第二十六話 印がついていた
帰りも六日かかった。
行きと違って、荷が一つ増えていた。三十二枚の紙束の写しである。トーレンが夜通しで作った。原本は王都に置いてきた。
「持っていってください」
彼はそう言った。
「私とレイで書き直します。書き直したものと、これを、突き合わせます」
「突き合わせて、どうしますか」
「違うところが、あなたが答えられなかったところです」
俺はその言い方が気に入った。
半年前、俺は三十二枚を渡して、それで済ませた。読めるかどうかを確かめる手立てを、一つも用意しなかった。トーレンは用意している。
◆
バルドとは、二日目の宿で別れた。
彼は北へ行くと言った。〈銀羽〉には戻らないらしい。
「〈鉄槌〉に戻らないんですか」
「戻る場所は、もうない」
彼は荷を担ぎ直した。
「マルコが仕切ってる。あいつのやり方でうまくいってるなら、俺が戻ると崩れる」
俺は何も言わなかった。
言うことは、あった。三年前、俺は〈鉄槌〉のマルコと〈白鳶〉のイーサを同じ現場に出したことがある。依頼は成功した。それきりイーサが半年こちらへ来なかった。
紙に書くと悪口になるので、書かなかった。書かなかったから、誰も知らない。
「レンデル」
「はい」
「あんた、村で何人使ってる」
「三人です」
「その三人の、誰と誰を同じ日に働かせちゃいかんか、書いてあるか」
俺は答えられなかった。
「書いとけ」
バルドはそう言って、北へ歩いていった。
◆
村に着いたのは、六日目の夕方だった。
看板の取の字が、相変わらず曲がっている。
出張所の戸を開けると、机の上に覚書が広げてあった。十四枚ある。
その端に、細い紙が何本も挟まっていた。
「ヨナさん」
セリが奥から出てきた。台帳を持っている。この子は台帳を持っていないところを、めったに見せない。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
「読みました。全部です」
彼女は覚書を指した。
「印をつけました」
「いくつですか」
「十一個です」
◆
十一。
半年前、俺は引継ぎ書に四十七個の注釈をつけた。四十一個は他人が解いた。残り六個のうち、二つは金庫番が思い出した。四つは、最後まで俺しか知らなかった。
今度は十四枚に注釈がゼロで、分からないところが十一ある。
数え方が違うので、比べても意味はない。意味はないが、俺は少しだけ、負けた気がしなかった。
「見せてください」
セリは一枚目を開いた。
「ここです。『兌換は断らない』と書いてあります」
「書きました」
「準備金が尽きたら、どうなりますか」
俺は答えようとして、止まった。
「……断ります」
「断らないと書いてあります」
「書きました」
「どっちですか」
◆
どっちか、というのが正しい訊き方だった。
俺は三つの規則を、半年前に決めた。二つ目が「証を持ってきた人には、その場で銅貨に換える。断らない。一枚でも換える」である。
あれは、そう言い切ることに意味があった。断らないと言い切っている人間がいるから、人は換えに来ない。
だが、尽きたら物理的に断ることになる。
「書き直します」
俺は言った。
「断らない、ではなく、こう書きます。準備金が尽きたときは、その日の分を止めて、翌日に回す。止めたことを、その日のうちに掲示する」
「掲示、というのは」
「宿の壁に貼ります。何枚換えて、あといくら残っているかを、毎日」
セリはペンを動かした。動かしてから、手を止めた。
「それ、怖くないですか」
「怖いです」
「残りが少ないと、みんな来ますよ」
「来ます」
俺は言った。
「ですが、貼らないと、少なくなっていることを知っているのが俺だけになります。知っているのが一人だと、その一人が黙った日に、全部が終わります」
◆
三つ目の規則も、同じ形をしていた。
証は銀貨三十枚ぶんまでしか出さない、と半年前に決めた。いまは六十枚ぶんである。上げたのは、二村の見込みが増えたからだ。増えたときは上げる、減ったときは下げる、と書いてある。
書いてあるが、下げたことは一度もない。
二つ目の印は、上限のところだった。
三つ目は、印の保管場所。四つ目は、ノーレとの取り分の割り方。
十一個のうち九個は、その日のうちに直した。直せば済むものだった。
残り二個を、俺は直せなかった。
夜になって、アンナが戻ってきた。ノーレへ行っていた。リナと台帳を突き合わせて、二日かかったという。
「二つ残っているそうですね」
「セリさんに聞きましたか」
「聞きました」
彼女は椅子に座った。三つ目の椅子は、ゴルドがまた勝手に作って置いていった。
「どれですか」
「一つは、上限をいくらにするかです」
「六十枚ぶんと書いてあります」
「書いてあります。ですが、どうやって六十と決めたかが書いてありません」
俺は覚書をめくった。
「二村の半年の見込みを足して割った、と書いてあります。足して割ったのは俺です。次に上げるとき、誰がどうやって決めるかが、書いてありません」
「もう一つは」
俺は少し黙った。
「最後に決めるのは誰か、です」
◆
アンナは、すぐには答えなかった。
「三つの印を押すことにしたんですよね」
「しました」
「三人で決めるということでは」
「決める形は、そうです」
俺は言った。
「ただ、数字を出しているのは、まだ俺です。ハウルさんとガレンさんは、俺が出した数字に押しています。押すか押さないかは選べますが、押さないという選択を、二人は一度もしていません」
「一度も」
「一度もです」
彼女はしばらく黙っていた。それから、こう言った。
「王都では、誰が押しませんでしたか」
俺は顔を上げた。
「三年前、橋の四十枚を保留にした支部長です」
「その人は、なぜ押さなかったんですか」
「額が大きかったからです。それだけです」
「理由が要りますか」
「要ります」
俺は言った。
「理由のない保留は、ただの遅れです。あの三年で、橋は四回落ちました」
◆
その晩、俺は覚書の最後に一枚足そうとして、書けなかった。
書こうとしたのは、こうだ。
——取次官の出した数字に、理由をつけて反対できる者を一人置く。
置く、と書くのは簡単だ。誰を置くかが書けない。
ハウルは金の話でしか引かない。ガレンは自分の村の数字しか見ない。セリは十七で、リナは十五だ。アンナは来て三月になる。
書けないまま、俺は灯りを消した。
消してから、暗いところでもう一つ思い出した。
バルドが言ったことだ。三人のうち、誰と誰を同じ日に働かせてはいけないか、書いてあるか。
書いていない。
書けば、悪口になる。
◆
戸が鳴ったのは、その直後だった。
「ヨナさん」
セリだった。灯りを持っている。
「宿のトビさんが、来ています」
「こんな時刻に」
「証を、換えたいそうです」
俺は起き上がった。
「何枚ですか」
セリは、少し言いにくそうにした。
「四十枚です」




