第十二話 灰が少ない
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月十一日 東京・調布/三鷹/吉祥寺
久我の実家は、調布の多摩川べりの古い住宅地にあった。
小さな平屋で、庭に柿の木が一本立っている。母は二年前から施設に入っていて、家は無人だった。月に一度、久我が風を通しに来るだけだという。玄関の引き戸を開けると、冷たい埃の匂いがした。
「散らかっていますが」
久我はそう言って、奏を奥の六畳間に通した。壁一面に、本棚が並んでいた。法律の本、警察の教本、それに、なぜか古い時代小説の文庫がぎっしりと。
「父の部屋です。死んでから、ほとんど手をつけていません」
本棚の下段に、黒い布張りの手帳が何十冊も、背を揃えて並んでいた。久我は迷わず一冊を抜き出し、座卓の上に置いた。背に、白いラベルで「平成二十三年 十一月〜十二月」と書かれている。
「捜査の手帳です。調書とは別に、父はいつも自分の手帳をつけていました。調書に書けないことを書く、と言って」
久我は手帳を開き、ある頁で手を止めた。それから、奏のほうへ向けて差し出した。
几帳面な楷書だった。七の字に、横棒が二本引かれている。
——十二月十一日。鳴海邸。書斎跡。
——灰が少ない。楽譜の束が燃えた量ではない。
——鳴海氏は書斎に古楽譜を多数所蔵との証言あり(白洲)。うち、ヴェネツィアの古い写本一冊、特に大事にしていたと。その写本の燃え殻、見当たらず。
——書斎の茶器二客。底に白い沈殿。鑑定は不要と言われる。
——柘植、盆から蜂蜜と生姜の匂いがした、と。
——十時過ぎ、鳴海邸下の坂に、白いコートの女の人影。近所の証言。身元不明。
奏は、その行を何度も読んだ。
「燃えたはずの写本が、燃えていなかった……」
「父は、そう疑ったんだと思います」
久我は、次の行を指でさした。
——裏庭の防火水槽、蓋に動かした跡。雪の上に擦れ。誰が、いつ。
——十二月十二日。府中の病院にて、少女(早瀬)より聴取。
——少女の証言:火の前に、二階で誰かが低い声で、スペインの古い歌を歌っていた。旋律は知っている、名前は思い出せない、と。
——要再聴取。
——十二月二十日。白洲氏宅。水槽の件を話す。氏、黙して答えず。
——事故として処理の決定、本日。再捜査の権限なし。水槽、自ら開けず。白洲氏に託す。
奏は、手帳から目を上げた。
「私、そんなことを話したんですか」
「覚えていませんか」
「覚えていません。病院で、優しい刑事さんに何か話したことは覚えています。でも、何を話したのかは」
奏は、もう一度その行を読んだ。
火の前に、二階で誰かが低い声で、スペインの古い歌を。
スペインの古い歌。
フォリアだ。
あの夜、奏は一階の客間で眠っていた。夜中に、喉が渇いて目を覚ました。廊下に出て、台所へ水を飲みに行こうとした。そのとき、階段の上から、歌が聞こえた。低い、男の声。囁くような、口ずさむような。ラ、ソのシャープ、ラ、シ。
これまで、どこにしまわれていたのか分からない記憶が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
歌は、すぐにやんだ。奏は水を飲み、客間に戻って、また眠った。
次に目を覚ましたときには、部屋は煙で満ちていた。
「思い出しました」
奏は言った。声が、自分のものではないように聞こえた。
「二階から、フォリアが聞こえたんです。火の前に。低い男の人の声で」
久我は、奏の顔から目を離さなかった。
「父は、それを書き留めたまま、確かめなかった」
久我は手帳の頁に手を置いた。
「要再聴取。そのあとは、白洲さんを一度訪ねた記録が一行あるだけで、再聴取はしていない。父はこの翌年、退職しました。理由は言いませんでした。でも、この四文字を、死ぬまで気にしていたんだと思います」
奏は、久我の手を見ていた。大きな、節の目立つ手だった。父親の字の上に、そっと置かれている。
「お父さんは、間違えていなかったんですね」
