第九話 組合の名では売れない
メルダ商会の帳場は、思っていたより狭かった。
主人は五十を過ぎた女で、髪を後ろでまとめている。名をメルダといった。俺たちが入っても立たなかった。
「〈銀羽〉の人かい」
「出張所の者です」
「どこの」
「トゥーレです」
メルダは、聞いたことがないという顔をしなかった。知らない村の名を聞いて、知らないという顔をしない人間は、商売が長い。
「門の札を見たかい」
「見ました」
「なら話は早い。手形は受けない。あんたのところが悪いわけじゃないが、王都が止まった。止まった組合の紙は、うちでは紙だ」
「手形は持ってきていません」
俺は荷を指した。
「麦五十袋。〈牙鹿〉の角が六本。皮が四枚。現物です」
◆
メルダは荷を見に外へ出た。
角を一本ずつ手に取って、根元を見た。皮は端をつまんで引いた。麦は袋を一つ開けて、掌に出して、匂いを嗅いだ。
全部で四半刻もかからなかった。
「麦は十八枚だ」
「二十枚と聞いています」
「それは王都の値だ。ここは麦の産地だよ」
俺は黙った。
知らなかった。行商から聞いた値をそのまま使っていた。ノーレの麦がケルンで高く売れると思っていたのは、俺だけかもしれない。
「角は六本で十二枚。皮は四枚で四枚。合わせて三十四枚」
「三十四枚」
「それでいいなら、今日払う」
運賃は十八枚だ。残るのは十六枚。俺が最初に見積もった十四枚より多い。角が二本増えたからだ。
だが麦は二枚下がった。ノーレの取り分が減る。
俺はそこを先に考えた。
「一つ、伺えますか」
「なんだい」
「麦を十八枚にする理由は、産地だからですか。それとも、うちの荷だからですか」
メルダの目が動いた。
「どういう意味だい」
「同じ麦を、ノーレの人間が直接持ってきたら、いくらになりますか」
◆
しばらく、何も言われなかった。
セリが横で息を止めているのが分かった。ロブが戸口で身じろぎした。
「十八枚だよ」
メルダは言った。
「誰が持ってきても十八枚だ。あんた、値切られてるかと思ったのかい」
「思いました」
「正直だね」
「嘘をつくと、次が終わりますので」
メルダが、初めて笑った。
「その台詞、どこで覚えた」
「自分で言うようになったのは、最近です」
◆
「それで」
メルダは帳場に戻って、算盤に手を置いた。
「三十四枚。払いは現金でいいね」
「はい」
「〈銀羽〉の受取証はいらない。名前も書かなくていい。うちはいま、あの組合の名前を帳簿に載せたくない」
俺は少し考えた。
受取証を出さないというのは、こちらにとっても不利になる。誰にいくらで売ったかが残らない。残らないと、次に来たとき値を比べられない。村へ持って帰る報告も、俺の口だけになる。
「載せていただきたいのですが」
「〈銀羽〉の名では載せない」
「〈銀羽〉の名でなくて構いません」
俺は台帳を出した。
セリが持ってきた、トゥーレの台帳である。表紙はない。紙を糸で綴じただけだ。
「これで載せてください」
◆
メルダは台帳を開いた。
最初の頁は、村にあるものの数だ。戸数四十一。人百七十三。麦二百二十袋。鶏百十羽。山羊二十二頭。牛四頭。塩、樽で三つ。
次の頁が、現金だ。銀貨十一枚、銅貨三十二枚。どの家がいくら持っているかは書いていない。合計だけ書いてある。
その次から、貸し借りが百六十七件並んでいる。
メルダは指で追った。三頁めくったところで、手が止まった。
「これは何だい」
彼女が指したのは、行の右端の小さな印だった。
「双方の記憶が食い違っている件です。三十一件あります」
「食い違いを、書くのかい」
「書きます」
「普通は書かないよ」メルダは顔を上げた。「揉め事の種を、自分の帳簿に自分で書く商人はいない」
「書かないと、後で誰かが片方の記憶で決めます」
俺は言った。
「片方で決めると、決められた側が次から帳簿を信じません。信じない人間が一人出ると、そこから紙が回らなくなります。だから、決まっていないことは決まっていないと書きます」
