第十一話 割れた蓋
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月十日 東京・三鷹/中野
楓湊は、明け方に意識を取り戻した。
頭蓋骨に細いひびが入っていたが、脳に出血はなかった。三日は絶対安静、本番に出られるかどうかは分からない。医師はそう言った。病室の前の長椅子で、杏奈は夜通し座っていた。奏が朝いちばんに駆けつけたとき、杏奈は泣き腫らした目で、それでも微笑んでみせた。
「起きたら、最初に、喉は無事かって訊いたんです。湊くん」
「楓くんらしいね」
「バカでしょう」
杏奈はそう言って、また泣いた。
病院の廊下の自販機の前で、奏は杏奈と並んで、紙コップのココアを飲んだ。
杏奈の手の中で、紙コップが小刻みに揺れていた。目の下に青い影ができている。
「奏さん。私、あの冬のこと、ほとんど覚えてないんです」
杏奈は、ココアの表面を見つめながら言った。
「叔母が亡くなったとき、私、十四歳でした。お葬式で、母がずっと泣いてて。叔母の写真が、すごくきれいで。それしか覚えてない。叔母がどんな声で歌ってたのかも、ちゃんと聴いたことがなかったんです。いつか聴けると思ってたから」
「杏奈さんの声は、千尋さんに似てるって」
「皆、そう言います。でも、私には分からない。比べられないんです。叔母の声を、知らないから」
杏奈は、紙コップを両手で包み直した。
「だから、ときどき怖くなるんです。私が歌うと、皆、私の向こうに叔母を聴いてる。柘植さんも、葛城さんも、白洲さんも。私が誰なのか、誰も見てないみたいで」
「楓くんは」
奏が言うと、杏奈は、初めて少しだけ笑った。
「湊くんは、叔母のことなんか知らないんです。十五年前、あの子、十一歳ですよ。私の声を聴いて、いきなり、杏奈さんの声、雨上がりみたいっすね、って」
「雨上がり」
「意味分かんないでしょう。でも、私、嬉しかったんです。叔母の声じゃなくて、私の声のことを言ってくれたのが」
杏奈は、紙コップの底に残ったココアを、ゆっくり飲み干した。
病室の中で、楓は包帯を巻いた頭を枕に沈め、天井を見ていた。奏に気づくと、目だけを動かした。
「早瀬さん。すいません、心配かけて」
「謝らないで。犯人、見た?」
「見てないっす。庭で、立ってたら、後ろから、いきなり。倒れたあと、誰かが上から覗き込んでた気がするけど、顔は暗くて」
楓は、ゆっくりと瞬きをした。
「歌ってたんですよ、そいつ。低い声で。フォリアの、あの、誰でも知ってる旋律。ラ、ソのシャープ、ラ、シ、って。……俺、殴られながら、なんでフォリアなんだよって思ってました。マジで」
「低い声って、どれくらい」
「低かったっす。男の、地声の、低いとこ。俺らみたいな高い声じゃなくて」
楓は、少し顔をしかめた。
「柘植さんの声に、似てた気もする。でも、分かんないっす。頭、ぐらぐらしてたし」
「音程は、合ってた?」
楓は、少し考えた。
「合ってました。気持ち悪いくらい、まっすぐ。……酔っ払いの鼻歌じゃなかったっす、あれ」
午後、旧鳴海記念ホールで、稽古が続けられた。
楓のいない稽古場は、どこか空気が薄かった。メドーロのパートは、副指揮者が口で歌って代わりを務めた。葛城は、いつもと変わらず静かだった。休憩のたびに杏奈のそばへ行き、二言三言、何かを話しかけていた。杏奈は、そのたびに小さく頷いていた。
第三幕の通し稽古が始まって、まもなくのことだった。客席の後方の扉が、勢いよく開いた。
「やめろ。やめろって言ってんだよ」
柘植だった。
ネクタイを緩め、上着を片腕に引きずっている。足元がおぼつかない。昼間から相当飲んでいるのは、遠目にも分かった。
柘植は通路をよろよろと下りてきて、舞台の前に立った。指揮台の脇のチェンバロに手をつき、杏奈を見上げた。
「杏奈、帰るぞ。こんなとこにいたら、お前も殴られる」
「柘植さん、稽古中です」
副指揮者が、困ったように言った。
「稽古? 稽古なんかしてる場合か。白洲は死んだ、若いのは殴られた。次は誰だ。杏奈か。ふざけんな」
柘植の声が、ホールの高い天井に響いた。