「まだ、分かりません」
久我は、手帳を閉じた。
「でも、間違えていなかったかもしれない。十五年経って、ようやくそう言えるところまで来た」
帰り際、久我は六畳間の押し入れから、一冊の古いアルバムを出してきた。
「これを、見せておきたかったんです」
アルバムの最後の頁に、一枚の写真が貼られていた。警察署の前で撮られた、制服姿の集合写真。前列の端に、背の低い、がっしりとした体つきの男が立っていた。短く刈り込んだ白髪交じりの頭。口を真一文字に結び、カメラをまっすぐに見ている。
「父です。退職の日に撮ったものです」
奏は、その顔をじっと見た。
覚えている、と思った。あの冬、病院のベッドの脇の丸椅子に座り、手帳を膝に載せて、ゆっくりと話を聞いてくれた人。怖かったね、と最初に言った人。焦らなくていいよ、思い出したことだけでいい、と。
「優しい方でした」
奏は言った。
「私、あのとき、ほとんど何も話せなかったんです。でも、お父さんは、急かさなかった。私が何か言うたびに、一つずつ、ゆっくり書いていて。七の字を、二回線を引いて」
久我は、写真の父の顔に、目を落としていた。
「父は、あなたの話を、もう一度聞きに行くつもりだったんだと思います」
久我は、アルバムを閉じた。
「要再聴取。その四文字を書いたとき、父は、確かめるつもりだった。でも、確かめる前に、事件は事故として閉じられた。父は、それに逆らわなかった。逆らえなかったのかもしれない。……私は、父がそういう刑事だったことを、責める気にはなれません。ただ」
久我は、言葉を切った。
「十五年遅れて、その再聴取を、私がしている。それだけは、父に伝えたかった」
焼け跡へ向かう前、奏は、隣のホールの楽屋口で、休憩中の冴子に会った。奏は桜の老木の下で、久我の父の手帳のことを手短に話した。火の前に、二階で誰かが低い声でフォリアを歌っていた、と。楽屋口の扉は開いたままで、廊下を、着替えた歌い手たちが行き来していた。
「それ、早く久我さんに言いなさい。……そう。久我さんも、もう知ってるのね。ならいいわ。恭介さんは、昔からそうなの。大事なことほど、人に言わないで、一人で抱えて」
冴子はそう言って、奏の肩のゴミを払い、楽屋口へ戻っていった。
白洲の名を呼ぶ冴子の声が、ほんの少しだけ、柔らかかった。
その日の午後、奏と久我は鳴海邸の焼け跡を訪ねた。日向早苗が、先に来て待っていた。
焼け跡は、低い生垣に囲まれた、草ぼうぼうの空き地になっていた。家の土台の石だけが、ところどころに残っている。裏庭の隅に、コンクリートの四角い防火水槽が、苔をまとって沈んでいた。
日向は、久我から父の手帳の写しを受け取り、唇を動かしながら読んだ。それから、奏の顔をじっと見た。
「やっぱりや」
「え?」
「あんたやろ。十五年前、救急車の前で、毛布にくるまって震えとった子」
奏は目を見開いた。
「うち、あの晩、ここにおったんよ。消防に入って三年目の、下っ端の隊員やった。あんたが運び出されてきたとき、毛布かけたん、うちや」
日向は、少し笑った。それから、焼け跡の土台のほうへ目をやった。
「あの晩の火は、気持ち悪かった。二階の書斎から出た火にしては、回りが速すぎた。うちの上の人らは、古い木造やからって片づけてしもたけど」
日向は、久我のほうを見た。
「あんたのお父さんだけは、最後まで放火を疑うとった。上から止められて、報告書には書けんかった。止めたんは、当時の三鷹署の係長や。いまは、本庁の管理官になっとる人や。せやけど、焼け跡の写真だけは、自分の金で全部焼き増しして、持って帰りはったんや」
「父の手帳には、灰が少ないとあります」
久我が言った。
「書斎に大事な写本があったはずが、燃えた跡がなかった」
「せやろな」
日向は、頷いた。
「紙の束が、ほんまに書斎で燃えたんやったら、背の部分の糊とか、綴じ糸の焦げたんとか、何かしら残るもんや。それが無かったんやったら、写本は火の前に、誰かが持ち出したんやろ」
日向は焼け跡の土台を歩き、二階の書斎があったあたりで足を止めた。
