第十話 二人の歌い手
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
一七二六年秋〜一七二七年夏 ヴェネツィア/二〇二六年十二月九日〜十日 東京・三鷹
一七二六年の秋、サンタンジェロ劇場に、マントヴァから一人の若い歌い手がやって来た。
アンナ・ジロー。まだ十六か十七に見えた。小柄で、声は低く、少しも華やかではない。けれど舞台の上で彼女が口を開くと、客席の空気がすっと引き締まった。歌うというより、歌で語る人だった。
彼女にはいつも、二十ほど年上の姉パオリーナが付き添っていた。楽屋に入り込もうとする男たちを、目つき一つで追い払う女だった。
ヴィヴァルディ師は、この姉妹を大いに気に入っていた。というより、アンナの声を。
「あの子は、わしの書いた音符を、わしの思ったとおりに歌う。いや、思った以上にだ」
「ペッリ、あの子の声部は、お前の娘に写させろ。あの子は目が悪い。それに、わしの字は読めんと、毎日文句を言う」
こうして二十五歳のマッダレーナは、アンナ・ジローの稽古用の声部を写す仕事を任された。
初めて楽屋に届けに行った日、アンナは鏡の前から振り返り、ぱっと顔を明るくした。
「あなたが、あの低音の人? 師がそう呼んでるの。ペッリの娘の低音は、太くて、まっすぐで、嘘がないって。ねえ、低音も読めるのに、どうして写すほうなの?」
「女だから」
「わたしも女だけど。歌い手だって、ずっといろんなことを言われる。司祭さまの愛人だとか、なんとか」
アンナは鏡の中の自分に向かって、べえと舌を出した。マッダレーナは、久しぶりに声を出して笑った。
ある日、アンナが稽古で舞台に上がっているあいだ、パオリーナが衣装の裾を繕いながら、顔を上げずに言った。
「あなたの工房の、背の高い、痩せた写譜師。ときどき楽屋口の外に立って、ロッシの娘の稽古を聴いている。あの人は、歌い手を見ていない。歌い手の向こうの、何か別のものを見ている」
「別のもの」
「自分の名前」
パオリーナは、糸を歯で噛み切った。
「歌い手の口から、自分の名前が出てくるのを、待っている目。ああいう目からは、離れていること」
マッダレーナは、何も答えられなかった。
舞台のほうから、アンナの低く深い声が聞こえてきた。パオリーナは繕いの手を止め、少しだけ口元をほころばせた。
ベッタ・ロッシが舞台を去ったのは、その年の暮れのことだった。パドヴァの絹商人の後妻に入るのだという。
最後の舞台のあと、ベッタは工房へ挨拶に来た。父に長年の写譜の礼を言い、職人の一人一人と握手をして、ジローラモの前で少し黙った。
「坊や。あたしのトランクの歌ね。あれ、あんたが書いたんでしょう」
ジローラモの顔から、表情が消えた。
「どこの劇場でも喝采をもらった。あの歌があったから、ここまでやってこられたの。ありがとう。トランクは、置いていくわ。もう歌わないから。あの歌は、あんたに返す」
古い革のトランクだった。蓋の内側に、彼女が歌ってきた町の名前が並び、どの名前の横にも、あの歌を歌ったという小さな印がつけてあった。
ジローラモは夜ごとそれを開けて、印を一つずつ指でなぞった。マッダレーナは、階段の途中から、何度かそれを見た。
十二の町。十二の印。
彼の歌は、十二の町で喝采を浴びた。その十二の町のどこにも、彼の名前は残っていない。
ある晩、ジローラモは、町の名前の列のいちばん下に、ペンで一つ書き足した。
ヴェネツィア。
その横に、印はつけなかった。
その夜、マッダレーナが階下へ降りていくと、ジローラモが工房の太い柱の前にいた。小刀で、柱の木肌に二つの文字を刻んでいた。
B・G。
「十年遅いね。十年前に刻んでいれば、何か変わったのかな」
「変わらなかったと思う」
言ってから、自分の残酷さに驚いた。けれどジローラモは、ほっとしたように笑った。
「君は、いつも本当のことを言う。低音みたいに」
彼は、刻み跡を指でなぞった。
「僕の歌は、もうどこにもない」
「ある。トランクの中に」
「トランクの中の歌は、死んだ歌だ。誰も歌わなければ」
マッダレーナは、彼の隣に腰を下ろした。肩と肩のあいだに、拳一つ分の隙間を空けて。
ジローラモの偽りの狂気は、もう誰の同情も引かなくなっていた。それでも、彼はときどき狂ってみせた。誰も見ていなくても。
いや、とマッダレーナは思った。
誰も見ていないところで狂ってみせるのは、もう、ふりとは呼べないのではないか。
一七二七年の夏の終わり、ヴィヴァルディ師が、珍しく自分の足で工房へやって来た。
「ペッリ。秋のシーズンの開幕は、《オルランド》だ。ブラッチョーリの台本を、もう一度やる」
父は、手を止めて頷いた。
「新しく書く。だが、昔の旋律も使う。一七一四年の《偽りの狂気のオルランド》からも、何曲か持ってくる。あのときは、客の耳が追いつかなかったんだ」
師は写譜台を覗き込みながら、ジローラモの台の前で足を止めた。
「ヴェントゥーラ。アルチーナは、ジローの娘に歌わせる。お前が写せ」
