第二話 金がないから、金がない
馬車で六日。最後の二日は乗合すらなくて、荷馬車の後ろに乗せてもらった。
トゥーレ村は、王都から見て北の端にある。地図では〈銀羽〉の出張所がある扱いになっている。俺の新しい配属先だ。配属というより、置き場所という言葉のほうが近い。退職ではなく異動という形にしてくれたのは、支部長なりの温情だったのだと思う。給金は出ない。出張所の維持費として、年に一度、銅貨で四十枚が本部から下りる。四十枚は、王都で三日暮らせる額だった。
出張所の建物は、村の入口にあった。
鍵は開いていた。壊れていたからだ。
中は埃だけだった。机が一つ、棚が二つ、暖炉が一つ。棚には台帳が七冊残っていて、一番新しいものの最後の記載が、十年前の秋で止まっていた。
最後の行を読んだ。
——依頼取次、なし。
その下は白紙が二百枚続いていた。
◆
「ギルドの人が来たって、本当かい」
村長のハウルは六十を越えていて、腰が曲がっていた。曲がっているのに歩くのは速かった。俺が挨拶を言い終える前に、建物の中を覗き込んでいる。
「本当です。ヨナ・レンデルといいます」
「何人だね」
「一人です」
ハウルは、ああ、という顔をした。落胆ではなかった。予想が当たった顔だった。
「なら、依頼は出せんな」
「出せません、というのは」
「手数料だよ」
俺は黙った。
依頼を〈銀羽〉に出すには、取次手数料がいる。銀貨で三枚。危険度の査定料が別に一枚。合わせて四枚。冒険者に払う報酬とは別に、先に払う金だ。
「銀貨四枚が、村にないんですか」
「村にはない」
「畑は」
「畑はある。麦もある。今年は悪くない」
「では、麦を売れば」
「売る先まで、荷を運ぶ道に、獣が出る」ハウルは顎で北を指した。「三年前から〈牙鹿〉が増えた。三頭で荷馬車を止める。去年、二人死んだ。だから今は、隣村までしか運ばん。隣村も麦を作っとる。麦は麦と交換できん」
俺は、村の入口を振り返った。
畑が見える。刈り入れ前の麦が、風で片側に倒れていた。倒れたまま起きない。獣が踏んだ跡だった。
「獣を減らすには、依頼を出さないといけない」
「そうだ」
「依頼を出すには、金がいる」
「そうだ」
「金を作るには、麦を売らないといけない」
「そうだ」
「麦を売るには、獣を減らさないといけない」
ハウルは笑った。歯が三本足りなかった。
「十年、そこで回っとる」
◆
その晩、村長の家で麦粥を出された。
給仕をしたのは、ハウルの孫だという娘だった。十七だと言った。名前はセリ。
彼女は俺の向かいに座って、匙を持ったまま、一度も食べずにこちらを見ていた。
「あの」
「はい」
「ギルドの人って、強いんですよね」
「俺は戦えません」
セリの匙が止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。
「じゃあ、何をする人なんですか」
これは、十二年間で百回は訊かれた質問だった。
いつもは「事務です」と答えていた。それで相手は納得した。納得というより、興味を失った。
今日は、なぜか、続きを言った。
「依頼が来ると、まず、これがどれくらい危ないかを決めます。危なさで報酬額が変わる。高すぎると払えなくなるし、安すぎると誰も受けない。受けないと、依頼を出した人が困る。困ると、次から出さなくなる。出さなくなると、ギルドが要らなくなる。だから、額を決める人がいる」
「それを、ヨナさんが」
「王都では、俺が」
「一人で、ですか」
「一人で」
セリは匙を置いた。
「二十六枚とか、そんなにあるんですか」
「一日にです」
彼女は、何か言おうとして、やめた。
◆
寝床にしたのは出張所の床だった。毛布は村長が貸してくれた。
眠れなかったので、暗いまま座って、村の輪をもう一度たどった。
金がないから依頼が出せない。依頼が出せないから獣が減らない。獣が減らないから麦が売れない。麦が売れないから金がない。
どこかで切らないと、永久に回る。
どこで切るか。
獣を減らす——できない。俺は戦えない。
麦を運ぶ——できない。道に獣が出る。
手数料を免除する——できない。俺に権限がない。出張所の維持費は年に銅貨四十枚で、銀貨四枚は銅貨で四十枚だ。一年分の維持費を一件の依頼に使って、それで獣が全部減るなら安いが、〈牙鹿〉三頭を一件で片づけられるとは思えなかった。
目を閉じた。
閉じても、【不足視】は止まらない。
村のほうを向いて座っていたせいだと思う。壁の向こうに、それが浮かんでいた。
——不足:現金(銀貨4)
銀貨四枚。
俺は目を開けた。
この村に足りないのは、麦でも、人でも、武器でもない。銀貨四枚だ。四枚あれば輪が切れる。四枚がないから、十年止まっている。
そして俺は、銀貨四枚を持っていない。
戸を叩く音がした。
セリが立っていた。毛布をもう一枚抱えている。
「おじいちゃんが、床は冷えるからって」
「ありがとうございます」
彼女は毛布を渡してから、俺の手元を見た。台帳を開いたままにしてあった。
「何を書いてるんですか」
「まだ何も書いていません」
「じゃあ、何を見てるんですか」
俺は少し考えた。
「足りないものです」
「この村、何が足りないんですか」
「銀貨が四枚」
セリは笑わなかった。笑うところだと思ったが、笑わなかった。
「四枚ですか」
「四枚です」
「……それくらいなら、うちにも」
「いま、この村のどこに、いくらあるか、誰か知っていますか」
彼女は口を開けて、それから閉じた。
「知りません」
「俺も知りません」俺は言った。「だから、数えます」
「数えるって、何をですか」
「全部です。麦も、鶏も、山羊も、鍋も、誰が誰にいくら貸しているかも」
「そんなの、数えて何になるんですか」
いい質問だと思った。十二年で、一度も訊かれたことがなかった。
「足りないものが分かります」
セリはしばらく黙っていた。それから、戸口で振り返った。
「明日からですか」
「明日から」
「手伝います」
戸が閉まった。
◆
銀貨四枚を、俺は持っていない。
だが十二年、金がないところで金を回す仕事をしてきた。〈銀羽〉王都支部の金庫にも、実際の銀貨はほとんど入っていない。入っているのは約束だった。誰がいつ誰にいくら払うかという約束を、順番に並べ替えるのが、俺の仕事の半分だった。
俺は暗いなかで立ち上がって、棚から白紙の台帳を一冊下ろした。
朝になったら、村長に言おうと思った。
三日ください、と。
三日で、この村にあるものを、全部数えます。




