第十一話 戻ってくる気はないか
馬が二頭、村の入口に着いたのは、朝のうちだった。
乗っていたのは男が二人。一人は五十くらいで、外套の裾に泥がない。六日の道を来て裾が汚れていないというのは、途中で着替えたということだ。
彼は名乗った。
「〈石環〉商会のバルテといいます。〈銀羽〉に貸しがある側の人間です」
◆
出張所には椅子が一つしかない。俺が立って、バルテを座らせた。
「王都支部の話をしに来ました」
「はい」
「三の月の末に、支払いが止まりました。うちの貸しは銀貨で六百枚です。期日は四の月の三日でした」
「過ぎていますね」
「過ぎています」
バルテは膝の上で手を組んだ。
「差し押さえに入りました。金庫を開けさせました。中に、銀貨が二百十枚ありました」
俺は顔を上げた。
「第二勘定ですか」
「その名前を、あなたは知っている」
彼は初めて、少しだけ身を乗り出した。
「私が知っているのは、書面に書いてあったからです。〈灰鉄〉商会から本部へ回ったものでしょう」
「回りました」
◆
バルテは、一枚の紙を出した。
俺が書いたものだった。写しである。書いた字は俺のもので、下に本部の受付印が押してある。
「これがなければ、二百十枚は見つかりませんでした」
「見つかりますよ」
「三年かかります」
彼は言った。
「勘定の名前が帳簿にないんです。印だけがある。前任者の癖だと支部長は言った。癖で銀貨二百十枚は動きません。うちの経理が三人がかりで四日追って、それでも辿れなかった。あなたの一枚で辿れました」
俺は何も言わなかった。
言うことがなかった。あれは、自分の仕事ではないと言いながら書いた三通のうちの一通である。
「本部が支部長を外しました」
バルテは続けた。
「カルロ・ヴェイン。貴族家の次男です。処分は帳簿の不透明さについてであって、横領ではありません。使い込んではいなかった。ただ、どこに金があるか知らなかっただけです」
「知らないことは、罪になりますか」
「今回はなりました」
◆
「本題です」
バルテは外套の内側から、もう一枚出した。
〈銀羽〉本部の印がある。
「戻ってくる気はありませんか」
俺は紙を受け取らなかった。
「内務官として、王都支部へ。等級は第二等。給金は前の一・五倍。条件はここに書いてあります」
「読まなくても分かります」
「読んでください。読まずに断ると、後で惜しくなります」
俺は読んだ。
悪い条件ではなかった。むしろ、よかった。十二年勤めて第三等だった人間に、いきなり第二等を出している。本部は急いでいる。
「お断りします」
「理由を伺っても」
「ここに、二十五枚あります」
俺は台帳を出した。
「証が二十五枚出ています。準備金は銀貨十枚。全部は払えません。払えないものを、払えると思ってもらった状態で、この村は回っています」
「その状態を、あなたが作った」
「作りました」
「なら、あなたが抜けたら」
バルテは言葉を切った。
切ってから、自分で言い直した。
「同じことが、ここで起きますね」
「起きます」
◆
しばらく、誰も何も言わなかった。
外でセリが山羊を追っている声がした。数えているらしい。一、二、三、と聞こえて、それから止まって、また一から始まった。
「一つ、伺います」
バルテが言った。
「王都では、なぜ引継ぎ書が三十二枚だったんですか。十二年ぶんの仕事です。三十二枚で足りるはずがない」
「三日しか、なかったからです」
「三日と言われて、三日で書いた」
「はい」
「なぜ、足りないと言わなかった」
俺は答えを探した。
言った、と思った。三日では無理です、と支部長室で言った。だが言ったのはそれだけで、その後は書いた。書けと言われたから書いた。
「言いました。一度だけ」
「一度で足りると思いましたか」
思わなかった。
「思いませんでした」
「では、なぜ二度言わなかった」
答えは、たぶん一つしかない。
「言っても変わらないと思っていました」
「変わらなかったでしょうか」
「分かりません」
俺は言った。
「ただ、二度言った記録は残ります。残っていれば、いま支部長を外すときに、別の書き方ができたかもしれません」
バルテは、そうですね、と言った。
同意ではなく、書き留めるような言い方だった。
◆
「戻らないのは分かりました」
彼は紙を仕舞った。
「では、別の話をします。〈銀羽〉本部は、この出張所を格上げする案を持っています。取次所です。手数料を村から取らず、素材の買取益から出す形にする」
「本部が、そこまで」
「本部ではありません。私が出しました」
バルテは言った。
「うちは六百枚を貸しています。回収するには、〈銀羽〉が立ち直らないと困る。立ち直る道が、いま王都にはない。辺境にあります」
「ここは、村が四十一戸です」
「四十一戸で、王都が三月で止めた支払いを、指摘してきました」
彼は立ち上がった。
「返事は急ぎません。ただ、一つお願いがあります」
「なんでしょう」
「その台帳を、見せてもらえませんか」
◆
俺はセリを呼んだ。
台帳は彼女が持っている。俺は持っていない。持つと書き換えられるからだと、ノーレでも同じことを言った。
セリは緊張した顔で、それでも先に俺ではなくハウルを見た。村長がうなずいたので、彼女は台帳を卓に置いた。
バルテは丁寧にめくった。商人のめくり方だった。
貸し借りの頁で、彼の手が止まった。
「食い違いに印がついていますね」
「三十一件あります」
「減りましたか」
訊き方が正確だった。増えたか減ったかではなく、減ったかと訊いた。
「二十四件になりました」
「七件、片づいた」
「双方が覚え直したのが四件。片方が譲ったのが三件です」
バルテは台帳を閉じた。
閉じてから、俺ではなくセリに向かって言った。
「これは、あなたが書いているんですか」
「半分くらいです」
「では、あなたに訊きます」
彼は言った。
「この台帳を、五年続けられますか」
セリは俺を見た。
俺は何も言わなかった。答えを教えたら、この質問の意味がなくなる。
「分かりません」
彼女は言った。
「でも、続けないと、また誰も読めなくなります」
バルテは、それでいい、という顔をした。
◆
二人が発ったのは昼過ぎだった。
見送ってから出張所へ戻ると、机の上に、バルテが置いていった紙があった。
本部の書面ではない。彼自身の字だった。
——王都支部の内務に、新しい者が入っています。名はトーレンといいます。あなたの注釈を四十一個まで解きました。残り六個で止まっています。
——本人が、あなたに手紙を書きたいと言っています。宛先を教えてよいか、返事をください。
俺は紙を置いた。
六個。
俺も、思い出せていない。