メルダは台帳を閉じた。
閉じてから、しばらく手を載せたままにしていた。
「あんた、王都で何をしてた」
この三日で、二度目に訊かれた質問だった。
「事務です」
◆
銀貨三十四枚は、その日のうちに払われた。
メルダは受取証を二枚書いた。一枚は俺に、一枚は自分の控えに。どちらにも〈銀羽〉の名はない。
書いてあったのは、トゥーレ村の台帳の番号だった。俺がその場で振った番号である。第一号。
「次はいつ来る」
「刈り入れの後です」
「麦は十八枚だよ。上げないよ」
「はい」
「角は、上げてもいい」
メルダはそう言って、算盤を横へ寄せた。
「あんたの村の紙、うちで預かれるかい」
俺は顔を上げた。
「預かる、というのは」
「トゥーレの証を、うちで受け取って、うちの帳簿に載せる。次に来たとき、荷と相殺する。そうすれば、あんたは現金を持って帰らなくていい。この道は獣が出るんだろう」
出る、と俺は答えた。
答えてから、それが何を意味するか考えた。
トゥーレの証が、トゥーレの外で通ることになる。
村の中だけで回っていた紙が、五日離れた町の帳簿に載る。
いま出ている証は十三枚だ。換え金は銀貨三枚しかない。
「返事は、明日でよろしいですか」
「かまわないよ」
メルダは算盤を引き寄せた。
「ただ、あんたが持って帰る三十四枚は、今夜のうちに数えておくことだね。数えないで寝る人間が、いちばん損をする」
◆
宿で、俺は三十四枚を数えた。
二度数えて、二度とも合った。合ってから、別の紙に運賃の割り当てを書き直した。
麦は二十枚のはずだった。十八枚だった。
ガレンと決めた負担は、ノーレが十三枚、トゥーレが五枚である。売り上げから引くと、ノーレに五枚、トゥーレに十一枚残る。
俺は彼に、七枚は残ると言った。
二枚足りない。
角が二本増えたぶん、トゥーレの取り分は増えている。当初の見込みなら七枚だったところが、十一枚になった。減ったのはノーレだけである。
黙っていれば分からない。ケルンの値をノーレの村長は知らない。麦を十八枚で売ったと言えば、そういうものかと思う。あるいは、二十枚で売ったと言っても、確かめる方法がない。
◆
俺は受取証を見た。
メルダは麦十八枚と書いていた。
書いてある以上、いつか読まれる。読まれたときに食い違っていると、次の便がなくなる。次がなくなれば、来年また運賃は十八枚に戻る。
俺は紙を裏返して、ガレンへの報告を書いた。
——麦は十八枚でした。二十枚と申し上げたのは私の誤りです。ケルンは麦の産地で、王都の値より安く出ます。事前に確かめずに数字を出しました。
——約束した七枚に、二枚足りません。不足の二枚は、トゥーレの取り分から出します。トゥーレの残りは十一枚から九枚になります。
書いてから、少し考えて、その下に一行足した。
——次の便から、値はケルンで確かめてから決めます。私の見積もりで決めません。
二枚は、村の金である。俺の金ではない。だから本当は、ハウルに諮ってから決めることだ。
諮らずに書いたのは、諮ると間に合わないからではなかった。
自分の誤りで出た穴を、村に埋めさせたくなかっただけである。
なぜそれが良くないのかは、うまく言えなかった。良くないということだけが、先に分かった。
俺は一行を消した。消して、こう書き直した。
——不足の二枚をどう埋めるかは、トゥーレの村長と相談して決めます。十日以内にお返事します。
書き直してから、灯りを消した。
セリが隣の部屋で台帳を写している音が、しばらく聞こえていた。
◆
その音が止まってから、俺は寝床で数えた。
準備金は、銅貨で三十枚しかない。銀貨に直して三枚だ。
村に出ている証を全部持ってこられたら、俺は三枚ぶんで止まる。
止まるかどうかを決めるのは、俺ではない。
明日、村の誰かが決める。