「ほんで、白洲さんの暖炉で燃やされたんは、コピーやった。誰かが、あの夜に持ち出した写本を、まだ持っとる。燃やした人間は、写本を燃やしたつもりで、コピーを燃やした。本物は、まだどこかにある」
久我は、焼け跡の草の上に立ったまま、低く言った。
「十五年前の夜、二階にいて、生き延びた者は」
手帳を開くまでもなかった。奏も、もう覚えていた。
二階の客間にいた、葛城遼。二階の事務室にいた、柘植圭吾。
「葛城さんは、煙に気づいて真っ先に一階へ下りて、この子を助けたんや」
日向が言った。
「それは、うちも見とる。あの人、自分も火傷しながら、あんたを抱えて玄関から飛び出してきたんよ。誰かが救急車まで運ぼうとしても、離さんかった。救急車の前で、二階の窓を見上げて、何か一つの名前を、何度も繰り返しとったわ」
奏は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「柘植さんは」
「窓から屋根に出て、雨樋を伝うて下りたらしい。うちが見たときには、もう庭の隅で煙草吸うとった。ほかに人がおるのに、誰にも何も言わんと」
日向の声に、かすかな棘があった。
「その人、隣の書斎で人が焼けとるのに、悲鳴一つ聞いてへんて言うたんやろ。ほんまかいな、て思たわ」
三人のあいだに、冷たい風が吹いた。
奏は、焼け跡の向こうの、ホールの屋根を見上げた。灰色の空の下に、古い木造の屋根が、黒々と横たわっていた。
あの夜。二階で、低い声でフォリアを歌っていた男。
十二月九日の夜。ホールの庭で、低い声でフォリアを歌いながら楓を殴った男。
昨日の稽古場で、調子外れのフォリアをがなり立てて、チェンバロの蓋を割った男。
焼け跡を出る前に、久我が一言だけ言った。白洲さんの家の門扉と、玄関に倒れていた自転車のハンドルから、柘植さんの指紋が出ました、と。
三つの声が、奏の頭の中で、一つに重なろうとしていた。
日向が、焼け跡の生垣の向こうから声を張った。
「早瀬さん、吉祥寺の駅まで送ったるわ。車、表に回しとくで」
日向の車は古い軽自動車で、助手席の足元に、消防の資料のファイルが山積みになっていた。日向は、それを後部座席へ乱暴に放り投げてから、奏を乗せた。
「堪忍な、散らかっとって」
「いえ」
井の頭通りの渋滞の中で、日向は、ハンドルを指でとんとんと叩きながら言った。
「うちな、あの晩のあと、しばらく夢に見たんよ。あんたが毛布にくるまって震えとる顔。歯がかちかち鳴っとって、うちが何言うても、ずっと二階のほう見とった」
「二階を」
「せや。燃えとる二階の窓を、じっと見とった。誰か探しとるみたいに。救急隊の人が、もう行くでって言うても、首を振って」
奏は、膝の上で両手を握った。覚えていなかった。そのときの自分が、二階の窓に何を探していたのか。
「あれは、千尋さんを探しとったんかな、て、ずっと思とった」
日向は、前を向いたまま言った。
「二階で歌うとった誰かを、探しとったんかもしれんな。今日の話を聞いて、そう思たわ」
信号が青に変わり、車の列がのろのろと動き出した。
奏は、窓の外を流れていく冬の街を見ていた。
低い声で、フォリアを。三つの声は、奏の頭の中で、まだ鳴りやまなかった。
そのうちの一つの声を、どこかで、一度聞いたことがある。そんな気がしてならなかった。
吉祥寺の駅は、夕方の人混みで膨らんでいた。
日向の車を降り、奏は改札へ続く階段を上った。チェロケースの肩紐が、いつもより重く感じた。階段の半ばで、背中に、誰かの手のひらが当たった。
押された、と分かったのは、体が前へ傾いたあとだった。
とっさに手すりを掴んだ。チェロケースの角が段に当たり、鈍い音を立てた。膝が、一段下の縁を打った。
振り返った。
人の流れの中に、黒いコートの背中が一つ、階段を下りていくのが見えた。襟を立てていた。顔は見えなかった。背中は、すぐに人混みの中へ溶けた。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