「白洲は俺から全部奪ったんだ。千尋も、鳴海の爺さんの信用も。十五年前からずっとだ。今度は、杏奈まで取られてたまるか」
柘植は、唾を吐くように続けた。
「白洲の野郎、ソルだかなんだか知らねえがな、灰に字なんか書きやがって。最後の最後まで、気取りやがって」
奏は、息を止めた。灰の三文字の中身は、警察と自分しか知らないはずだった。
杏奈が、舞台の上で身をすくめた。
奏はチェロを膝に抱えたまま、動けなかった。指揮台のすぐ脇、通奏低音の席から、柘植の顔がよく見えた。赤く濁った目。こめかみに浮いた血管。柘植は、チェンバロの蓋に手をかけた。
「こんなもんが、何だってんだ」
止める間もなく、副指揮者が腰を浮かせたときにはもう柘植の両腕が頭の上まで上がっていて、花の絵を描いた重い蓋が、天井の照明を一瞬だけ照り返し、次の瞬間には全身の重さを乗せて振り下ろされ、木の裂ける音と、蝶番の金具が弾け飛ぶ音と、張りつめた弦が何本もいっぺんに悲鳴を上げる音とが、一つの和音になって稽古場の高い天井まで叩きつけられ、その残響がまだ鳴りやまないうちに、柘植はもう一度、裂けた蓋を持ち上げようとしていた。
稽古場の全員が、息を止めた。
柘植は、蓋から手を離し、少しのあいだ呆然としていた。それから、急に笑い出した。
「ははっ。なんだよ。オルランドの真似か、俺は」
彼は、外れた音程で、何かを歌いはじめた。ラ、ソのシャープ、ラ、シ。フォリアの旋律だった。調子外れの、がなり声で。けれど、最後のラだけが、妙に正確に、まっすぐ鳴った。若いころ、本気で声楽をやっていた人の喉だ、と奏は思った。
「さあ奥様、オルランドの狂気を踊りましょう、ってな。台本に書いてあんだろうが。稽古で毎日聞かされりゃ、頭から離れねえ。ラ、ラ、ララ」
柘植は、チェンバロの前で、よろめきながら踊ってみせた。片足で跳ね、くるりと回り、転びそうになって、譜面台を倒した。楽譜が床に散らばった。
奏は、自分の指がチェロの弦を握りしめているのに気づいた。
低い声で、フォリアを。
昨夜、楓が言った言葉が、頭の中で鳴っていた。
そのとき、舞台の袖から、葛城が下りてきた。
ゆっくりとした足取りだった。走りもせず、声も上げず、まるで稽古の段取りを確かめに来たかのように、柘植の前まで歩いていった。
「柘植さん」
葛城は、柘植の腕にそっと手をかけた。
「外の空気を吸いに行きましょう。少し、寒いですけど」
柘植は、葛城の手を振り払おうとした。けれど葛城は、離さなかった。強く掴んでいるようには見えないのに、柘植の腕は、葛城の手の中から抜けなかった。
「離せ、この」
「大丈夫ですよ。誰も、あなたから杏奈を取ったりしません」
葛城の声は、低く、穏やかだった。柘植の肩から、ふっと力が抜けた。
「俺はね、千尋の声の、いちばん低いとこが好きだったんですよ」
柘植は、誰にともなく呟いた。
「誰も褒めない、あの擦れたとこがね」
葛城は柘植を支えるようにして、客席の通路を上っていった。後方の扉が閉まるまで、稽古場の誰も、口を開かなかった。
しばらくして、杏奈が舞台の上で、その場にしゃがみこんだ。冴子が駆け寄り、その肩を抱いた。
奏は、床に散らばった楽譜を拾い集め、頁の順に揃え直した。一枚ずつ、番号を確かめながら。
裂け目が、蓋の内側の花の真ん中を、斜めに走っていた。
夕方、久我が三浦を連れて稽古場にやって来た。安西が通報したのだった。
柘植は、ホールの裏の駐車場で、自分の車の運転席に座り込んでいるところを見つかった。葛城がそこまで連れていき、自販機の水を買って渡し、そばにいたのだという。僕は、本番の三週間前からは水だけなんです、柘植さんも今日はこれで、と言って、自分も同じ水を飲んでいた。安西が、裏口の窓からそれを見ていた。柘植は、器物損壊について事情を聞かれたが、ほとんど何も覚えていないと言った。
稽古が終わったあと、奏は楽屋口の外で、久我と並んで立っていた。冬の日は、もうとっぷりと暮れていた。桜の老木の黒い幹が、外灯の光の中に浮かんでいる。削られた A・M の跡が、白く生々しかった。
奏は、柘植が口にした言葉を、そのまま久我に伝えた。ソルだかなんだか、と。久我の目が、わずかに細くなった。
