第三十六話 六の月末日
王都に着いたのは、末日の前日の夕方だった。
門番は、今度は俺の顔を覚えていた。名前は思い出さなかった。
中庭を抜けて、建物に入る。
入って三歩のところに、掲示板がある。
十六枚。
十六枚とも、額が入っていた。
俺はその前に立った。
半年前は二十六枚で、十二枚が空だった。三の月は四枚で、四枚とも空だった。いまは十六枚で、空がない。
札の字は、まだたどたどしい。だが、崩れ方が変わっていた。速く書く人間の崩れ方になっている。
◆
「ヨナさん」
レイだった。書類を抱えている。抱え方が変わった。半年前は胸の前で抱えていた。いまは片腕で脇に挟んでいる。
「来られたんですね」
「明日、立ち会いです」
「聞きました」
彼は掲示板を見た。
「十六枚です」
「数えました」
「毎朝、脇に貼ってます」
彼は掲示板の横を指した。小さい紙が留めてある。
——本日、額の入っていない票 零
「三年かかると言われました」
レイは言った。
「六月で癖になりました」
◆
その晩、俺は金庫室に降りた。
トーレンが座っている。座り方が半年前と同じだった。床に直接座って、頁を繰っている。
「レンデルさん」
彼が名前で呼んだのは、これが初めてだった。手紙では殿だった。
「書き直しは」
「四十一枚です。原本の二十枚ぶんです」
「増えますね」
「増えます」
彼は原本を持ち上げた。角が丸くなっている。
「三十二枚が、たぶん七十枚になります」
「読めますか」
「読めます」
トーレンは言った。
「ただ、七十枚を読む人間が要ります。私は、そこがまだ分かりません」
◆
その言い方に、俺は引っかかった。
「読む人間が要る、というのは」
「三十二枚は、誰にも読めませんでした。七十枚は誰でも読めます」
彼は頁を置いた。
「ただ、七十枚を最後まで読む人が、何人いるでしょうか」
俺は答えられなかった。
「読めることと、読まれることは違います」
トーレンは言った。
「あなたの三十二枚は、読めませんでした。ですが、支部長は半年、あれを繰り返し開きました。角が丸くなっています。読めないから、開いたんです」
「読めたら、開きませんか」
「一度開いて、棚に置きます」
彼は言った。
「これは、まだ答えが出ていません。出ていないので、申し上げておきます」
◆
六の月末日は、雨だった。
三の月の期日も雨だったと、バルテが後で言った。
〈石環〉の書記が二人、朝から金庫室に入っている。目録は前日までにできていた。
バルテは十時に来た。俺を見て、少し驚いた顔をした。驚いた顔をしたのは、そのときが初めてである。
「来られましたか」
「来ました」
「書面で済みましたが」
「済みました」
俺は言った。
「済みましたが、来ました」
バルテは、それ以上訊かなかった。
◆
目録の読み上げは、四半刻で終わった。
金庫の残高が六十二枚。机が四つ。椅子が十一。掲示板が一つ。算盤が三つ。未収の登録料が九件。
合計、銀貨で六十八枚。
九十一枚に、二十三枚足りない。
「不足分は、本部へ請求します」
バルテは言った。
「レンデル殿。名義の二件を確認します」
俺は署名した。二件とも、三年前に俺が自分の名前で結んだものである。片方は石工。もう片方は、遺族への給付を運ぶ便の請負だった。
名義を支部へ移して、判を三つ押した。俺と、支部長と、バルテである。
カルロは何も言わずに押した。
◆
押し終わって、バルテが立った。
書記が目録を綴じて、封をする蝋を出した。
バルテは、それを止めた。
「封は、しません」
書記が手を止めた。カルロが顔を上げた。
「理由を申し上げます」
バルテは、掲示板のほうを指した。壁越しなので、そこに掲示板はない。指したのは方角である。
「三日前から、私の書記が掲示板を数えています。初日が十四枚、二日目が十五枚、昨日が十六枚。全部に額が入っていました」
「それが」
「三の月に私が来たときは、四枚で、四枚とも空でした」
彼は鞄の留め金を締めた。
「机と椅子を持っていくのは簡単です。ですが、いま持っていくと、あの掲示板が止まります。止まると北の街道が止まり、当商会の荷が通らなくなります」
◆
「差押えて六十八枚を得るのと、荷が通り続けるのと、どちらが得か」
バルテは言った。
「数えました。荷のほうが得です」
カルロが口を開いた。
「温情か」
「勘定です」
バルテは即答した。
「温情なら、三の月に六十枚を待った時点で使い切っています」
彼は書記に目録を渡した。
「本部への請求は二十三枚のみ。目録は封じません。以上です」
部屋を出るとき、彼は俺の横で足を止めた。
「レンデル殿」
「はい」
「一つ申し上げます」
◆
「あなたは半年、王都へ手紙を書き続けました。数字を出し、根拠を書き、猶予を頼み、断られ、また書いた」
バルテは、俺の顔を見ていなかった。廊下のほうを見ていた。
「そのあいだ、あなたは一度も、自分を切った男を責めませんでした。責めるほうが早い場面が、少なくとも三度ありました」
「……」
「私は十九年この仕事をしています。取り立てる相手が誰かを責めはじめると、その相手はたいてい潰れます。責める材料を探す時間で、勘定が合わなくなるからです」
彼は歩き出した。
「あなたは探しませんでした。だから支部が残りました」
俺は、その背中を見送った。
責めなかったのは、立派だったからではない。責めても金が入らないからだ。入らないものに時間を使うと、入るものを数える時間が減る。それだけの計算だった。
計算でやったことを、他人が徳のように言ってくれることがある。
言われたほうは、たいてい落ち着かない。
◆
雨が上がってから、俺は掲示板の前をもう一度通った。
癖である。
十六枚。空はない。
脇の小さい紙に、今日の分が書き足されていた。
——本日、額の入っていない票 零
俺は【不足視】を向けた。
——不足:なし
半年前、ここには一が浮かんでいた。査定者が一人足りない、と。
あのとき俺は、それを自分のことだと思った。俺が抜けたから一足りない、と読んだ。
読み違えていた。
足りなかったのは、俺ではない。査定者が一人だ。誰でもよかった。
誰でもよかったものを、俺は十二年、自分にしかできないと思っていた。
◆
門を出るとき、二階の窓が開いていた。
カルロが立っている。
目が合った。合ったが、どちらも何も言わなかった。
半年前、俺はこの門を出た。あのとき、彼は俺を見送らなかった。人員表に赤い線を三本引いて、引き出しに木札を落とした。
いま、彼は窓にいる。
俺は頭を下げた。
下げてから、下げた理由を考えた。考えたが、うまく言葉にならなかった。
言葉にならないまま、俺は門を出た。




