第三十七話 三日ください
落ち着かない理由が分かったのは、その晩だった。
俺は覚書を開いていた。十五枚に増えている。注釈はゼロ。
目録は百七十三項目ある。俺の分は九枚ある。アンナが書いて、俺が二箇所直した。
全部、揃っている。
揃っているということは、俺がいなくても回るということだ。
半年前、俺は自分に【不足視】を向けて、こう見た。
——不足:引継ぎ先(1)
いま、引継ぎ先は三人いる。セリ、リナ、ロダン。反対する人が一人いる。金の話で引かない村長が三人いる。数字を数え直す手順がある。
足りていた。
足りているのに落ち着かないのは、俺が要らないからではない。
**俺がここにいる理由を、俺が決めていないからだ。**
◆
本部からの便が来たのは、七の月の三日だった。
封蝋に本部の印がある。厚い。
一枚目は、事務の書面だった。
——王都支部長カルロ・ヴェインの辞任を受理した。後任の着任は、来年の一の月とする。
——それまでの半年間、支部長職はカルロ・ヴェインが引き続き務め、引継ぎに充てる。
二枚目に、こうあった。
——トゥーレ取次官ヨナ・レンデルを、王都支部長の候補とする。受諾の意思を問う。
◆
俺は二枚目を、三度読んだ。
三度読んで、机に置いた。置いてから、両手を膝に置いた。
「ヨナさん」
セリが顔を上げた。
「顔が」
「そうですか」
「さっきから、そればっかりです」
彼女はそう言って、それから台帳を閉じた。閉じるところを、俺は初めて見た気がした。
「読んでもいいですか」
「どうぞ」
彼女は読んだ。
読み終わって、しばらく何も言わなかった。
「支部長って、ヨナさんを切った人の役ですよね」
「そうです」
◆
「行くと思いますか」
俺は訊いた。
「訊くんですか、わたしに」
「訊きます」
「ずるいです」
セリはそう言って、台帳をまた開いた。開いて、何も書かなかった。
「わたし、書きますよ」
「何をですか」
「ヨナさんがわたしに訊いたことを」
「書いてください」
◆
三枚目は、トーレンの字だった。
——差し出がましいことを申し上げます。
——本部の人事に、あなたの名を出したのは私です。理由を書きます。
——支部長の仕事は、判を押すことです。押す判の中身が分かる人間は、この組合に多くありません。分かる人間は内務に多く、内務からは支部長が出ません。出ない理由は、内務が数字を持たないからです。
——あなたは数字を持っています。半年、王都へ手紙を書き続けて、そのたびに根拠を添えました。人事はそれを読んでいます。
——ただ、私はあなたに受けてほしいとは書きませんでした。
——受けるべきかどうかは、私には分かりません。
◆
四枚目は、レイの字だった。
字が大きい。まだ書き慣れていない字である。
——ヨナさん。掲示板は十四枚です。全部に額が入っています。
——〈牙鹿〉の話、組を二つ作って二日で交代させています。手間は増えました。増えた手間は額に乗せていません。誰も文句を言いません。
——一つ、教えてください。
——同じ区画に三日出さない、というのは、四人死んだから決めたと書いてありました。決めたのは、四人が死んだ後ですよね。
——死ぬ前に決められた人は、いなかったんでしょうか。
俺は、その問いをしばらく見ていた。
「なんて書いてあるんですか」
セリが訊いた。
「死ぬ前に決められた人はいなかったのか、と」
「いたんですか」
「いません」
「じゃあ、そう書けば」
「そう書くと、嘘になります」
俺は言った。
「いなかったのは本当です。ただ、いなかったから決められなかった、という書き方をすると、誰のせいでもないことになります」
「誰かのせいなんですか」
「俺のせいではありません」
俺は言った。
「俺のせいではありませんが、俺は気づいていました」
◆
いなかった、と書くのは簡単だ。
誰も知らなかった。知る方法がなかった。だから決められなかった。
それは本当だ。本当だが、答えになっていない。
「気づいていて、何もしなかったんですか」
「しませんでした」
「なんでですか」
「俺の仕事ではなかったからです」
セリはペンを置いた。置いてから、こう言った。