「楓さんの証言と、今日の柘植さんの様子は、一致しています」
久我は、桜の幹を見たまま言った。
低い声で、フォリアを歌う男。あの火事の夜、隣の部屋にいて、窓から逃げた男。千尋に執着していた男。久我は、黙ったまま、指を一本ずつ折っていった。何かを数えているように見えた。
「灰の字を、ソルと読んだ男」
最後の一つだけを、声に出した。
「柘植さんが、二日の夜に何をしていたのか。もう一度、洗い直します」
楽屋口の扉が開いて、三浦が手帳を手に出てきた。
「警部補。病院から、楓さんの傷の正式な所見が来ました。昨夜の当直医の見立てどおりです。傷の向きが、横から斜め上なんです。立ってる人を後ろから殴ったら、普通は上から下でしょう。頭を前に垂れて、低い姿勢でいたなら、こうなるって。楓さん、立ってたって言ってるんですけど」
奏は、何も言わなかった。言えば、楓との約束を破ることになる。
「しゃがんでたってことか、本人が嘘をついてるか……」
三浦は、独り言のように言って、頭を掻いた。
「……楓さん、話す声、けっこう低いですよね」
「たいてい、そうです。地声はバリトンの人が多いので」
奏は言った。言ってから、自分の声が硬くなっているのに気づいた。
三浦は、手帳をめくった。
「それと、九日の夜の、皆さんの所在です。楓さんが襲われたのは、十時十五分ごろ。葛城さんは、稽古のあと副指揮者さんを吉祥寺まで車で送ってます。副指揮者さんの腕時計で十時十分に着いた、と本人も言ってます。前の晩、知り合いの通夜から帰って、時計を合わせ直したばかりだったから正確だ、とも。ホールまでは車で十五分ですから、間に合いません」
「もう一つ。警部補のお父さんの調書にありました。柘植さん、若いころは声楽をやってたそうです。バリトンで、鳴海さんのところへも、最初は弟子として来たって」
三浦は手帳を閉じ、それから、奏のほうへ向き直った。
「早瀬さん、ついでに一つ。自分、このオペラの筋がまだよく分かってなくて。オルランドって、最後どうなるんですか」
「第二幕で狂います。第三幕では、服を脱ぎ捨てて現れる。狂ったまま、フォリアで踊るんです。最後には、正気に戻りますけど」
「服を、脱ぎ捨てて」
三浦は、手帳にそれを書きつけた。奏は、頷いた。
頷きながら、どこか釈然としないものが、胸の底に沈んでいた。何が釈然としないのかは、自分でも分からなかった。柘植の、あの赤く濁った目。調子の外れたフォリア。あれは、本当に人を殺した人間の目だったのだろうか。
「久我さん」
「はい」
「狂っている人は、自分が狂っていると、分かるものなんでしょうか」
久我は、少しのあいだ考えていた。
「分かりません。ただ」
彼は、外灯の光の外の、暗い雑木林のほうへ目をやった。
「狂気は、アリバイにもなります。量刑にもなる。刑事は、それを一度は疑います」
久我は、奏のほうへ顔を向けた。
「今日の柘植さんは、本物でしたか」
奏は、答えられなかった。
あのとき、柘植の腕を取った葛城の手のほうを、なぜか思い出していた。強く掴んでいるようには見えないのに、決して離れなかった手。
あの夜、煙の中で自分を抱え上げた腕も、あんなふうに確かだった。
その夜、奏は、自宅でチェロを弾いた。
バッハの無伴奏組曲の、最初の前奏曲。何も考えずに弾ける曲だった。
十七歳の冬の合宿にも、チェロを持っていった。
あの火事の夜、楽器は一階の客間の、布団の脇に寝かせてあった。葛城に抱え出されたとき、奏はチェロのことを忘れていた。翌朝、焼け跡から、ケースごと真っ黒に焦げた楽器が見つかった。表板は割れ、ネックは折れていた。
いま弾いているのは、そのあとで両親が無理をして買ってくれた、二台目のチェロだった。
前奏曲の最後の和音を弾き終えて、奏は弓を下ろした。
音程は、合っていた。気持ち悪いくらい、まっすぐ。
楓の言葉と、今日の稽古場のがなり声が、どうしても重ならなかった。けれど、若いころ声楽をやっていた人なら、酔っていなければ、音程は外さないのかもしれない。
あるいは、外してみせたのか。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




