第一話 引継ぎは三日で足りると言われた
「レンデル。今日限りで辞めてもらう」
支部長室に呼ばれて、椅子を勧められなかった時点で、だいたい察しはついていた。
カルロ・ヴェイン支部長は、まだ二十八だという。着任して三月。机の上には、俺が先週上げた人員表が広げてある。赤い線が三本引かれていた。上から二番目が俺だ。
「経費を二割落とせと本部に言われている」
支部長は俺の顔を見なかった。
「〈銀羽〉は冒険者の組合だ。冒険者でない人間を、これ以上抱えられない。分かるな」
「分かります」
俺が即答したので、支部長は初めて顔を上げた。何か言い返されると思っていたらしい。
言い返すことは、なかった。数字は正しい。王都支部の人件費は他支部より三割高くて、そのうちの少なくない部分が内務に出ている。内務は依頼を受けない。素材を持って帰らない。魔物を一匹も倒さない。削る順番を上から書けば、俺の名前はそのあたりに来る。
ただ、一つだけ言っておかなければならないことがあった。
「引継ぎに、どれくらいいただけますか」
「三日だ」
「三日では無理です」
支部長の眉が動いた。
「一日で書ける仕事だろう。書類の受け渡しだ」
「三の月の十日に、〈灰鉄〉商会への支払いがあります」俺は指を折った。「同じ月の十四日に、消耗品の発注締めがあります。ここを越すと、次の入荷は一月後になります。矢が切れます。それから、先月〈黒沼〉で死んだクレイグの給付が未払いです。遺族が北の第三区に移っているので、送り先が変わっています。この変更を知っているのは、たぶん俺だけです」
「引継ぎ書に書いておけ」
「書きます」
俺はうなずいた。
支部長は満足したようだった。彼は正しいことを言っている。引継ぎ書に書いておけ。それ以外に何を言えというのか。俺だって、俺の立場なら同じことを言う。
「登録簿を返してもらう」
差し出された手に、俺は十二年使った木札を載せた。
支部長は札を裏返して、記載を読み上げた。読み上げる必要はなかったはずだ。手続きの一部でもない。
「ヨナ・レンデル。内務官。第三等」
そこで一度、区切られた。
「所持技能——【不足視】」
部屋の隅で書記官が笑った。慌てて口を押さえたが、遅かった。
【不足視】。対象を見ると、足りないものが見える。それだけの技能だ。人を見れば、その人に足りない装備や訓練が見える。棚を見れば、何日後に切れるかが見える。帳簿を見れば、穴が見える。
魔物に向けたことはない。前線に出たことがないからだ。役に立った試しは、たぶん、ない。少なくとも、そう申告してある。
「まあ、そうだろうな」支部長は札を引き出しに落とした。「悪く思うな。君個人の問題ではない」
「はい」
本当に、そう思っていた。
◆
三日で、俺は引継ぎ書を書いた。
三十二枚になった。それでも足りないと分かっていたが、三日というのはそういう長さだ。
自分の帳簿を写しながら、初めて気づいたことがある。
俺の帳簿は、俺にしか読めない。
勘定の名前を全部縮めてある。〈灰〉は〈灰鉄〉商会。〈消/三〉は三の月の消耗品。円を書いて中に点を打つのは、原資が別の勘定から来ているという意味だ。十二年のあいだに、少しずつ短くなっていった。書く速さを上げるためだった。誰かに見せるつもりが、一度もなかった。
直そうとした。二枚書き直して、やめた。全部を普通の書き方に直すと、三十二枚が二百枚を超える。三日では終わらない。
だから、注釈をつけた。〈灰〉=〈灰鉄〉商会。〈消/三〉=三の月分。
一枚の紙に、四十七個の注釈が並んだ。
これで読めるはずだ、と俺は思った。
書けなかったものが、一つだけある。
編成だ。
どのパーティにどの依頼を出すか。危険度と等級だけでは決まらない。〈鉄槌〉のマルコと〈白鳶〉のイーサは、同じ現場に出さない。三年前に一度出したことがある。依頼そのものは成功した。ただ、それきりイーサが半年こちらへ来なかった。理由は訊いていない。訊かないほうがいいと思ったからだ。
こういうものが、頭のなかに百は入っている。
誰と誰を同じ日に受付へ並ばせないか。誰の報酬を先に払うか。誰の名前を掲示に出さないか。
紙に書くと、全部、悪口になる。
だから書かなかった。
◆
最後の日、受付のアンナが追いかけてきた。
「なんで受けるんですか」
彼女は書類の束を抱えたままだった。角が折れている。急いで持ってきたらしい。
「決定です」
「決定でも、言えることはあるでしょう。ヨナさんがいなくなったら誰が査定するんですか。明日の依頼票、二十六枚あるんですよ」
「支部長が査定します」
「支部長は相場を知りません」
知らないだろう、と俺も思った。だが、それは半年で覚えることだ。俺だって最初は知らなかった。誰かが教えてくれたわけでもない。
「アンナ」
「はい」
「発注は締め日の三日前に出してください。三日前です。当日ではなく」
「……はい」
「クレイグの遺族の住所、俺の机の左の抽斗に入っています。引継ぎ書には第三区としか書けなかったので」
「なんでそんな、」アンナは言いかけて、口をつぐんだ。「なんで最後まで、そういう話なんですか」
俺は答えられなかった。
他に話すことが、思いつかなかったからだ。
◆
門を出る前に、掲示板の前を通った。
癖だった。十二年、一日に四回はここを通っている。
二十六枚の依頼票が貼ってある。査定済みの札が付いているのは十四枚。残りの十二枚には、まだ額が入っていない。今日中に入れる予定だった。〈黒沼〉の周辺で薬草が採れなくなっていることを、今日の午後に反映するつもりだった。相場が上がる。上がった額で出さないと、誰も受けない。誰も受けなければ、来月、薬が足りなくなる。
足が止まった。
十二枚だ。三十分あれば終わる。
俺は、もうここの職員ではない。
しばらくそこに立っていた。それから、掲示板に背を向けた。
背を向けたとき、目の端に、数字が見えた。
【不足視】が勝手に動くことがある。見ようとしなくても、足りないものが向こうから見えてしまう。
掲示板の上に、それが浮かんでいた。
——不足:査定者(1)
俺は門を出た。
六日後、王都支部の掲示板から、依頼票が一枚残らず消える。
誰も受けなかったからではない。額が入らないまま日付が過ぎて、全部が無効になったからだった。




