。甘くなった奴が置いていったものは、あとで揉める」
俺は、その言い方を覚えておくことにした。
「揉めましたか。前に」
「揉めた」
彼は言った。
「先代の宿の主人が、死ぬ前に酒の樽を三人に約束した。二つしかなかった」
◆
三人が並んだあと、寄合は二十日ほど動かなかった。
動かないのを、俺は横で見ていた。見ていて、何度か口を出しかけた。出しかけるたびに、宿の壁の紙を貼りに行った。貼りに行くと、少し落ち着く。
三月のあいだに、俺は自分の癖を一つ知った。
人を見るとき、俺はその人が何をできるかを先に数える。数えると順位がつく。順位がつくと、上の者を選びたくなる。
寄合は、そう見ていなかった。誰が誰の話を聞くか、誰が誰に言えるかを見ていた。俺の目録にない列である。
◆
決まったのは、三月目の二十日だった。
寄合は半日かかった。俺は呼ばれなかった。呼ばないでほしいと、こちらから言ってあった。
夕方、ハウルが出張所に来た。
「決まった」
「はい」
「訊かんのか」
「訊きます。誰ですか」
ハウルは椅子に座った。座ってから言った。
「アンナだ」
◆
俺は、その名前を聞いて、自分が息を吐いたのに気づいた。
三人のうち誰が来ても、俺は同じ顔をするつもりでいた。つもりでいたのに、体が先に動いた。
つまり俺には、望んでいた名前があった。望んでいたことに、名前を聞くまで気づかなかった。
安心したのではない。安心したかどうかを確かめる前に、体が先に動いた。
「理由を、伺えますか」
「三つ出た」
ハウルは指を折った。
「一つ。あの人は、あんたに反対したことがある。反対した記録が覚書に残っとる。三村の誰でも読める」
「はい」
「二つ。あの人は、この村の者じゃない。村の者だと、身内に甘くなる」
「三つ目は」
「あの人が、いちばん嫌がった」
◆
「嫌がった」
「嫌がった」
ハウルは言った。
「ロダンは、やりますと言った。セリも、やりますと言った。アンナだけが、私は向いていませんと言った」
「それが理由になりますか」
「なる」
彼は即答した。
「わしは六十年、村におる。やりますと言う奴と、向いてませんと言う奴を、両方見た。向いてませんと言う奴のほうが、あとで人の話を聞く」
◆
わしは六十年、村におる。
この人が自分の年数を持ち出したのを、俺は初めて聞いた。数字を出さない人だと思っていた。出さないのではなく、出す場面を選んでいたらしい。
「ヨナさん」
セリが訊いた。
「わたし、選ばれませんでした」
「そうですね」
「悔しいです」
「そうですか」
「悔しいって言ったら、だめですか」
「だめではありません」
俺は言った。
「書いておいてください」
「悔しかったことを、ですか」
「はい」
俺は言った。
「三年後に読み返すと、たぶん役に立ちます。役に立つのは、悔しかったことではありません。悔しかったと書ける人だったということのほうです」
◆
その晩、アンナは出張所に来なかった。
翌朝も来なかった。二日目の朝に来た。
「決まったそうですね」
「決まりました」
「私です」
「聞きました」
彼女は椅子に座らなかった。立ったまま、こう言った。
「一つ、困っています」
「伺います」
「私が取次官になると、反対する役がいなくなります」
◆
俺はうなずいた。
四十一の質問の、二番である。答えられなかったものだ。
「答えを持っていますか」
「持っていません」
「では」
「一緒に考えます」
俺は言った。
「ただ、条件が一つあります」
アンナは俺を見た。
「反対する役を、俺が選びません」
彼女は、そこで初めて笑った。笑い方が、少し疲れていた。
「同じことをするんですね」
「同じことをします」
「では、誰が選びますか」
「あなたです」
俺は言った。
「あなたが選んで、俺が反対します。俺はまだ三月ここにいます。三月のあいだ、俺が反対する役をやります」




