第二十五話 お前が書くな
石工との約束を、俺の名前から外す方法は、二つある。
一つは、契約を〈銀羽〉に移すこと。これは判で済む。ただし、石工が納得しない。石工は組合を信用していない。四回とも、組合の承認は間に合わなかった。
二つ目は、こうだ。
「橋を、直さないことにします」
カルロが眉を寄せた。
「落ちたままにするのか」
「直します。ただ、落ちてから直すのをやめます」
俺は紙を出した。橋の図が描いてある。描いたのは俺ではない。石工が描いた。三年前に、俺が頼んで描かせた。
「五回とも、同じ場所が落ちています。石工は原因を知っています。橋脚の根が浅い。深く打ち直せば、落ちません」
「いくらだ」
「一度で、銀貨四十枚です」
カルロは黙った。
数字を出すと、話が急に短くなる。
半年前もそうだった。やり方は変えていない。変わったのは、聞く側だ。
「四回直した費用の合計は、五十二枚です」
俺は言った。
「五回目を入れると、六十四枚になります。深く打っていれば、四十で済みました」
「なぜ、やらなかった」
「四十枚の承認が下りなかったからです」
俺は言った。
「十三枚なら下ります。四十枚は上に回ります。上に回すと三月かかります。三月のあいだ、橋がありません」
◆
カルロは、長いこと図を見ていた。
「俺は、十三枚を四回押した」
「押されました」
「四十枚を、一度押せばよかった」
「はい」
「なぜ、そう言わなかった」
俺は答えた。
「言いました。三年前に、前の支部長に。書面で出しました」
「どうなった」
「保留になりました。保留のまま、支部長が替わりました」
カルロは目を閉じた。
「その書面は、どこにある」
「引継ぎ書の、二十七枚目です」
◆
「四十枚の見積りは、どこにある」
「引継ぎ書に付けました」
「見た覚えがない」
「〈石〉と書いてあります。石工です」
カルロは目を閉じた。
「石と書いて、石工か」
「はい」
「なぜ、石工と書かない」
「四文字が二文字になります」
俺は言った。
「一日に三十回書くと、六十文字ぶん速くなります。十二年で、どれくらいになるかは数えていません」
◆
彼は部屋を出ていって、しばらく戻ってこなかった。
戻ってきたとき、手に紙束を持っていた。三十二枚ある。角が丸くなっている。半年、誰かが繰り返し開いた紙の形だった。
彼は二十七枚目を開いた。
そこに、〈石環〉と〈灰〉と、丸の中の点が並んでいる。橋、という字はどこにもない。
「読めん」
「読めません」
俺は言った。
「〈石〉が石工です。円に点は、原資が別の勘定から来るという意味です。数字の下の線二本は、支部長の承認がまだ要る印です」
「では、これは」
「四十枚の見積りと、保留の記録です」
カルロは紙を置いた。置いてから、両手で顔を覆った。覆ったのは一度だけで、すぐに下ろした。
「レンデル」
「はい」
「戻ってこいとは、言わん」
「はい」
「言う資格がない」
彼は俺を見た。
「代わりに、一つ頼む」
◆
「この三十二枚を、書き直してくれ」
俺は、その言葉を三度、頭の中で繰り返した。
「三日ではなく」
「何日でもいい。半年でも、一年でもいい」
カルロは言った。
「ただし、条件がある。お前が書くな」
俺は顔を上げた。
「トーレンとレイに書かせろ。お前は訊かれたことに答えるだけだ。答えられなかったものは、答えられなかったと書け」
彼は三十二枚を、机の真ん中に置いた。
「それが引継ぎだ。俺は半年、それを知らずに、紙を三十二枚受け取って済ませた」
受け取って済ませた、という言い方を、俺は覚えておくことにした。
渡した側も、同じことをしていた。三十二枚を渡して、済ませた。読まれるかどうかを確かめなかった。確かめる手立てを、一つも用意しなかった。
渡すというのは、置くことではない。届いたかどうかまでが、渡すことだ。
◆
三十二枚の角が丸くなっている。半年、誰かが繰り返し開いた紙の形だった。
開いていたのは、たぶんこの人だ。読めないものを、半年、繰り返し開いた。
俺は、その紙束を見ていた。
半年前、俺はこの部屋で、三日では無理ですと言った。
三日では無理だった。三日でなくても無理だった。俺が一人で書くかぎり、何日あっても無理だった。書いた人間しか読めないものを、時間をかけて増やすだけだからだ。
足りなかったのは、日数ではない。
読む人だ。
半年前、俺はこの部屋を出るとき、頭を下げなかった。
下げる理由がないと思っていた。切られた側が礼を言う筋合いはない、と思っていたわけでもない。ただ、下げるという動作を思いつかなかった。
俺は立ち上がって、頭を下げた。
「一つ、こちらからもお願いがあります」
「なんだ」
「トゥーレの取次所に、査定を教えられる人を、半年に一度、寄越してください」
カルロが、少し笑った。半年前、この男が笑ったのを見た覚えはない。
「それは、頼みか」
「取引です」
◆
支部を出たのは、日が落ちてからだった。
掲示板の前を通った。癖である。
六枚。六枚とも、額が入っている。
二枚は俺が横で見ていた。四枚はレイが一人で書いた。
「ヨナさん、でしたよね」
レイが、掲示板の脇から声をかけてきた。控えを綴じ終えたらしい。
「明日も、来ますか」
「明日は発ちます」
「そうですか」
彼は少し残念そうな顔をして、それから、思い出したように言った。
「数えました。額の入っていないもの、いま零です」
「知っています」
◆
俺は【不足視】を、自分に向けた。
半年前、村で一度だけやった。あのときは、こう浮かんだ。
——不足:引継ぎ先(1)
いま、浮かんだのは違った。
——不足:断る人(1)
俺は、それをしばらく見ていた。
二月前、俺は同じものを証の束に向けて、同じ言葉を見た。三人で決める形を作ったが、三人が同じ日に間違えたら止まらない。止めるには、決める側にいない誰かが要る。
そのとき俺は、トーレンに手紙を書いた。そちらの支部に、判を出さない役を一人置いてください、と。
組合のために書いた。
自分のためには、書かなかった。
村では、決めるのがハウルとガレンと俺の三人になった。三人のうち、俺に向かって駄目だと言える人間が、いま何人いるか。
セリは十七だ。リナは十五だ。アンナは来て二月しか経っていない。ハウルは金の話でしか引かない。
誰もいない、とは言わない。ただ、置いていない。置いていないものは、要るときに無い。
俺は門を出た。
六日かけて、村へ戻る。
戻ったら、覚書に印がついているはずだ。セリが、たくさん見つけると言っていた。




