第二十四話 残高の意味
カルロ・ヴェインは、机に座っていた。
半年前と同じ椅子である。半年前と違うのは、机の上だった。書類が積んである。積み方が悪い。期日順でも、種類順でもない。届いた順に積んである。
「レンデル」
「はい」
「座れ」
椅子が出ていた。半年前、この部屋に俺の椅子はなかった。
◆
俺は名義一覧の写しを出した。三月前にトーレンへ送ったものと同じである。
「これを、ご覧になりましたか」
「見た」
「いつですか」
「三月前だ」
カルロは即答した。
「返事を書かなかった」
「はい」
「書けなかった。何を書けばいいのか、分からなかった」
彼は書類の山から一枚引き抜いた。俺の一覧の二枚目で、角が擦れていた。
「十九件のうち、六件は直した」
〈灰鉄〉が四件、〈石環〉が二件。名義をこちらに移した、と彼は言った。判はもう押してあるという。
俺は少し驚いた。三月、返事がなかったので、動いていないと思っていた。返事を書かないことと、何もしないことを、俺は同じものとして数えていた。
俺は鞄から〈灰鉄〉商会の四枚を出して、二枚目を開いた。差押えを申し立てる準備がある、と書いてある紙である。
カルロは、その紙を見た。見て、すぐに視線を戻した。文面を知っている人間の見方だった。
「これは」
「取り下げさせた」
カルロは即答した。
「先月だ。三件で三十一枚。名義をこちらに移して、こちらから払った」
「払えたんですか」
「払えん」
彼は言った。
「〈石環〉に六の月まで待たせた分を、先に〈灰鉄〉へ回した。順番を入れ替えただけだ。六の月に、俺は二重に困る」
俺は、その計算を頭の中でやった。
〈石環〉に六の月まで待たせた六十枚を、〈灰鉄〉の三十一枚に回した。六の月には、〈石環〉の六十枚と、回した三十一枚の穴が同時に来る。合計九十一。半年で九十一を作れるかどうかは、掲示板の枚数で決まる。
合っている。合っているが、褒められた手ではない。
「それは、先送りです」
「知っている」
カルロは俺を見た。
「先送りにした理由を言う。あの三十一枚は、お前個人に行っていた。うちの買い物の代金が、辞めた人間の家に取り立てに行っていた。それを六の月まで放っておくのは、順番として一番後ろだ」
順番、という言葉を、この人が使った。
半年前、俺はこの部屋で削る順番の話をされた。人件費が他支部より三割高い。内務は依頼を受けない。素材を持って帰らない。魔物を一匹も倒さない。削る順番を上から書けば、俺の名前はそのあたりに来る。
同じ言葉で、いま逆のことを言っている。
俺は、しばらく何も言えなかった。
言えなかったのは、感謝したからではない。順番を入れ替えただけで、金は一枚も増えていない。半年後に、この人は九十一枚の前で立つ。
それが分かっていて、なお、この順番にした。
村を出る前、ハウルが出張所に来て、村が出すと言った。俺は断った。王都の穴を村へ移すことになるからだ。
断ったとき、俺は自分が正しいと思っていた。正しかった。正しかったが、あのとき俺は、この三十一枚を誰かが先に払う可能性を、一度も数えに入れていなかった。
残りの八件は、渡す相手が決まっていないものだった。遺族の送り先が確定していないもの、依頼の決算が済んでいないもの。移す先がないという意味では、直しようがない。
「五件は」
カルロは、そこで初めて手を止めた。
「あれは、直し方が分からん」
◆
五件は、橋だった。
石工と、俺個人の約束である。〈銀羽〉との契約ではない。移す先がない、という意味では八件と同じだが、種類が違う。
「石工に会った」
カルロが言った。二月前だという。南の橋がまた落ちた。五回目だ。
支部長が自分で現場へ行ったというのは、俺が十二年いたあいだに一度もなかった。
「石工は、レンデルさんに言えば直ると言った」
彼は俺を見た。
「俺は、レンデルはもういないと言った。石工は、じゃあ誰に言えばいいのかと訊いた」
「なんと答えましたか」
「答えられなかった」
答えられなかった、と言うのに、この人は三月かかっている。
