幕間 六つの印
本部から来た男は、名をトーレンといった。
カルロが挨拶をしようとしたとき、男はもう金庫室の床に座って、帳簿を開いていた。三十を少し過ぎたくらいに見える。挨拶は返したが、顔は上げなかった。
「進んでいるか」
「四十三個まで解けました」
「四十七のうち、か」
「はい」
「残りは」
「四つです」
トーレンは頁を持ち上げて見せた。上の余白に、細い字で書き足してある。前は〈二〉としか書いていなかったところに、〈繰入勘定〉と書いてある。インクが新しい。
「名前を変えたのか」
「読める名前にしました。中身は、まだ調べています」
◆
カルロは、その頁を覗き込んだ。
丸の中に点を打った印が、一頁に十四個並んでいる。急いで書いた字なのに、点の位置だけは全部そろっていた。
「残高を言ってくれ」
「銀貨で、百八十四枚です」
その額は知っている。着任した月に確かめた。金庫の帳面に、はっきり百八十四と書いてあった。支部の年の費えが二百ほどだから、ほぼ一年ぶん眠っていることになる。
眠らせておく理由が、彼には分からなかった。
「そこから、六十使った」
トーレンの手が止まった。
「六十、ですか」
「屋根を直した。三年漏っている。書類が濡れる。人を二人雇った。前任者が抜けた穴だ。それから〈鉄槌〉に前渡しをした。北の街道が止まるからだ」
カルロは言った。
「一つとして、私腹ではない」
「……はい」
「なにか、まずいか」
◆
トーレンは、すぐには答えなかった。
答えないというのは、たいてい、答えを持っていないか、言いにくいかのどちらかである。カルロは待った。待つのは苦にならない。父の領地で、小作の言い分を聞くのに十年使った。
「支部長。この勘定に、印が四つ残っています」
「解けていない四つか」
「はい。四つとも、この一つの勘定を指しています」
「それで」
「同じ勘定に四つも別の印を使う人間は、その勘定を四つに分けて考えています」
トーレンは、印の並びを指でなぞった。
「分けて考える必要があるということは、中身が一つではないということです」
カルロは、その指の動きを見ていた。
「中身が一つでない、というのは」
「分かりません」
トーレンは、そこで初めて顔を上げた。
「分からないので、使わないほうがいいと申し上げたいのですが、理由が言えません」
◆
カルロは、壁に背を預けた。
彼は帳簿が読める。学校で習った。家でも見た。父の領地の勘定は、十七の年から彼が締めていた。
実際、読めていた。数字は合っている。合計も、繰越も、月ごとの増減も、彼が見て一度も食い違わなかった。
残高がある。だから使える。それは、彼の知っているどの帳簿でも正しかった。
「トーレン。私の家の勘定にも、印はあった」
「そうですか」
「祖父の代のものだ。何の印か、誰も知らん。三代で誰も困らなかった。あれは、書いた本人の癖だ」
彼は言った。
「癖に理由を探すと、きりがない」
トーレンは黙っていた。
黙り方が、納得した黙り方ではないことに、カルロは気づいた。気づいたが、言葉にならないものに従うわけにはいかない。屋根は現に漏っている。書類は現に濡れる。
「理由が出たら、すぐ言え」
「言います」
「それまでは、私が使う」
「はい」
◆
階段を上がる途中で、カルロは一度足を止めた。
着任してからこの三月で、彼は死亡の報告を四件受けている。四件とも書類に判を押した。押した書類がその後どこへ行くのかを、彼は考えたことがなかった。判を押せば終わるものだと思っていた。
なぜ今それを思い出したのかが、自分でも分からなかった。
彼は思い出したことを、そのまま置いていくことにした。
置いていくというのは、忘れるという意味ではない。今は使いようがない、という意味である。
◆
その晩、カルロは自分の机で、人員表を出した。
三月前に、赤い線を三本引いた紙である。捨てていなかった。
上から二番目の名前を、彼は長いこと見ていた。
十二年勤めた男が、誰にも読めない帳簿を作って出ていった。四十七個の注釈をつけて、それで足りると言った。足りていない。本部から人が来て、三月かけて四十三個まで解いた。残り四つは、まだ誰にも読めない。
読めないものを、彼は温床と呼んだ。
三月前の自分の判断を、彼はいま、正しかったと思っている。
思いながら、彼はその紙を裏返した。
裏返した理由は、彼にも説明がつかなかった。




