第九話 ARSI
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月九日 東京・中野/目白/三鷹
エレナ・ボルゲーゼの顔が画面に映ったとき、ヴェネツィアは朝の七時だった。
「早瀬さま。お待たせをいたしました。わたくし、ただいま研究所の書庫におります。こちらの窓から、ちょうどジュデッカ運河が見えるんです」
栗色の巻き毛を無造作にまとめ、分厚いカーディガンの上からストールを巻いている。三十八歳。ヴェネツィア音楽史料研究所の研究員で、十八世紀のオペラの写譜を専門にしている。日本語は大学で学んだのだという。教科書のように正確で、少しだけ丁寧すぎた。
紹介してくれたのは冴子だった。若いころ、ヴェネツィアで歌の勉強をしていたときの友人の友人なのだそうだ。
奏は、楽譜の写しの画像を、事前に送っておいた。警察に原本を預ける前に、久我の許しを得て撮った写真だ。
「拝見いたしました。たいへん興味深い紙でございます」
エレナは、画面のこちら側に向かって身を乗り出した。
「まず、この歌ですが、わたくしの知るかぎり、ブラッチョーリの台本のどの版にも載っておりません。一七一三年の台本にも、一七一四年にも、一七二七年にも。それでいて、低音の書法も旋律の運びも、ヴェネツィアのあの時代のものに間違いございません」
「台本にない歌……」
「ええ。おそらく、これは差し込みのアリアです。早瀬さまは、アリア・ディ・バウレというものをご存じでいらっしゃいますか」
「バウレ……トランク、ですか」
「さようでございます。トランク・アリア」
トランク、と聞いて、奏は昔読んだ本の一節を思い出した。歌い手は、自分の歌を持ち歩く。気に入らない歌は差し替え、足りなければ差し込む。
エレナは、画面の外から何かの本を引き寄せた。
「ボローニャ大学のコラーゴという資料庫がございまして、歌い手ごとの、そういうトランクの歌が整理されております。こちらの歌は、そこにも見当たりません。つまり、どなたかが一度だけ、どこかのオルランドに差し込んで、そのまま歴史から消えた歌、ということになりましょう」
「誰の歌なのかは」
「残念ながら、紙には名前がありません」
エレナは、肩をすくめた。
「ただ、早瀬さま。歌詞をお読みになりましたか。わたくし、この四行が、とても気になります」
奏は、写しの歌の段に目を落とした。
四行のイタリア語。奏はイタリア語の歌詞なら、意味はおおよそ追える。けれど、詩として読むのは得意ではなかった。エレナが、ゆっくりと読み上げた。
「Arde il mio nome sull'altrui labbra——わたくしの名は、他人の唇の上で燃える。Resta a me sol la cenere e il canto——わたくしに残るのは、ただ灰と歌ばかり。Se chiedi chi scrisse queste note——この音符を誰が書いたかと問うならば。Interroga il basso, e non il pianto——低音に問え、嘆きにではなく」
低音に問え。
奏は、自分の膝の上の写しを見下ろした。歌の段の下に、ソの刻みが延々と続いている。五つ、七つ、四つ。目を離しても、数える声が勝手に追いかけていく。
「名前を奪われた人の歌、でございますね」
エレナが言った。
「自分が書いたものを、他人の名で歌われた人の。ですから、自分が誰なのかは、低音に訊いてくれ、と」
「低音に、何かが書いてあるということですか」
「詩の上では、そう読めます。実際に何かが書いてあるのかどうかは、早瀬さまのほうがお詳しいでしょう」
エレナは、少し声を落とした。
「早瀬さま。わたくし、こういう紙を見ると、いつも思います。十八世紀のヴェネツィアの劇場には、何百人という写譜師がおりました。総譜を写し、声部を写し、差し替えのアリアを写し、夜通しで次の幕を写す。けれど、その人たちの名前は、ほとんどどこにも残っておりません」
エレナは、画面の向こうの窓のほうへ目をやった。ジュデッカ運河の水面が、朝の光を照り返しているのが、ぼんやりと見えた。
