第十八話 それはあなたの紙でしょう
カムリへは、リナが道を知っていた。
ノーレから西へ、歩いて半日。谷を一つ越える。越えたところに、家が二十六軒あった。トゥーレより小さい。
谷は深くない。深くないが、道が悪い。荷車は通らない。荷は背負うか、馬に振り分けるしかない。
通らない道は、村を痩せさせる。俺は歩きながら、カムリが二十六軒である理由を、半分だけ理解した。
村に入って最初に見えたのは、水場だった。二十六軒に対して一つ。トゥーレは四十一軒に三つある。
村長は、ケルトという名の男だった。六十くらいで、右手の指が二本ない。訊かなかったが、鍛冶の事故だろうと思った。指の落ち方に見覚えがある。
「〈銀羽〉の取次官です」
俺が名乗ると、ケルトは板の間を指した。座れ、という意味らしい。彼は座らなかった。
「うちは、依頼を出す金がない」
「知っています」
「知っていて来たのか」
「はい」
俺は証を一枚、板の間に置いた。
「これが、なぜ受け取ってもらえなかったかを、伺いに来ました」
◆
ケルトは、証を手に取らなかった。見もしなかった。
見ないというのは、答えを先に決めているということだ。中身を確かめてから断る人は、条件次第で受ける。確かめずに断る人は、条件の話をしていない。
「ノーレの女が持ってきた」
「リナです。そこにいます」
「その子だ」
ケルトは顎で示した。リナが小さく頭を下げた。
「麦を買いたいと言った。この紙で払うと言った。うちは断った」
「理由を伺えますか」
「その紙は、あんたの紙だろう」
俺は、置いた証を見た。
手のひらの半分ほどの紙で、真ん中に数字がある。下に〈銀羽〉の刻印が押してある。十年、誰も使っていなかった印だ。
「刻印は〈銀羽〉のものです」
「印の話じゃない」
ケルトは首を振った。
「トゥーレの連中が言うんだ。あの紙はレンデルさんが出してる、レンデルさんが換えてくれる、レンデルさんが決めてる、と。悪気で言ってるんじゃない。ありがたがって言ってる」
彼はそこで、初めて俺を見た。
「あんたが死んだら、その紙はどうなる」
部屋が静かになった。
リナが俺を見た。この子は数字には強いが、こういう場面には慣れていない。慣れていなくていい、と思った。慣れる必要のある場面ではない。
◆
俺は、すぐに答えられなかった。
答えは持っている。証の裏付けは素材の買取益で、上限は二村の見込みで決めていて、決めたのは村長二人と記録係二人だ。俺一人ではない。
だが、それは仕組みの話だ。ケルトが訊いたのはそこではない。
「あんたは、いつまでここにいる」
「決めていません」
「決めてないのか」
「決めていません」
俺は正直に言った。
「〈銀羽〉本部の任命で来ています。任命は動きます。三年後にどこにいるかは、俺には決められません」
ケルトはうなずいた。納得したうなずき方ではなく、やっぱりな、といううなずき方だった。
「うちの村は、二十年前に一度、同じことをやった」
俺は座り直した。
同じことをやった、という言い方には二通りある。やってうまくいった場合と、やって失敗した場合だ。うまくいったなら、こちらを断る理由がない。
◆
話は短かった。
二十年前、この村に商人が一人住み着いた。名は聞かなかった。訊いても言わなかったかもしれない。
その男が、麦の預り証を出した。麦を預けると紙をくれる。紙は村の中で通る。持ち運びが軽い。鼠に食われない。分けて使える。便利だった。
四年通った。四年というのは短くない。四年通れば、人はそれを当たり前だと思う。当たり前だと思ったものを、人は疑わない。
五年目に、男が死んだ。
紙は、その日に紙になった。
「うちに残ってるのは、二十六軒のうち十一軒だ」
ケルトは指を折らなかった。折る必要がないほど、覚えているらしい。
「あとは出ていった。麦を取り戻せなかったからだ。あの男は悪人じゃなかった。ちゃんと預かってた。蔵に、ちゃんとあった」
「では、なぜ」
「誰も、蔵の鍵の在り処を知らなかった」
俺は、板の間に置いたままの証を見ていた。
仕組みが正しくても、仕組みを動かす人間が一人だと、その人間が抜けた日に全部が止まる。俺は半年前、王都でそれを起こした側だ。起こしたのに、自分がやったとは思っていなかった。三日しかなかったからだと思っていた。
同じことを、この村でやりかけている。ここでは、俺が鍵だ。
◆
帰り道、リナは何も言わなかった。
谷を越えて、日が傾いてから、彼女が口を開いた。
「レンデルさん」
「はい」
「わたし、悔しいです」
「そうですか」
「ノーレの人たちは、ちゃんと使っています。誰も困っていません。なのに、カムリの人は見もしませんでした」
「見なくていいんです」
俺は言った。
「見ないで断れるのは、二十年前に一度、見て信じたからです。あの人たちは、正しく学習しています」
「じゃあ、どうすれば」
「鍵の在り処を、先に言います」
◆
鍵の在り処を、先に言う。
言葉にすると簡単だが、これは順番の話ではない。誰が鍵を持っているかを、持っている本人が決められなくする、という話だ。
村に戻って、俺は三人を集めた。
ハウルと、アンナと、セリだ。ノーレのガレンには、便で報せた。
「証の発行人を、変えます」
「発行人」
ハウルが訊き返した。
「いま、証は〈銀羽〉トゥーレ取次所の名で出しています。刻印もそれです。ただ、村の外から見ると、俺が出しているように見えています」
「見えとるだけだろう」
「見えているだけです。ですが、見えているとおりに人は動きます」
俺は白紙を出した。
「発行人を、三つの連名にします。トゥーレ村長、ノーレ村長、そして取次所。三つの印を押します」
ハウルは腕を組んだ。
「わしが押すのか」
「押していただきます」
「わしは、額を決められん」
「決めていただきません。額は今までどおり、四人で決めます。押していただくのは、決めたことに間違いがないという印です」
「同じことだろう」
「違います」
俺は言った。
「俺が明日死んでも、村長の印は残ります。押し方を知っている人が、この村に二人以上いれば、証は続きます」
◆
ハウルは、長いこと黙っていた。
六十を過ぎた男で、決めるのが遅い。遅いが、決めたら動かない。半年前、俺が村を数えると言ったとき、この人は九軒の家に一緒に来てくれた。
「レンデル」
「はい」
「あんた、村を出るつもりか」
「いいえ」
「なら、なぜ今それをやる」
俺は答えを持っていた。持っていたが、口に出すのに少し時間がかかった。
「出るつもりがないうちにやらないと、間に合わないからです」




