第十九話 俺の名前を外す
印を三つ作るのに、十四日かかった。
ゴルドが二つ打った。トゥーレの分とノーレの分だ。取次所の刻印は元からある。
十四日のうち、鉄を打つのに要ったのは四日である。残りの十日は、何を彫るかで揉めた。
トゥーレの印は、麦の穂にした。ノーレの印は、水車にした。理由は、村の者に訊いたら、それぞれ真っ先にそれを言ったからだ。ハウルは「山でもいいが」と言ったが、山は隣の村にもある。
「区別がつくものにします」
俺がそう言うと、ハウルは麦にした。
◆
新しい証の刷り直しは、しなかった。
出回っている証は、この時点で百八十二枚ある。全部を回収して刷り直すと、そのあいだ村が止まる。
代わりに、こうした。
一つ。今日から出す証には、三つの印を押す。
二つ。今出回っている証は、そのまま使える。換えに来たら、そのとき新しいものと交換する。
三つ。両方が同時に通る期間を、半年と決める。
「混ざりますよ」
アンナが言った。
「混ざります」
「混ざったものを、リナさんが数えます」
「数えていただきます」
俺は言った。
「なので、数え方を先に決めます。旧い証と新しい証を、別の欄に書きます。合計は別々に出して、最後に足します」
「足す必要がありますか」
アンナが訊いた。俺は少し考えた。
「ありません」
「では、足さないほうが速いです」
その通りだった。
◆
旧い証を回収しない、と決めるまでにも一日かかった。
回収したほうが帳簿は綺麗になる。綺麗になるが、そのあいだ村の中で払える手立てがなくなる。帳簿の綺麗さと、村が三日止まることを秤にかけて、俺は帳簿を捨てた。
半年前の俺なら、たぶん回収していた。
押印の日は、刈り入れの三日前にした。
村の広場に机を出して、ハウルとガレンが並んで座った。二人とも、この日のために服を替えていた。誰も替えろとは言っていない。
俺は、二人の前に証を積んだ。
三十枚ずつの束が、四つ。
「一枚ずつ押します」
「一枚ずつか」
「はい」
ガレンが笑った。
「まとめて押せばいいだろう」
「一枚ずつ押していただきます」
俺は言った。
「これは、村が銀貨一枚を約束する紙です。百二十枚あるということは、百二十回約束するということです。まとめて押すと、回数が分からなくなります」
ガレンは笑うのをやめた。
◆
押しはじめて、四十枚ほどでハウルの手が止まった。
「レンデル」
「はい」
「これは、重い」
「重いです」
「あんたは、これを半年、一人で押しとったのか」
俺は答えなかった。
押していた。数えたことはない。数える意味がなかったからだ。証を出すのは仕事で、仕事は数えるものではなく、するものだった。
「二百枚くらいです」
しばらくして、俺はそう言った。
「二百」
「はい」
ハウルは印を持ち直した。
「じゃあ、わしも押す」
◆
二人が押すあいだ、広場に人が集まってきた。
誰も声を出さない。刈り入れ前の忙しい時期に、二十人ばかりが立って、印が押されるのを見ていた。ゴルドがいた。トビがいた。粉挽きのマヤが、途中で水を持ってきた。
半年前、この村で紙が酒に換わったとき、宿にいたのは四人だった。四人が見て、翌朝には三十戸が知っていた。
百二十枚を押し終えたのは、日が暮れてからだった。
「終わりました」
ガレンが印を置いた。手首を回している。
「わしは、明日から腕が上がらん」
「上がります」
「上がらんかったら、あんたのせいだ」
「そのときは、俺が押します」
「押させん」
ガレンはそう言って、笑った。
最後の一枚を押したとき、セリが台帳に何か書いた。書いてから、顔を上げた。
「ヨナさん。書いておきました」
「何をですか」
「今日、ヨナさんの名前が証から消えたことを」
俺は自分の手元を見た。
指に朱が付いている。二人が押すあいだ、俺は証を一枚ずつ送り、押し終わったものを裏返して重ねていた。百二十枚ぶん、同じ動きをした。
新しい証には、麦の穂と、水車と、〈銀羽〉の刻印が並んでいる。俺の名前は、どこにもない。もともと書いてはいなかった。書いていなかったのに、村の外からは見えていた。
いま、見えなくなった。
少しだけ、寂しかった。
寂しいと思った自分に、俺は驚いた。半年前、俺は掲示板に背を向けて門を出た。あのときは寂しくなかった。もう自分の仕事ではないと思ったからだ。
いまは、自分の仕事から、自分の名前だけを外した。仕事は残っている。名前がない。
これが、たぶん、正しい形なのだと思う。
◆
カムリのケルトには、リナに持って行ってもらった。
新しい証を一枚と、押印の日の覚書の写しを一枚。覚書には、誰が印を持ち、印がどこに保管され、印を押していい場面が何かが書いてある。
鍵の在り処を、先に書いた。
三日後、リナが戻ってきた。谷を越えるのに、行きも帰りも半日かかる。十五の子に半日の山道を二度歩かせたことを、俺は後から気にした。気にしたが、行くと言ったのは彼女だった。ノーレの記録係はノーレの仕事です、と言われて、俺は引き下がった。
彼女は疲れた顔をしていたが、報告のときだけは背筋を伸ばした。
「受け取りました」
「そうですか」
「ケルトさんが、一つだけ言っていました」
「なんですか」
リナは、思い出しながら言った。
「印が三つあるのはいい。だが、三つとも同じ日に押されている。三人が同じ日に死ぬことはないだろうが、三人が同じ日に間違えることはある。——そう言っていました」
俺は、その言葉をしばらく考えた。
「正しいです」
「正しいんですか」
「正しいです。あの人は、二十年前に一度、全部なくしています」
◆
二十年前のカムリの商人は、たぶん悪くなかった。麦は蔵にあった。数も合っていた。
合っていたのに、十五軒が村を出た。合っているかどうかを、村の誰も確かめられなかったからだ。
その晩、俺は【不足視】を証の束に向けた。
これまで、証に向けたことはなかった。自分の作ったものに向けるのは、答え合わせのようで気が進まなかった。
浮かんだ。
——不足:断る人(1)
断る人。
三人で決める仕組みを作った。三人が同じ日に間違えたら、止まらない。止めるには、決める側にいない誰かが要る。
俺はその晩、四通目を書いた。宛先はトーレンにした。
——そちらの支部で、査定に判を出さない役を一人置いてください。決める人ではなく、決めさせない人です。
書いてから、俺は手を止めた。
同じものが、ここにも要る。
そして、この村でその役ができる人間は、たぶん一人しかいない。




