第二十三話 掲示板は空だった
〈銀羽〉王都支部の門は、開いていた。
門番が一人立っている。半年前と同じ男だった。俺の顔を見て、少し考えて、それから通した。名前は思い出さなかったらしい。
中庭を抜けて、建物に入る。
匂いが同じだった。石と、油と、紙の匂い。半年で変わるものではない。変わっていないことに、俺は少しだけ身構えた。
入って三歩のところに、掲示板がある。
◆
依頼票は、六枚だった。
バルテが数えた日から二枚増えている。六枚のうち、査定済みの札が付いているのが二枚。付いていないのが四枚。
俺は、その前に立った。
立ってから、自分が何をしに来たのかを、一瞬忘れた。
癖である。十二年、一日に四回はここを通った。通るたびに、額の入っていない票を数えた。数えて、その日のうちに埋めた。
埋めるのは、俺の職掌ではなかった。査定は本来、依頼を受けた者が回す。ただ、回すと二日遅れる。二日遅れると受け手が別の依頼に流れる。だから俺が先に埋めた。
誰にも言っていない。言うと、次から俺の仕事になる。
二枚の査定済みの札を、俺は近くで見た。
字がたどたどしい。丁寧に書こうとして、かえって崩れている。書いた人間は、字を書き慣れていない。
額は、二枚とも低かった。〈黒沼〉周辺の薬草採取で、銀貨三枚。相場なら五枚は出る。
低いが、入っている。
入っているというのは、誰かが決めたということだ。
◆
「ヨナさん」
声がした。振り返ると、若い男が立っていた。二十歳くらいだ。書類を抱えている。
「あの、ヨナ・レンデルさんですよね」
「そうです」
「レイといいます。三月前に入りました」
彼は書類を抱え直した。
「あの、掲示の札、僕が書きました」
「そうですか」
「間違ってますよね」
◆
俺は、もう一度掲示板を見た。
「三枚と書いたのは、なぜですか」
「去年の同じ月の記録を見ました。三枚でした」
「去年の三枚は、正しかったです」
「じゃあ」
「〈黒沼〉の周りで、薬草が採れなくなっています。半年前からです」
俺は札を指した。
「採れる場所が遠くなると、往復が増えます。往復が増えると、一日で回れる回数が減ります。回数が減った分だけ、一回あたりの額を上げないと、誰も受けません」
「上げると、組合の負担が」
「増えます」
「じゃあ」
「受け手がいないと、負担はゼロです」
俺は言った。
「ゼロのほうが安く見えます。ですが、来月、薬が足りなくなります。足りなくなると、依頼を出す側が別の組合に行きます。行った先から、戻ってきません」
レイは、書類を抱えたまま立っていた。
「僕、三月それをやってました」
「三月で気づいたなら、早いです」
◆
俺は嘘を言わなかった。
俺は三年かかった。三年目に、初めて相場を先に動かした。それまでは、去年の記録を見て書いていた。
三年かかったのは、教える人がいなかったからだ。誰も教えてくれなかったので、俺は自分で覚えた。自分で覚えたものを、俺は誰にも教えなかった。教えないのが当たり前だと思っていたわけではない。訊かれなかっただけだ。
「あの」
レイが言った。
「教えてもらえませんか」
「今からですか」
「今からです」
俺は少し考えた。
考えている時間が、たぶん長かった。
「四枚ですね」
「はい」
「三十分あれば終わります」
◆
三十分は、嘘だった。
四枚を埋めるのに、二時間かかった。かかったのは、俺が書かなかったからだ。
俺はレイに書かせた。
一枚目で、彼は三十分悩んだ。悩んだ末に、五枚と書いた。俺は理由を訊いた。彼は答えられなかった。だから消させた。
二枚目で、彼は先に理由を言った。往復が一日増えるので、一日分の日当を足す。日当は、宿の相場から出す。宿は日に銀貨半分。だから半分足す。
俺は、それでいいと言った。
三枚目は、彼が一人で書いた。
四枚目を書いているとき、彼はもう俺のほうを見なかった。
俺は、その横で立っていた。立っているだけで、二時間が過ぎた。二時間立っているのは、四枚を三十分で埋めるより、ずいぶん疲れる仕事だった。
◆
四枚を貼り終えて、レイが振り返った。
「ヨナさん。なんで教えてくれるんですか」
「訊かれたからです」
「それだけですか」
俺は掲示板を見た。
六枚の依頼票に、六枚とも額が入っている。半年ぶりに、この掲示板が埋まった。
「半年前、俺はここに十二枚残して出ました」
俺は言った。
「三十分で終わる仕事でした。やりませんでした。もう自分の仕事ではないと思ったからです」
「それは、そうですよね。辞めたんだから」
「そうです」
俺はうなずいた。
「ただ、その十二枚は、額が入らないまま日付が過ぎて、全部無効になりました。無効になった依頼は、誰も受けません。受けないと、次の月に薬が足りません」
レイが黙った。
「俺が三十分やらなかったせいだとは、思っていません。仕組みのほうが悪いです」
俺は札の一枚に触れた。
「ただ、仕組みが悪いから自分は関係ない、というのは、通りません。俺はそのとき、この仕組みでいちばん長く働いていた人間でした」
◆
六枚を貼り終えたとき、外はもう暗くなりかけていた。
レイは、四枚ぶんの控えを取って、それを綴じた。綴じ方が丁寧だった。丁寧すぎて、綴じるのに時間がかかっている。俺は口を出さなかった。速く綴じる方法は、あと二年やれば自分で見つける。
二階へ上がる前に、俺は【不足視】を掲示板に向けた。
半年前、ここには一が浮かんでいた。査定者が一人足りない、と。
浮かんだ。
——不足:なし
俺はしばらく、それを見ていた。
見ていて、少しおかしくなった。
俺が来たからではない。俺は一枚も書いていない。レイが四枚書いた。三月前に入って、去年の記録を見て、間違えて、訊いた男が書いた。
足りていた。
◆
足りていた、という言葉を、俺は口の中で二度繰り返した。
半年前、ここに一が浮かんだとき、俺はそれを自分のことだと思った。俺が抜けたから一足りない、と読んだ。読んで、門を出た。出たことで、その一を埋めなかった。
埋めたのは、三月前に入った男だ。俺ではない。
俺がいなくても足りる。それを見て安心している自分がいて、同じだけ、居場所を一つ失ったような気もしていた。両方とも本当だった。
階段を上がると、支部長室の扉があった。
半年前、俺はここに呼ばれて、椅子を勧められなかった。
「レイさん」
「はい」
「明日の朝、掲示板を数えてください」
「何枚あるか、ですか」
「額の入っていないものが何枚あるか、です。毎朝です」
「……はい」
癖になるまで、たぶん三年かかる。
三年後に彼が数えていれば、この掲示板はもう空にならない。
俺は扉を叩いた。
返事がないので、もう一度叩いた。
「入れ」
声を、俺は覚えていた。




