↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/59

第十六話 また同じことをしています

 その晩、俺たちは台帳を全部めくった。

 三冊ある。トゥーレの本帳、ノーレの本帳、それに証の出し入れだけを書いた薄いもの。全部で二百四十頁ほどになる。

 アンナは、印を見つけるたびに紙を挟んだ。細く裂いた紙で、頁の上から一寸ほど出る。


 彼女のめくり方は速い。読んでいるのではなく、形を見ている。俺が掲示板の依頼票を見るときと同じやり方だ。この人は文字を絵として拾える。受付を四年やると、そうなるらしい。

 二時間で、紙が十九本立った。


「十九です」


「奇遇ですね」


「何がですか」


「なんでもありません」


           ◆


 十九のうち、俺が書いたものが十四。セリが五だった。

 セリの五つは、全部この十日以内に書かれている。彼女は今月から証の出し入れを一人で付けるようになった。一人で付けるようになった途端に、印が出た。

 人は、急ぐと縮める。縮めた形は、近くにいる人間の形を真似る。それだけのことだった。


「セリさん。この印は、誰に習いましたか」


「習っていません」


 セリは正直に言った。


「ヨナさんが書いていたので、真似しました」


「意味は分かりますか」


「原資が別のところから来ている印です」


「別、というのは、どこですか」


 セリが止まった。


「……素材の買取益、だと思います」


「思います、ですか」


「はい」


 アンナはうなずいた。責めていない。確かめているだけだ。

 この訊き方を、俺は知っている。受付で、依頼者の話に穴があるときに彼女がやるやり方だ。相手を追い詰めずに、穴の縁まで連れていって、そこで黙る。落ちるかどうかは相手が決める。


「ヨナさん。この印は、何種類の意味で使っていますか」


 俺は答えられなかった。

 考えれば分かる。考えないと分からない、という時点で答えは出ている。


「三つです」


 俺は言った。


「原資が買取益のとき。原資がノーレとの取り決めのとき。あとは、原資が決まっていないが、後で決めると決めたとき」


「三つを、同じ印で」


「はい」


「どうやって見分けていましたか」


「前後を読めば分かります」


「ヨナさんは、ですよね」


           ◆


 俺は椅子に座り直した。座り直したのは、逃げ場がなかったからだ。

 半年前、俺は引継ぎ書を三十二枚書いた。四十七個の注釈をつけた。それで足りると思った。足りなかった。

 あのとき、俺は自分の落ち度だと思っていなかった。読めないほうが悪いとも思っていなかった。ただ、三日しかなかったからだと思っていた。


 三日ではなかった。十二年だった。

 十二年かけて、俺は自分にしか読めない書き方に寄っていった。寄っていく過程には、毎回、理由があった。速いから。間違えないから。慣れているから。理由はどれも正しい。正しい理由が積み上がって、誰にも渡せないものになった。

 それを、俺は半年でもう一度やっていた。

 二十日でだ。


「セリさん」


「はい」


「あなたが五つ書いたのは、俺が十四書いたからです」


「はい」


「これは、あなたの落ち度ではありません」


「分かっています」


 セリはそう言って、それから小さく続けた。


「でも、わたしも書きました」


           ◆


「直しますか」


 アンナが訊いた。


「直します」


「全部ですか」


「全部です」


「二百四十頁あります」


「あります」


 俺は言った。


「ただ、直すのは印ではありません」


 アンナが顔を上げた。


「印を直しても、また作ります。俺は速く書きたいので、必ずまた作ります。半年後には別の印ができています」


「では、何を直しますか」


「決め方です」


 俺は白紙を出した。


「新しい印を作っていいのは、どういうときか。作ったら、どこに書くか。誰が読めれば、その印を使ってよいことにするか。それを先に決めます」


 アンナは、しばらく俺を見ていた。


「ヨナさん」


「はい」


「それを半年前に王都でやっていたら、たぶん、切られていません」


           ◆


 三人で決めたのは、四つだった。

 決めるのに、夜中までかかった。文言を三度書き直した。最初に書いたものは、俺が一人で作った規則の形をしていた。二度目はアンナが直した。三度目に、セリが「これだと、リナちゃんが読めません」と言って、また直した。

 一つ。新しい印を作ったら、その日のうちに、表紙の裏の一覧に書く。書かない印は使わない。


 二つ。一つの印に、意味は一つ。三つの意味があるなら、印を三つ作る。

 三つ。印の一覧は、誰でも見ていい。見せない場所に置かない。

 四つ。ここにいない人が読んで分からなかったら、その印は失敗である。書いた人が直す。

 四つ目を書いたとき、セリが訊いた。


「ここにいない人、というのは、誰ですか」


「決めていません」


 俺はそう答えてから、言い直した。


「いえ。決めます。リナさんです」


「リナちゃん」


「ノーレにいて、月に二度しか来ません。彼女が読んで分からなかったら、直します。彼女が基準です」


 セリは頬を掻いた。


「リナちゃん、喜びます」


「喜ぶ話ではないと思いますが」


「喜びます」


           ◆


 四つ目を書いてから、俺はしばらくその紙を見ていた。

 基準を人にする、というのは、俺が十二年やらなかったことだった。俺の基準はいつも「読み違えないこと」で、それは俺が読み違えないという意味でしかなかった。

 基準に名前がつくと、基準が自分から離れる。離れると、自分がいなくても回る。


 それが怖いという気持ちが、まだ少しある。

 書き直しは、九日かかった。

 三人で、二百四十頁を頭からめくった。印を一つ見つけるたびに、三つのうちどれかを判じて、書き直す。判じられないものが十一件あった。十一件は、俺にも思い出せなかった。

 思い出せないものを、俺は空欄にした。空欄のまま残して、横に書いた。


 ——不明。当時の判断者に確認できず。


 当時の判断者は、俺だ。

 自分に確認できないと、自分の帳簿に書いた。

 書いたとき、セリが何か言いたそうにして、言わなかった。言わなかったのは正しい。ここで慰められると、たぶん俺は次から空欄を作らなくなる。作らなくなると、思い出せないものを思い出したことにして埋める。

 埋めた帳簿は、読めるが、嘘になる。


 十一件の空欄は、そのまま残した。

 残したものを数えると、二百四十頁のうち、俺が思い出せない判断が十一あることになる。半年ぶんでそれだ。十二年なら、いくつあったのか。

 考えても仕方がないので、考えるのをやめた。やめたのに、その晩は寝つけなかった。

 九日目の夕方、アンナが最後の頁を閉じた。


「終わりました」


「お疲れさまでした」


 俺は、机の端に置いたままの封を見た。

 九日、そこにある。誰も触っていない。


「開けますか」


「開けます」


           ◆


 封に〈石環〉商会の印がある。

 バルテからだ。ひと月半前に、この村まで来た男である。椅子が一つしかない出張所で、俺が立って、彼を座らせた。

 九日前、アンナがこれを宿から持ってきた。持ってきた日に、俺は開けなかった。


「先に帳簿を直します」


 俺はそう言った。アンナは何も言わなかった。セリが訊いた。


「急ぎじゃないんですか」


「急ぎです」


「じゃあ」


「急ぎだから、後です」


 俺は言った。


「開けたら、たぶん数字を訊かれます。訊かれて答えるのに、いまの帳簿では十日かかります。直っていれば、半日で出ます」


 九日かけて直した。

 いま、半日で出る。

 俺は封を切った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。