第三十一話 三角が二つ
トーレンからの問いは、一行だった。
——〈黒〉の項に、三角が二つ打ってあります。三角は期日が月をまたぐ印です。二つ打ってあるのはここだけです。意味を教えてください。
俺は覚えていなかった。
覚えていないと書いて出そうとして、手が止まった。
三角が二つ。
一つは期日。もう一つは。
「セリさん」
「はい」
「〈黒沼〉の依頼を、この半年で何件回しましたか」
「四件です」
彼女は台帳を開いた。この子は開く前に答える。開くのは、俺のためだ。
「四件とも、二の月と八の月です」
◆
二の月と八の月。
俺は自分の手が動くのを見ていた。書きながら思い出すことがある。頭より先に手が覚えている。
〈黒沼〉は、雨季の前後に依頼が集まる。集まると、期日が月をまたぐ。だから三角を打つ。
もう一つの三角は、そのときに限って、報酬の締めが翌々月にずれるという印だった。
なぜずれるのか。
沼の水位が下がるまで、素材の検分ができないからだ。検分できないと買取価格が決まらない。決まらないと精算できない。
だから〈黒沼〉の依頼は、決算が三月後になる。
第二勘定を必ず通る。
俺は返事を書いた。
——三角二つは、期日が月をまたぎ、かつ精算が翌々月にずれるという印です。〈黒沼〉だけです。理由は、沼の水位が下がるまで検分ができないからです。
書いてから、一行足した。
——この印を打ったのは、九年前です。四人死んだ年の翌年でした。
◆
「ヨナさん、いま思い出しましたよね」
「思い出しました」
「どうやってですか」
「書いていたら、思い出しました」
「書く前は」
「分かりませんでした」
セリはペンを走らせた。
「じゃあ、分からないときは書くんですね」
「そうかもしれません」
◆
なぜ足したのかは、自分でも分からなかった。
訊かれていない。
訊かれていないことを書くのは、俺の癖ではない。十二年、俺は訊かれたことにだけ答えてきた。訊かれなければ言わなくていいと思っていた。
その考え方が誤りだと、半年前に書いた。書いたが、直っていなかった。
直っていないことに気づいたのは、四枚目を書いたときだ。
レイ宛に、〈牙鹿〉の匂いの話を書いた。あれは訊かれていない。額にも乗らない。乗せると誰も受けない。
書いておかないと、また誰か死ぬ。
◆
「四人って、誰ですか」
セリが訊いた。
「〈石の門〉という組です。四人で入って、四人とも戻りませんでした」
「ヨナさんが出したんですか」
「俺が出しました」
俺は言った。
「危険度はB級でした。等級も合っていました。手順も合っていました。合っていて、四人死にました」
「じゃあ、ヨナさんのせいじゃないです」
「そうかもしれません」
俺は言った。
「ただ、翌年から俺は印を打つようになりました。誰にも言わずに」
◆
便に出してから、俺はもう一度、四つの印を思い出そうとした。
トーレンが解けていない四つのうち、一つは今答えた。残りは三つ。
三つとも、思い出せなかった。
「思い出す方法、ありますか」
セリが訊いた。
「形を見ることです」
俺は言った。
「意味は忘れても、形は手が覚えています。金庫番の人がそうでした。丸に点を、あの人は書いているところを見ていた。見ていたから、形を覚えていた」
「じゃあ、書いてみたらどうですか」
俺は顔を上げた。
「書く」
「その三つの印を、紙に書いてみるんです。手が覚えているなら、手が思い出すかもしれません」
◆
やってみた。
紙を出して、三つの印を、速く書いた。速く書くのが大事だと思ったからだ。丁寧に書くと、考えてしまう。
一つ目は、四角の中に横線が一本。
書いた瞬間に、右手が続きを書こうとした。四角の下に、小さく数字を書こうとしている。
数字。
等級だ。
「思い出しました」
「なんですか」
「等級の但し書きです」
俺は書いた。
「依頼の危険度と、受ける側の等級が合っていないときに打ちます。B級の依頼を、A級に回した、というような場合です」
「なぜ合わせないんですか」
「合わせられない日があります」
俺は言った。
「A級が三人しかいない日に、A級の依頼が四件来ることがあります。そういう日は、一件をB級に落とすか、A級一人に二件出すか、どちらかです」
「どっちにするんですか」
「その日の顔ぶれで決めます」
◆
顔ぶれで決める、と言ってから、俺は口を閉じた。
これが、紙に書けなかったものだ。
誰と誰を同じ現場に出さないか。誰の報酬を先に払うか。誰の名前を掲示に出さないか。
頭の中に百は入っている。書くと、全部、悪口になる。
バルドは、書いておけと言った。
「セリさん」
「はい」
「この村で、誰と誰を同じ日に働かせないほうがいいか、あなたは知っていますか」
セリはペンを置いた。それから、少し考えて言った。
「マヤさんとトビさんです」
俺は驚いた。
「なぜですか」
「三年前に、粉の値で揉めました。いまは普通に話しますけど、二人で決めごとをすると長引きます」
「知っていましたか」
「村の子はみんな知っています」
◆
「マヤさんとトビさん、他にもありますか」
「ゴルドさんとケルトさんも、たぶん」
「なぜですか」
「二人とも鍛冶です」
セリは言った。
「同じ仕事の人が二人で決めると、外の人が入れなくなります」
俺は彼女を見た。
十七の子が、いま言ったのは、俺が十二年かけて覚えたことだった。
「それも、村の子はみんな知っていますか」
「これは、わたしが考えました」
◆
俺は、その晩、紙を一枚出した。
上に、こう書いた。
——組み合わせの覚書。
書いてから、手が止まった。
止まったのは、書き方が分からなかったからではない。書けば悪口になる、という言い訳が、もう使えないと分かったからだ。
村の子はみんな知っている。
書かないことで守っているつもりだったものは、とっくに全員が知っていた。守られていたのは、俺だけだった。書かないでいれば、判断しているのが自分だという形が残る。
俺は書いた。
——マヤとトビは、二人だけで決めごとをさせない。三人目を入れる。理由、三年前の粉の値。本人たちは済んだと思っている。済んでいるが、遅くなる。
——これは悪口である。悪口だが、書く。書かないと、次の人が同じ日に二人を組ませる。
三件書いて、そこで止まった。
四件目は、アンナとセリの組み合わせだった。
二人の間に問題はない。問題はないが、二人とも俺の言うことをよく聞く。
よく聞く人間だけで回すと、止まらなくなる。
書くべきかどうか、俺は一晩置くことにした。
◆
置いた一晩は、無駄にならなかった。
翌朝、リナが谷を越えてきた。ノーレの証を三十七枚持っている。月に二度、突き合わせのために運んでくる。
彼女は机に束を置いて、それから、一枚だけ別にした。
「これ、見てください」




