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第二十一話 行くと決めるまで

 行くと言ってから、出るまでに四日かかった。

 四日は、留守にするための準備である。

 一つ。証の発行を、俺がいないあいだ止める。止めるのではなく、上限を触らないことにした。今出ている分は回る。新しく上限を上げる判断だけを、凍らせる。

 二つ。素材の買取は続ける。買取価格は据え置く。相場が動いたら下げてよいが、上げてはいけない。


 三つ。兌換(だかん)は続ける。準備金の在り処と、開ける手順を、三人が知っている状態にする。

 三つ目に、いちばん時間がかかった。

 準備金は、いまは銅貨四十枚ではない。素材の買取益が入って、銀貨で二十六枚ある。出回っている証は百八十二枚。全部が同じ日に来れば、やはり払えない。

 払えないことを、俺は三人に隠していない。隠さないことが、この半年でいちばん効いた。


           ◆


「鍵は、二つに分けます」


 俺はそう言って、金庫の鍵と、帳面の鍵を机に置いた。


「金庫の鍵はハウルさんが持ちます。帳面の鍵はアンナさんが持ちます。二人揃わないと開きません」


「面倒だな」


 ハウルが言った。


「面倒です」


「わしが病気になったら、どうする」


「そのときは、ガレンさんに回ります。書いてあります」


 俺は覚書を開いた。三枚ある。


「病気、旅、死亡。三つの場合について、誰に回るかを書きました。回った先も書けなくなった場合は、二村の寄合で決めます。寄合が開けない場合は、証の発行と兌換を止めます」


「止めるのか」


「止めます」


 俺は言った。


「止めるのは損です。ですが、誰が決めているか分からないまま続けるほうが、損が大きいです」


           ◆


 アンナが、覚書を読み直していた。


「ヨナさん。一つ、抜けています」


「どこですか」


「ヨナさんが戻ってこない場合が、書いてありません」


 俺は手を止めた。


「三つ書きました。病気、旅、死亡です」


「それはハウルさんの場合です」


 彼女は覚書の上を指した。


「ヨナさんの場合が、ありません」


           ◆


 俺は、その晩に一枚足した。

 書きながら、手が何度も止まった。止まった理由は、書く内容が難しいからではない。難しくない。難しくないのに、書いていると、自分がいなくなった後の村を想像することになる。

 想像すると、村は回っていた。


 ハウルが鍵を開ける。アンナが帳面を出す。セリが数える。リナが谷を越えて月に二度来る。ゴルドが鉄を打ち、トビが酒を出し、マヤが水を持ってくる。

 俺がいない。いないのに、回っている。

 回っているところを想像できたことが、少し嬉しく、少し寂しかった。

 書いた一枚には、四つ書いた。


 一つ。取次官が三月戻らない場合、〈銀羽〉本部に報せる。宛先はトーレン。

 二つ。本部からの後任が来るまで、証の判断は寄合が行う。

 三つ。後任が来たら、この覚書を全部渡す。渡すのは、写しではなく現物にする。写しを取って渡すと、渡した側に古いものが残る。古いものが残ると、二つの正しさができる。


 四つ。後任が読んで分からない箇所があったら、それは書いた側の落ち度である。

 四つ目を書いてから、俺は少し笑った。

 半年前に書けなかったものが、いま書けている。書けるようになったのは、書けなかったことで人が困るのを、見たからだ。


           ◆


 覚書を書いていて、一つ気づいたことがある。

 半年前に王都で書いた三十二枚には、「自分がいなくなった場合」という項目が一つもなかった。三十二枚のうち一枚も、だ。

 辞める人間が書いた引継ぎ書に、辞めた後のことが書いていない。おかしな話だが、書いているときは気づかない。書いている本人は、まだそこにいるからだ。

 出る前の日に、ゴルドが来た。


 布に包んだものを机に置いた。開けると、印が一つ入っていた。麦の穂の印である。


「もう一つ、打った」


「二つ目ですか」


「一つだと、なくしたら終わりだろう」


 俺は印を手に取った。彫りが、最初のものより深い。


「二つあると、二人が別々に押せます」


「押せる」


「押せると、押していないことにできません」


 俺がそう言うと、ゴルドは首を傾げた。


「難しいことを言うな」


「すみません」


「褒めとるんだ」


 彼はそう言って出ていった。

 俺は、二つ目の印を覚書の箱に入れた。入れてから、覚書に一行足した。


 ——麦の穂の印は二つある。二つ目の保管はマヤさんとする。押した者は、押した日を帳面に書く。


           ◆


 出る朝、セリが門の前にいた。

 台帳を持っている。持っているが、書いていなかった。この子が書いていないのを見るのは、久しぶりだった。


「ヨナさん」


「はい」


「怒られに行くんですか」


 俺は少し考えた。


「違います」


「じゃあ、なんですか」


「頼みに行きます」


「頼む」


「はい」


 セリは、納得しない顔をした。


「ヨナさんを切った人ですよ」


「切った人です」


「その人に、頼むんですか」


「その人にしか、できないことがあります」


           ◆


 それは本当だった。

 名義を書き換える判は、あの部屋にしかない。俺がどれだけ正しい書面を作っても、判がなければ紙は動かない。

 半年前、俺はそれを知っていた。知っていて、判を押す側の人間が、判の意味を知らないことも知っていた。知っていて、引継ぎ書に書かなかった。書いても読めないと思ったからだ。


 思ったのは、俺だ。

 試したわけではない。


「セリさん」


「はい」


「一つ、頼めますか」


「なんですか」


「俺が戻るまでに、覚書を読んでください。全部です。読んで、分からないところに印をつけてください」


「分からないところ」


「はい。一つでも見つけたら、俺の負けです」


 セリは、そこで初めて笑った。


「たくさん見つけます」


「お願いします」


           ◆


 その夜、俺は覚書を全部読み返した。

 十四枚になっていた。半年前に王都で書いたものは三十二枚で、注釈が四十七個あった。今度は十四枚で、注釈が一つもない。

 注釈が要らないのは、略記を使っていないからだ。略記を使わないと、書くのが遅い。十四枚に、四日かかった。

 遅くていい、と今は思う。


 村を出る前に、俺は覚書の箱に鍵をかけなかった。

 かけると、鍵を持つ人間がまた一人になる。箱は開けたままにして、置き場所だけを三人に伝えた。

 便に乗ったのは、日が出てすぐだった。

 荷台に俺と、反物の行商が一人。半年前、俺がこの村に来たときと同じ形である。

 あのときは、来る側だった。

 村が見えなくなるとき、俺は一度だけ振り返った。


 看板が見えた。取の字が曲がっている。

 六日、と御者が言った。

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