「名前は分からなくても、手は覚えられる。わたくしの仕事は、それです」
奏は、写しの低音に目を戻した。
低音の刻みの、黒い符頭の列。この一つ一つを、三百年前の誰かの手が置いたのだ。
「この低音の手は、誰の手か分かりますか」
「まだです。ただ」
エレナは、画面に顔を近づけた。
「とても、太い字です。インクを惜しまず、まっすぐに引いてある。こういう低音を書く写譜師は、信用できる、と、わたくしの師匠は申しておりました」
奏は、四行の歌詞を見つめていた。
Arde。Resta。Se。Interroga。
行の頭の、四つの単語。その最初の文字だけを、縦に読む。
A。R。S。I。
奏は、鉛筆を落としそうになった。
「エレナさん。行の頭の文字を、縦に」
エレナは一瞬きょとんとし、それから自分の手元の紙に目を落とした。唇が動いた。A、R、S、I。
「アルシ」
エレナの声が、裏返った。
「Arsi。アルデレの遠過去形です。わたくしは燃えた。それから……詩の言葉としては、わたくしは恋い焦がれた、とも読めます。まあ。まあ、なんということでしょう」
「私は燃えた」
奏は、繰り返した。
「私は、恋い焦がれた」
二つの意味が、一つの言葉の中で重なっていた。
画面の向こうで、エレナは興奮したように身振りを大きくしていた。けれど奏の耳には、その声がよく入ってこなかった。
燃えた。
暖炉の灰。あの冬の炎。そして、三百年前の誰かの歌。
「早瀬さま、この歌を書いた方は、たいへんな方ですよ。縦に一つ、横に一つ、二重に名を隠しておいでです。そしてわざわざ、低音に問えとまで書いておられる」
「低音を、もっと調べてみます」
「ぜひ。わたくしも、研究所の目録を当たってみます。一七一三年と一七一四年の、サンタンジェロ劇場の写譜の記録を」
午後、奏は冴子の家を訪ねた。目白の、ひと月前に事件のあった洋館だ。
ARSI のことを話すと、冴子は写しに目を落とした。それから、書斎の机の引き出しを開け、紐でくくられた紙の束を取り出した。
「白洲さんから預かった、千尋さんの楽譜よ。手紙と一緒に入っていたの」
冴子は束の紐をほどき、何枚かをめくった。
「あった。これ」
差し出されたのは、新しい五線紙に、ボールペンで写された楽譜だった。几帳面な、丸みのある女性の字。歌の旋律と、低音だけ。歌詞は、同じ四行だった。
Arde il mio nome sull'altrui labbra——
楽譜の右上に、同じ字で小さく書き込みがあった。
——私のトランクの歌。鳴海先生より。2011年12月、合宿で。
奏は、その文字を何度も読んだ。
「千尋さんは、あの冬に、この歌を」
「自分のトランクの歌にしていたのね。鳴海先生から、あの古い楽譜を借りて、千尋さんが自分で写したんだわ」
冴子は、千尋の字を指でなぞった。それから、少しだけ顔を曇らせた。
「ごめんなさいね。昨日、あなたが先に帰ったあと、稽古場の楽屋で、白洲さんが楽譜を一枚遺したことも、千尋さんの手紙を私が預かっていることも、皆の前で口を滑らせてしまったの。中身までは話していないけれど」
奏は、小さく首を振った。冴子さんのせいではない、と言うつもりだったが、言葉にはならなかった。
冴子は、千尋の字に目を戻した。
「千尋さん、こういう昔の歌が大好きだった。誰も知らない歌を、自分だけの歌にするのが」
十五年前と、三百年前が、同じ一つの歌でつながっていた。
奏は、千尋の写した楽譜の低音を見た。ソの刻みが続いている。けれど、こちらの刻みには、弧が一本も引かれていなかった。どの小節も、弾けばきちんと八つだった。千尋は、細い弧をインクのかすれと見て、写さなかったのだろう。
あるいは、直したふりをしたのか。
夕方、目白からホールへ戻ると、稽古の休憩中だった。
楽屋口の外で、楓が一人、桜の老木を見上げていた。削られた A・M の跡は、白い生傷のまま乾きかけていた。楓は、奏に気づくと、照れくさそうに頭を掻いた。
「彫り直そうと思ってるんすよ」
「また、この木に?」