「ヨナさん、それ、半年前に掲示板でも言いましたよね」
◆
俺は返事を書いた。
——いませんでした。私も、決められませんでした。
——ただ、決められなかったことと、決めようとしなかったことは違います。あの年、私は〈黒沼〉の区画割りを見ていました。同じ組が三日続けて同じ場所に出ているのに気づいていました。
——気づいて、掲示に手を入れませんでした。区画割りは編成の側の仕事で、私の職掌の外だったからです。
——職掌の外だから、と思ったのは、私です。
——あなたには、職掌の外のことを一つ書いてもらいます。掲示板の脇に紙を貼って、額の入っていない票が何枚あるかを毎朝書いてください。それはあなたの仕事ではありません。誰の仕事でもありません。
——誰の仕事でもないものが、いちばん最初に落ちます。
◆
「セリさん」
「はい」
「いま、覚えていてください。この返事を書くのに、俺は半刻かかりました」
「はい」
「半年前だったら、書いていません」
◆
書き終えて、外へ出た。
夜だった。宿に灯りが一つある。ゴルドの鍛冶場に火が残っている。
半年前、俺はこの場所に立って、【不足視】を村へ向けた。
あのときは、記録する人が一人足りなかった。
俺は村へ向けた。
——不足:なし
次に、取次所へ向けた。
——不足:なし
最後に、自分へ向けた。
——不足:断る人(1)
まだ、そこにいた。
アンナは反対する役をやっている。三十一枚のときに一度、彼女は俺を止めた。止めたが、それは村の中の話だ。
俺が王都へ行くと決めたとき、それを止める人は、この村にいない。
村を出る判断は、村の外の話だからだ。
◆
翌朝、俺は三人を集めた。
ハウルと、アンナと、セリである。
「本部から、打診が来ました」
俺は書面を机に置いた。
「王都支部長の候補です」
ハウルは読まなかった。読まずに、俺の顔を見た。
「行くのか」
「決めていません」
「決めろ」
「決めます。ただ——」
俺はそこで、覚書の十五枚目を出した。
「反対する人がいます」
アンナが顔を上げた。
「これは、村の中の話ではありません」
俺は言った。
「ですが、俺は反対を聞いてから決めることにしています。聞かずに決めると、俺が一人で決めたことになります。この半年、それをやめる仕組みを作ってきました」
「私は、村の外のことに反対する役ではありません」
「では、役を広げてください」
◆
アンナは、しばらく黙っていた。
黙ってから、こう言った。
「一晩では足りません」
「足りませんか」
「足りません。三日ください」
俺は彼女を見た。
三日。
半年前、俺は支部長室でこう訊いた。引継ぎに、どれくらいいただけますか。
三日だ、と言われた。
三日では無理です、と俺は答えた。
今度は、俺が渡す側にいる。
◆
「三日で足りますか」
俺は訊いた。
「足りません」
アンナは即答した。
「足りませんが、三日で出します。足りないところは、足りないと書いて出します」
俺は、その答えを聞いて、少しのあいだ何も言えなかった。
半年前、俺は同じ立場で、足りないと言った。言って、そのあと三十二枚を書いた。四十七個の注釈をつけて、六個を思い出せないまま渡した。渡して、それで済ませた。
足りないと言うところまでは、同じだ。
違うのは、その先である。
「お願いします」
俺は言った。
「三日、待ちます」
◆
ハウルが立ち上がった。
「わしは、行けとも行くなとも言わん」
「はい」
「ただ、一つだけ決めとけ」
彼は戸口で振り返った。
「行くにしても行かんにしても、置いていくものと持っていくものを、先に分けろ。分けんまま動くと、両方が半端になる」
俺は頭を下げた。
◆
その日、俺は白紙を出した。
上に書いた。
——引継ぎ書。
半年前と、同じ二文字である。
あのときは、三日で三十二枚書いた。四十七個の注釈をつけた。誰にも読めなかった。
今度は、まだ一行も書いていない。
書き出す前に、俺はセリを呼んだ。
「セリさん」
「はい」
「これ、あなたに書いてもらえますか」
彼女はペンを持ったまま、俺を見た。
「わたしが、ですか」
「はい」
俺は言った。
「俺は、答えるだけにします」