三月前に一覧を受け取って、返事を書けなかった。書けなかった理由を、いま俺の前で言っている。言うほうが楽ではないことは、俺にも分かる。
◆
部屋が静かになった。
「レンデル」
「はい」
「あの帳簿は、なぜあの書き方だった」
俺は、その問いを予期していなかった。
トーレンに書いたのは、印一つの理由だ。この人が訊いているのは、帳簿全体の話だった。
「速いからです」
俺は言った。
「それだけです」
「それだけか」
「それだけです」
俺は続けた。
「〈灰鉄〉商会と十二年書いていると、〈灰鉄〉と書くのが面倒になります。〈灰〉になります。誰にも見せないので、直す理由がありません。直さないまま十二年経つと、四十七個になります」
「不正の温床だと、俺は言ったな」
「言われました」
俺は言った。
「あれは、正しい疑いです」
◆
カルロは立って、窓のところへ行った。
トーレンが残り四個を解いた、と彼は言った。〈繰入勘定〉の中身が四つに分かれていることが分かった、と。
立て替え。未払報酬。遺族給付。支払準備。
「俺は、それを支部の金だと思っていた」
「残高がありましたから」
「ある、と、使える、は違うそうだ」
「違います」
「なぜ書かなかった」
俺は答えを持っていた。持っていたが、口に出すと言い訳になる。言い訳になっても言わなければならない場面が、たまにある。
「当たり前だったからです」
俺は言った。
「毎日使うものに、人は説明を書きません。自分の家の階段の段数を、紙に書く人はいません」
カルロが、そこで振り返った。
「トーレンも同じことを言った」
「そうですか」
「あいつは、こう続けた。階段は本人しか上らない、と」
彼は机に戻ってきた。
「俺が上った」
◆
六十使った、と彼は言った。屋根を直し、人を二人雇い、〈鉄槌〉に前渡しをした。
全部、要ることだ。俺がそう言うと、知っている、と返ってきた。
「要ることに使った。使った金が、死んだ者の遺族の金だった」
彼は椅子に座らなかった。立ったまま、机に手をついた。
「レンデル。俺は、あの金で何を買ったと思う」
「屋根と、人と、前渡しです」
「違う」
カルロは首を振った。
「三月だ。クレイグの婆さんが給付を待った三月を、俺が買った。屋根と引き換えに」
◆
クレイグの婆さんが給付を待った三月を、屋根と引き換えに買った。
俺は、その言い方を否定しようとして、やめた。否定できる立場ではない。三月のうち、最初のひと月ぶんの遅れは、俺が作ったものだ。番地を引継ぎ書に書かず、抽斗に入れて出た。
「支部長」
「なんだ」
「その三月のうち、ひと月は俺です」
カルロは、少し驚いた顔をした。
「遺族の送り先が変わっていました。知っていたのは俺だけです。引継ぎ書には第三区としか書けませんでした。番地は机の抽斗に入れて、受付に口で伝えました」
「口で」
「はい」
「なぜ書かなかった」
訊き方に、詰める調子はなかった。
半年前、この人は俺に一度も理由を訊かなかった。訊かずに、引継ぎ書に書いておけと言った。書いておけと言われたものを、俺は書いた。書けなかったものについては、何も言わなかった。
訊かれなかったからだ、と半年前の俺なら答える。いまは、それが答えになっていないことを知っている。
「三日しかなかったからです」
俺は言った。
「そう思っていました。半年経って、違うと分かりました。三日あろうが三十日あろうが、俺は書かなかったと思います。書くと、書式が一つ増えます。増やさないほうが速いので、口で済ませました」
◆
俺は、そこで初めて、この男が半年で何をしていたかを理解した。
彼は帳簿を読めるようになった。読めるようになると、自分が何をしたかが読める。読めると、逃げられない。
半年前、彼は正しい理由で間違えた。間違えたことに気づく方法が、当時の彼にはなかった。気づく方法を作ったのは、俺ではない。トーレンと、アンナと、レイと、それから彼自身だ。
俺は、名義一覧の三枚目を出した。
「支部長」
「なんだ」
「五件の直し方を、持ってきました」