「いや、ここはもう、やめときます。誰にも見つからない木にします。庭の奥の、若いやつ。しゃがまないと見えない高さに、ちっちゃく」
楓は、ポケットの中の爪切りを、指先で鳴らした。
「杏奈さんには、内緒っすよ。言ったら、絶対止められるんで。……ガキっぽいって、自分でも分かってるんすけど」
楓は、少し黙ってから、言った。
「消されたら、また書けばいいんすよね。何回でも」
奏は、何と答えていいか分からず、ただ頷いた。休憩の終わりを告げる副指揮者の声が、楽屋口の奥から聞こえた。楓は、跳ねるように扉の中へ戻っていった。
その背中を見送りながら、奏はふと、三百年前の誰かのことを思った。消されないように、誰も覗き込まない場所に、名前を刻んだ人。消されたら書き直す人と、最初から隠して書く人。どちらが、強いのだろう。
十時を回ったホールの庭には、月の明かりしかなかった。
楓湊は、若木の前にしゃがみ込み、ポケットの中で爪切りを握っていた。杏奈さんを車まで送り、忘れ物をしたと言って、一人で戻ってきた。老木の A・M は、誰かに削られた。だったら、まだ誰も見ていない若木に、もう一度。しゃがまないと見えない高さに、ちっちゃく。指で幹をなぞり、ここだ、と決めて、爪切りのやすりの先を樹皮に当てたとき、背後で、乾いた枝が一本、折れた。
振り返ろうとした。振り返る前に、歌が聞こえた。低い声だった。ラ、ソのシャープ、ラ、シ。フォリア。誰でも知っている旋律が、すぐ後ろで、息がかかるほど近くで、気持ち悪いほどまっすぐな音程で、ラ、ソのシャープ、ラ、と鳴り、なんでフォリアなんだよ、と思ったときには、こめかみの横で何かが弾け、目の前の若木が斜めに傾き、傾いた若木の向こうで月が二つに割れ、土が頬にぶつかり、爪切りが指から離れ、離れた爪切りを探そうとした指が土を掻き、掻いた土の上で、歌はまだ続いていた。ラ、ソのシャープ、ラ、シ。立て。立てよ。膝が動かない。杏奈さん。車、ちゃんと出たかな。杏奈さん。二度目は、来なかった。代わりに、すぐそばで、何かが土から引き剥がされる音がした。一本。二本。三本。根の千切れる湿った音が、歌に合わせて、拍を刻むように続き、続き、続き、楓は、自分の上に誰かが屈み込む気配を感じた。顔は、暗くて見えなかった。見えないまま、低い声が、フォリアの最後の小節を、耳のすぐそばで歌い終えた。
それから、何も聞こえなくなった。
その夜、十一時過ぎ、奏の携帯が鳴った。久我だった。
「早瀬さん。いま、ホールにいます」
声が、いつもより少しだけ速かった。
「楓湊さんが、稽古のあと、ホールの庭で襲われました。頭を殴られて、意識がありません。救急車で運ばれました」
奏は、ベッドの上で跳ね起きた。
「楓くんが……杏奈さんは」
「無事です。楓さんは、杏奈さんを車まで送ったあと、一人でホールへ戻ったところを襲われたようです。杏奈さんがいま、病院に向かっています」
久我は、少し間を置いた。
「庭の若木が、何本も根元から折られていました。手で引き抜こうとしたように、根ごと土から浮いています」
奏は、オペラの第二幕を思い出した。恋人たちが木に刻んだ名前を見たオルランドが、狂乱して、木々をなぎ倒す場面を。
「楓さんは、庭の若木の前にしゃがんでいたようです。土に、膝の跡が残っていました。何をしていたのかは、まだ分かりません」
しゃがまないと見えない高さに、ちっちゃく。夕方の楓の声が、耳の奥で鳴った。奏は、それを口にしなかった。杏奈さんには内緒っすよ、と言った声も、一緒に鳴っていたからだ。久我の声が、さらに低くなった。
「それと」
「救急車に乗せる直前、楓さんが一度だけ、うわごとのように言いました。低い声で、フォリアを、と」
「フォリア……」
「意味が分かりますか」
「古い舞曲の名前です。スペインの。狂気、という意味もあります」
電話の向こうで、久我が黙った。
奏は、窓の外の夜空を見た。月が出ていた。冷たい、白い月だった。
低い声で、フォリアを。
誰かが、夜の庭で、狂気の歌を歌いながら、若い歌い手を殴り倒した。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




