幕間 二という字
採用されて十二日になる。
トーレンは帳簿を扱った経験がある。東の穀物商で六年やった。だから採られたのだと思っていた。
初日に渡されたのは、三十二枚の紙だった。
引継ぎ書、と表紙に書いてある。字は速い。速いが乱れていない。書き慣れた人間の字だった。
一枚目に、注釈が四十七個並んでいた。
◆
四十一個は解けた。
〈灰〉は〈灰鉄〉商会。〈消〉は消耗品。三角は期日が月をまたぐ印。線が二本は、支部長の承認がまだ要る印。
六個が解けない。
そのうちの一つが、〈二〉だった。
注釈にはこう書いてある。——〈二〉=第二勘定。
第二勘定という名の勘定が、支部の帳簿のどこにもない。
トーレンは十二日かけて全部の頁をめくった。金庫の中も見た。金庫番の老人にも訊いた。老人は「そんな名前は聞いたことがない」と言った。
あるはずだ、とトーレンは思った。
〈二〉という印は、帳簿のあちこちに出てくる。三の月の消耗品代のところにも出てくる。出てくるということは、そこから金が動いている。動いているのに、勘定そのものが見つからない。
名前が違うだけだ、と彼は考えた。前任者は略記で呼んでいた。正式な名前が別にある。だが正式な名前を、誰も知らない。
◆
「支部長」
三日目に、彼は訊いた。
「第二勘定というのは、どこにありますか」
「知らん」
支部長は即答した。怒った声ではなかった。本当に知らないのだと分かる答え方だった。
「帳簿にない勘定に、金は置けん」
「ですが、印が出てきます」
「前任者の癖だろう」
トーレンはうなずいて、下がった。
下がってから、それは答えになっていないと思った。癖で書かれた印から、実際に銀貨百四十枚が支払われている。癖では金は動かない。
◆
五日目、〈灰鉄〉商会から二通目が来た。
支部長がそれを開けて、読んで、引き出しに入れた。
トーレンは見ていた。
「あの、内容は」
「督促だ」
「一通目もありましたか」
支部長の手が止まった。
「あった」
「読ませていただけますか」
「あれは私信だ」
支部長はそう言った。
トーレンは食い下がらなかった。食い下がるほどの立場ではない。まだ十二日である。
だが、頭の隅に置いた。
商会が支部へ出す督促が私信になるのは、宛名が支部でない場合だけだ。
◆
その夜、受付の女が倉庫にいた。
備品の再配置で運ばれた箱が、二十いくつ積んである。彼女は三つ目の箱を開けていた。埃が立っている。
「何かお探しですか」
「住所です」
彼女は顔を上げなかった。
「机の左の抽斗に入っていた紙です。北の第三区とだけ書いてあるのではなくて、番地まで書いてあるものです」
トーレンは手伝った。
四つ目の箱の底に、それはあった。
紙は封筒の裏を切ったもので、鉛筆で書いてある。番地と、目印になる井戸の位置。それから、この家は昼にいないので夕方に行くこと、と書き足してある。
書き足しの字は、引継ぎ書と同じだった。
速くて、乱れていない。
◆
彼女はその紙を封筒に入れた。
入れてから、宛名を書く手が止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
「送り先が」
トーレンが言うと、彼女は首を振った。
「送り先は分かります」
「では」
「差出人を、なんと書けばいいのか分からないんです」
彼女はそう言った。
支部の名前で送れば、支部が処理したことになる。処理していないのに、したことになる。
自分の名前で送れば、支部を通していないことになる。通していない書面は、後で無効にされる。
三つ目の名前を、彼女は口にしなかった。
トーレンは、その名前を知らない。
名簿にはもう載っていない。誰も口に出さない。十二日いて、一度も聞いていない。
彼女は封筒を持ったまま、倉庫の灯りを消した。
◆
その晩、トーレンは金庫室に残った。
〈二〉の頁を、もう一度開く。丸の中に点が、十四個並んでいる。
十四個のうち三つに、細い線が二本引いてあった。注釈にはこうある。
——線二本=支部長の承認がまだ要る。
三つとも、日付が三年前で止まっていた。
三年、承認を待っている勘定が、この帳簿の中にある。
戸が開いて、金庫番の老人が入ってきた。灯りを消しに来たらしい。
「まだやっとるのか」
「この印を、ご存じですか」
トーレンは頁を向けた。老人は目を細めた。
「丸に点な」
「知っているんですか」
「知らん。ただ、あの人が書いとるのは何遍も見た」
老人は椅子に手をついた。
「書くときにな、いつも二回、指で押さえとった。紙を」
「押さえる」
「点が滲むからだろう。滲むと丸に見える。丸に見えると、数が違う」
トーレンは、その言葉を書き留めた。
「数が違うと、何が困るんです」
「知らんよ。わしは金を数えるだけだ」
老人は灯りに手を伸ばした。
「ただ、あの人は、数が違うのをいっとう嫌がった」
◆
トーレンは、三つの印を書き写した。
書き写しながら、一つだけ分かったことがある。
〈二〉が何かは、まだ分からない。ただ、この勘定は、誰かが埋めるのを待っている。




