第十六話 また同じことをしています
その晩、俺たちは台帳を全部めくった。
三冊ある。トゥーレの本帳、ノーレの本帳、それに証の出し入れだけを書いた薄いもの。全部で二百四十頁ほどになる。
アンナは、印を見つけるたびに紙を挟んだ。細く裂いた紙で、頁の上から一寸ほど出る。
彼女のめくり方は速い。読んでいるのではなく、形を見ている。俺が掲示板の依頼票を見るときと同じやり方だ。この人は文字を絵として拾える。受付を四年やると、そうなるらしい。
二時間で、紙が十九本立った。
「十九です」
「奇遇ですね」
「何がですか」
「なんでもありません」
◆
十九のうち、俺が書いたものが十四。セリが五だった。
セリの五つは、全部この十日以内に書かれている。彼女は今月から証の出し入れを一人で付けるようになった。一人で付けるようになった途端に、印が出た。
人は、急ぐと縮める。縮めた形は、近くにいる人間の形を真似る。それだけのことだった。
「セリさん。この印は、誰に習いましたか」
「習っていません」
セリは正直に言った。
「ヨナさんが書いていたので、真似しました」
「意味は分かりますか」
「原資が別のところから来ている印です」
「別、というのは、どこですか」
セリが止まった。
「……素材の買取益、だと思います」
「思います、ですか」
「はい」
アンナはうなずいた。責めていない。確かめているだけだ。
この訊き方を、俺は知っている。受付で、依頼者の話に穴があるときに彼女がやるやり方だ。相手を追い詰めずに、穴の縁まで連れていって、そこで黙る。落ちるかどうかは相手が決める。
「ヨナさん。この印は、何種類の意味で使っていますか」
俺は答えられなかった。
考えれば分かる。考えないと分からない、という時点で答えは出ている。
「三つです」
俺は言った。
「原資が買取益のとき。原資がノーレとの取り決めのとき。あとは、原資が決まっていないが、後で決めると決めたとき」
「三つを、同じ印で」
「はい」
「どうやって見分けていましたか」
「前後を読めば分かります」
「ヨナさんは、ですよね」
◆
俺は椅子に座り直した。座り直したのは、逃げ場がなかったからだ。
半年前、俺は引継ぎ書を三十二枚書いた。四十七個の注釈をつけた。それで足りると思った。足りなかった。
あのとき、俺は自分の落ち度だと思っていなかった。読めないほうが悪いとも思っていなかった。ただ、三日しかなかったからだと思っていた。
三日ではなかった。十二年だった。
十二年かけて、俺は自分にしか読めない書き方に寄っていった。寄っていく過程には、毎回、理由があった。速いから。間違えないから。慣れているから。理由はどれも正しい。正しい理由が積み上がって、誰にも渡せないものになった。
それを、俺は半年でもう一度やっていた。
二十日でだ。
「セリさん」
「はい」
「あなたが五つ書いたのは、俺が十四書いたからです」
「はい」
「これは、あなたの落ち度ではありません」
「分かっています」
セリはそう言って、それから小さく続けた。
「でも、わたしも書きました」
◆
「直しますか」
アンナが訊いた。
「直します」
「全部ですか」
「全部です」
「二百四十頁あります」
「あります」
俺は言った。
「ただ、直すのは印ではありません」
アンナが顔を上げた。
「印を直しても、また作ります。俺は速く書きたいので、必ずまた作ります。半年後には別の印ができています」
「では、何を直しますか」
「決め方です」
俺は白紙を出した。
「新しい印を作っていいのは、どういうときか。作ったら、どこに書くか。誰が読めれば、その印を使ってよいことにするか。それを先に決めます」
アンナは、しばらく俺を見ていた。
「ヨナさん」
「はい」
「それを半年前に王都でやっていたら、たぶん、切られていません」
◆
三人で決めたのは、四つだった。
決めるのに、夜中までかかった。文言を三度書き直した。最初に書いたものは、俺が一人で作った規則の形をしていた。二度目はアンナが直した。三度目に、セリが「これだと、リナちゃんが読めません」と言って、また直した。
一つ。新しい印を作ったら、その日のうちに、表紙の裏の一覧に書く。書かない印は使わない。
二つ。一つの印に、意味は一つ。三つの意味があるなら、印を三つ作る。
三つ。印の一覧は、誰でも見ていい。見せない場所に置かない。
四つ。ここにいない人が読んで分からなかったら、その印は失敗である。書いた人が直す。
四つ目を書いたとき、セリが訊いた。
「ここにいない人、というのは、誰ですか」
「決めていません」
俺はそう答えてから、言い直した。
「いえ。決めます。リナさんです」
「リナちゃん」
「ノーレにいて、月に二度しか来ません。彼女が読んで分からなかったら、直します。彼女が基準です」
セリは頬を掻いた。
「リナちゃん、喜びます」
「喜ぶ話ではないと思いますが」
「喜びます」
◆
四つ目を書いてから、俺はしばらくその紙を見ていた。
基準を人にする、というのは、俺が十二年やらなかったことだった。俺の基準はいつも「読み違えないこと」で、それは俺が読み違えないという意味でしかなかった。
基準に名前がつくと、基準が自分から離れる。離れると、自分がいなくても回る。
それが怖いという気持ちが、まだ少しある。
書き直しは、九日かかった。
三人で、二百四十頁を頭からめくった。印を一つ見つけるたびに、三つのうちどれかを判じて、書き直す。判じられないものが十一件あった。十一件は、俺にも思い出せなかった。
思い出せないものを、俺は空欄にした。空欄のまま残して、横に書いた。
——不明。当時の判断者に確認できず。
当時の判断者は、俺だ。
自分に確認できないと、自分の帳簿に書いた。
書いたとき、セリが何か言いたそうにして、言わなかった。言わなかったのは正しい。ここで慰められると、たぶん俺は次から空欄を作らなくなる。作らなくなると、思い出せないものを思い出したことにして埋める。
埋めた帳簿は、読めるが、嘘になる。
十一件の空欄は、そのまま残した。
残したものを数えると、二百四十頁のうち、俺が思い出せない判断が十一あることになる。半年ぶんでそれだ。十二年なら、いくつあったのか。
考えても仕方がないので、考えるのをやめた。やめたのに、その晩は寝つけなかった。
九日目の夕方、アンナが最後の頁を閉じた。
「終わりました」
「お疲れさまでした」
俺は、机の端に置いたままの封を見た。
九日、そこにある。誰も触っていない。
「開けますか」
「開けます」
◆
封に〈石環〉商会の印がある。
バルテからだ。ひと月半前に、この村まで来た男である。椅子が一つしかない出張所で、俺が立って、彼を座らせた。
九日前、アンナがこれを宿から持ってきた。持ってきた日に、俺は開けなかった。
「先に帳簿を直します」
俺はそう言った。アンナは何も言わなかった。セリが訊いた。
「急ぎじゃないんですか」
「急ぎです」
「じゃあ」
「急ぎだから、後です」
俺は言った。
「開けたら、たぶん数字を訊かれます。訊かれて答えるのに、いまの帳簿では十日かかります。直っていれば、半日で出ます」
九日かけて直した。
いま、半日で出る。
俺は封を切った。