ジローラモは、ペンを置いて立ち上がった。
「師。昔の旋律、とおっしゃいましたね」
「言った。何だ」
「一七一四年の、第三幕の、あの差し込みの歌も」
「ああ、ロッシの娘の持ち歌か。あれは、いい旋律だった。誰が書いたのか知らんが」
ジローラモの指が、写譜台の縁を、白くなるほど強く掴んだ。
「……誰が書いたのか、ご存じないのですか」
「知らん。トランクの歌の出所など、いちいち覚えておらん。旋律だけ借りる。歌詞は変える。それで、わしの歌になる」
師は、次の写譜台へ移っていった。ジローラモは、立ったまま動かなかった。
マッダレーナは、自分の台から、彼の横顔を見ていた。その顔に、ゆっくりと、光が戻ってくるのが見えた。けれどそれは、喜びの光ではなかった。もっと暗く、熱いもの。
燃えはじめる前の、炭の芯の色だった。
その夜、階下の写譜台の灯は、明け方まで消えなかった。一度だけ、紙の焦げる匂いが、階段を上がってきた。
朝、彼の写譜台の端に、角だけが黒く焦げた五線紙が一枚、伏せて置かれていた。
二〇二六年十二月九日、午後十一時四十分。三鷹の救急病院の廊下は、暖房が効きすぎていた。
「意識は戻ってないそうです。いまは眠ってるだけだって」
自分が自販機の缶コーヒーを差し出すと、警部補は受け取らずに、処置室の扉を見たまま頷いた。
楓湊、二十六歳。カウンターテナー。午後十時十五分ごろ、ホールの庭で頭を殴られて倒れていた。植えたばかりの若木の根元に、しゃがみ込んだような格好で。あんな時間に、誰にも言わずに、何をしていたのか。
処置室から出てきた当直医が、立ち話で言ったことを、手帳の端に書きとめてあった。もう一度読み返す。傷は側頭部から上へ向かって走っている。殴られたとき、頭の位置が低かった可能性。立っている人間を後ろから殴った傷とは、角度が合わない。
「……これ、自分でやったって線、ありますかね」
口にしてから、自分でも嫌な言い方だと思った。
「所見が出るまで待て」
警部補は処置室の扉から目を離さずに、それだけ言った。
「見舞いに来た人間は、全員控えておけ。名前と時刻」
自分は、手帳を開いた。
腕時計を見て、それから廊下の突き当たりの壁の時計を見た。壁の時計のほうが、三分ほど進んでいた。どちらで書くか、少し迷って、自分の腕時計にした。時計なんて、どれも少しずつずれている。ずれているなら、せめて一つに揃えておけばいい。
最初の一行は、もう埋まっていた。二十三時五分、朝霧杏奈。受付の記録だった。杏奈さんは、処置室の前の長椅子の端に座り、膝の上でハンカチを畳んだり、広げたりしていた。コートの下は、稽古着のままだった。
「湊くん、車まで送ってくれたんです。忘れ物したって、戻っていって。私、止めればよかった」
誰にともなく、そう言った。自分は、何と返せばいいのか分からなかった。だから、はい、とだけ言って、手帳に書いた。忘れ物。
零時十分、氷室冴子。タクシーで来て、杏奈さんの隣に座り、肩を抱いて、何も言わずに三十分ほどいた。帰りぎわ、自分に、あの子をお願いね、と言った。お願いされても、自分は刑事で、看護師ではない。それでも、はい、と言った。
零時三十五分、葛城遼。
黒い長いコートの襟を立てていた。副指揮者さんを吉祥寺まで送って、家に戻ったところで、杏奈さんから連絡をもらったのだという。
葛城さんは、まず杏奈さんの前に膝をつき、目の高さを合わせた。
「大丈夫。楓くんは、強い子だよ」
それから立ち上がって、自分のほうを向いた。
「刑事さん。楓くんは、何か話せましたか」
「いえ。まだ、眠ってます」
「そう」
葛城さんは、処置室の扉を見た。ほんの少しだけ、長く見ていた気がした。それから杏奈さんの隣に腰を下ろし、自分のコートを脱いで、彼女の膝に掛けた。
「病院の廊下は、暖かすぎて、かえって冷えるからね」
自分はさっきから、暑い暑いと思って、上着の前を開けていた。
手帳に、葛城遼、と書き、その下に、何か話せたか、と書いた。杏奈さんは、湊くんは大丈夫なんですか、としか訊かなかった。冴子さんは、何も訊かなかった。三人目で、初めてその質問が出た。歌い手の仲間なら、当たり前の心配だ。自分は、そう思って、ページをめくった。
警部補は、壁にもたれたまま、一度だけ葛城さんのほうを見た。何も言わなかった。
一時を過ぎて、葛城さんは帰った。杏奈さんを送ると言ったが、杏奈さんは首を振った。
自分は、三行を読み返した。最初の一行は受付の時計、あとの二行は自分の腕時計だ。どの時計で書いたかだけは、確かだった。
明け方、病室を覗くと、楓さんは小さく寝息を立てていた。いつもの「っす」という軽い口調が嘘のように、幼い寝顔だった。
布団の端から出た右手が、何かを握り込んでいる。指の隙間から、湿った黒い土が、ほんのひと粒こぼれていた。
看護師の話では、運び込まれたときから、その手だけは一度も開かなかったという。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




