第十五話 辞めてきました
カムリの話をどうするかを決めないまま、三日が過ぎた。
決めないというのは、俺の癖ではない。俺は普通、その日のうちに決める。決められなかったのは、この件で決めるべきことが、村の外にはなく、俺の中にあったからだ。
四日目の昼、便が来た。
便には人が乗る。荷が軽い日は、頼めば乗せてくれる。この日は二人乗っていた。一人は反物の行商で、もう一人が、俺の知っている顔だった。
◆
アンナは、荷台から自分で降りた。
行商が手を貸そうとしたが、間に合わなかった。降りてから、彼女は自分の袖を叩いて埃を落とした。六日ぶんの埃が、たぶん一度では落ちない。
鞄が二つある。片方は書類の鞄だ。角が擦れている。半年前、俺を追いかけてきたときに抱えていたのと同じものだった。
「ヨナさん」
「アンナさん」
「六日かかりました」
「六日です」
それきり、どちらも次を言わなかった。
言うことがないのではない。言うことが多すぎるとき、人は最初の一つを選べない。俺はそういう場面が苦手で、彼女もそうらしかった。
沈黙を破ったのは、セリだった。
「どちらさまですか」
「王都支部の受付をしていました。アンナといいます」
「していました」
セリが繰り返した。彼女は語尾をよく拾う。
「していました」
アンナはそう言って、鞄を持ち直した。
「辞めてきました」
言い方は、報告のときの言い方だった。
この人はいつもそうだ。半年前、俺を追いかけてきたときも、まず依頼票の枚数を言った。二十六枚あるんですよ、と。感情を先に出さない。数字を先に出す。
似ていると思ったことは、これまで一度もなかった。
◆
出張所に椅子は二つになっていた。取次所になったとき、ゴルドが一つ作ってくれた。
作ってくれ、とは言っていない。ある日、勝手に置いてあった。代金の話もされなかった。証で払うと言ったら、要らんと言われた。
三人になったので、また足りない。
セリが床に座った。座ってから、台帳を膝に載せた。この子はどこでも書く。
「なぜ辞めたんですか」
俺が訊く前に、セリが訊いた。
「宛名を、自分の名前で書いたからです」
アンナは鞄から紙を出した。写しらしい。
「死んだ人の遺族に、給付を送りました。送り先が変わっていたので、書き直して、差出人のところに自分の名前を書きました」
「支部長の名前ではなく」
「支部長は、その書式を知りませんでした」
アンナは淡々と言った。
「知らない人の名前で出すと、問い合わせが来たときに答えられません。答えられない差出人は、いない差出人と同じです。だから自分の名前にしました」
「それで、何が起きましたか」
「二月で、十一件出しました。十一件とも、私の名前です」
彼女は写しを机に置いた。
俺はそれを見た。書式は俺が作ったものだ。十年前に作って、そのまま使われている。差出人の欄だけが、俺の知らない字で埋まっている。
「先月、そのうちの一件で、遺族の方が支部に来ました。受付に、アンナさんはいますか、と言って」
「いましたか」
「いました。私が受付です」
アンナは少しだけ笑った。笑ってから、すぐ元に戻した。
「そのとき、支部長が奥から出てきました。それで、こうなりました」
こうなりました、で済ませるつもりらしかった。
済まないだろう、と俺は思った。遺族が支部まで来るというのは、普通ではない。王都の第三区から支部まで、歩いて一時間半かかる。年寄りの足なら二時間だ。礼を言いに来たのだとしても、それだけの距離を歩かせる何かが向こうにあったということになる。
◆
「怒られたんですか」
セリが訊いた。
「怒られませんでした」
アンナは首を振った。
「訊かれました。この書式は誰が作ったのか、と」
俺は顔を上げた。
「何と答えましたか」
「前任者です、と答えました」
「名前は」
「言いませんでした」
アンナは俺を見た。
「言えば、支部長は納得したと思います。納得して、それで終わりにしたと思います。あの人は、分かってしまうと動かなくなる人です」
俺は何も言わなかった。
半年前、支部長室で俺が即答したとき、あの男は初めて顔を上げた。何か言い返されると思っていたらしい。言い返さなかったので、彼はそこで納得して、終わりにした。
あのとき俺は、自分が物分かりのいい人間だと思っていた。数字は正しい。削る順番も正しい。正しいものに逆らっても仕方がない。
いま思えば、俺は納得させたのではない。納得する材料を渡して、それで満足していた。
「言わなかったら、どうなりました」
「支部長は、自分で調べはじめました」
◆
夜になって、宿にアンナの部屋を取った。トビが三日ぶんまけてくれた。証で払った。
俺は出張所に戻って、灯りをつけた。
机の上に、名義一覧の控えがある。十九件。三つ目の五件のところに、俺の名前が五回出てくる。
アンナは、俺の名前を言わなかった。
言えば早かった。言わなかったから、カルロは自分で調べはじめた。
自分で調べた人間は、忘れない。教えられた人間は、忘れる。
彼女は、それを知っていて黙ったのだと思う。
だとすれば、あれは受付の仕事ではない。あれは、俺が十二年やってきた種類の仕事だ。
戸が鳴った。
アンナが立っていた。鞄をまだ持っている。
「ヨナさん。ここで、私は何をすればいいですか」
俺は少し考えた。
考えている時間が長かったらしく、彼女が続けた。
「受付ができます。査定もできます。書式も作れます。ただ、それはここに要りますか」
◆
俺は台帳を出して、机に置いた。
セリの字と、リナの字と、俺の字が混ざっている。三人が同じ帳面に書くようになって、二十日になる。
セリの字は大きい。リナの字は細かくて、行の下のほうへ寄る。俺の字は速い。三種類の字が同じ頁に並んでいるのを、俺は少しいいものだと思っていた。一人で書いていた十二年のあいだ、俺の帳簿は一種類の字しかなかった。
「読んでみてください」
アンナは座って、開いた。
最初の頁で、指が止まった。
「これは」
「どこですか」
「ここです。丸の中に、点」
俺は自分の書いた行を見た。
書いた覚えがある。三日前だ。証を六枚出して、原資が素材の買取益から来ていることを示すのに、いちばん速い書き方をした。
速いから、そう書いた。
「ヨナさん」
アンナは顔を上げなかった。
「また、同じことをしています」




