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第十三話 名前の鳴る夜

 低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。

 けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。

 三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。

 十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。

 そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。

 S、O、L。

 これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。

 どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。

 数え間違えれば、また誰かが燃える。

一七二七年十一月 ヴェネツィア・サンタンジェロ劇場


 初日の夜、サンタンジェロ劇場の客席は、蝋燭の熱と人いきれで、真冬だというのに汗ばむほどだった。

 マッダレーナは、天井桟敷のいちばん奥の、柱の陰に立っていた。写譜師の家の者が、ただで潜り込める場所はそこしかない。手すりの向こうに、平土間の客の頭が波のように揺れていた。仮面をつけた貴族たち、ゴンドラ漕ぎ、商人の女房、外国から来た旅行者。ヴェネツィアの劇場は、身分も国も問わず、誰でも呑み込む。

 舞台の前の、一段低くなった場所に、楽師たちが並んでいた。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、二台のチェンバロ。そして、その真ん中に、赤毛の司祭が、自分のヴァイオリンを抱えて立っていた。

 ヴィヴァルディ師は、弓の先を軽く上げた。序曲が始まった。

 速い。とにかく速かった。弦の刻みが、客席の空気を一気に引き裂いていく。平土間のざわめきが、波が引くように静まっていった。マッダレーナは、自分が写した低音が、コントラバスの太い音になって床を震わせるのを、足の裏で感じた。

 幕が上がると、そこは魔女アルチーナの島だった。

 物語はブラッチョーリの台本どおりに進んだ。アンジェリカとメドーロの恋。魔女に心を奪われるルッジェーロと、彼を取り戻そうとする女騎士ブラダマンテ。アルチーナに恋い焦がれるアストルフォ。そして、アンジェリカを愛するあまり、少しずつ正気を失っていくオルランド。

 アンナ・ジローのアルチーナは、驚くほどよかった。

 小柄な体のどこから出るのかと思うほど、低く、深い声で、魔女の甘言と怒りを歌い分けた。歌の言葉が、天井桟敷のいちばん奥まで、くっきりと届いた。客席のあちこちから、溜め息が漏れた。

 第一幕の終わり近く、ルッジェーロのアリアが始まった。

 楽師たちの列から、一本の横笛が立ち上がった。この夜のオペラで、独奏を受け持つ楽器は、この笛一本だけだった。弱音器をつけたヴァイオリンが柔らかく和音を敷いた。その上を、笛の音が、甘く、ゆるやかに漂っていく。魔女の魔法に心を絡め取られた騎士が、とろけるような声で歌う。

 Sol da te, mio dolce amore——

 ただあなたからだけ、私の甘い恋人よ。

 マッダレーナは、柱にもたれて、目を閉じた。美しい歌だった。美しすぎて、少し怖いほどだった。

 幕間に、マッダレーナは天井桟敷の階段を下り、劇場の裏の楽屋口の路地に出た。

 冬の夜気が、汗ばんだ首筋に冷たかった。路地には、出番を待つ道具方や、煙管をくわえた楽師たちがたむろしていた。誰かが、司祭さまの今夜の機嫌は最高だ、と笑っていた。序曲の速さを見たか、あれで弦を切ったのが三人もいるぞ、と。

 楽屋口の扉が開き、パオリーナが顔を出した。マッダレーナを見つけると、手招きをした。

 「アンナが、あなたに会いたいって」

 狭い楽屋の中で、アンナはアルチーナの衣装のまま、鏡の前に座っていた。白粉の下の頬が、興奮で上気していた。

 「聴いてくれた? わたしのアルチーナ」

 「聴いた。天井桟敷のいちばん奥まで、言葉が全部届いた」

 「ほんと?」

 アンナは、ぱっと顔を明るくした。

 「それとね、あなたの写した声部、下の低音の段まで読みやすいの。刻みの数まで、数えたくなるくらい。どうして?」

 マッダレーナは、答えずに笑った。アンナは、急に声を落とした。

 「ねえ、第三幕のルッジェーロのアリア、あれ、誰が書いたか知ってる? 師が、古い旋律を借りたって言ってたの。とても哀しい旋律。稽古で初めて聴いたとき、わたし、泣いちゃった」

 マッダレーナは、少しのあいだ黙っていた。

 「昔、ある歌い手が、トランクに入れて持ち歩いていた歌」

 「その歌い手が書いたの?」

 「いいえ」

 アンナは首を傾げ、続きを待った。マッダレーナは、それ以上言わなかった。

 パオリーナが、出番よ、と妹の肩を叩いた。アンナは立ち上がり、衣装の裾を翻して楽屋を出ていきながら、振り返って言った。

 「いつか、教えてね。誰の歌なのか」


 第二幕の終わり、オルランドの狂気が始まった。

 恋人たちが木に刻んだ名前を見つけたオルランドは、剣を抜き、木々をなぎ倒し、叫び、歌った。燃えているのはオルランド、いや、オルランドは死んだ。客席は息を呑んで、男装の歌い手の狂乱を見つめていた。ヴィヴァルディ師は、オルランドが狂いを深める箇所で、弦をすべて黙らせ、低音だけを鳴らした。歌い手の声と、チェロとチェンバロの和音だけ。絶望の頂点で、弦が一斉に戻ってくる。マッダレーナは、背中の皮膚が粟立つのを感じた。

 第三幕では、狂ったオルランドが、裸に近い姿で舞台に現れた。早口の、言葉の洪水のような語りの途中で、楽師たちが、急に古い舞曲を弾きはじめた。

 ラ、ソのシャープ、ラ、シ。

 フォリアだった。

 スペインの古い舞曲。狂気という名の舞曲。客席の何人かが、それに気づいて笑った。オルランドの狂気を、フォリアで踊る。洒落の分かる客には、たまらない趣向だった。

 そして、第三幕の、ある場面の終わり。

 ルッジェーロが、嵐のような騎士の決意を歌い終えたあと、舞台の上がしんと静まった。楽師の列の低音が、同じ音を、速く、激しく、叩きはじめた。

 ソ、ソ、ソ、ソ、ソ、ソ、ソ、ソ。

 マッダレーナは、柱から身を起こした。

 知っている。この刻みを、自分は知っている。

 その上に、歌が乗った。

 旋律は、十四年前の冬の夜、工房の階下で聴いたものと、同じだった。哀しく、ゆっくりと、上へ上へと昇っていく。怒りの刻みと裏腹に、泣いているような旋律。

 けれど、歌詞が違った。

 あの四行ではなかった。ブラッチョーリの台本の、騎士の別れの詩が、その旋律に載せられていた。歌っているのは、ベッタではない。ルッジェーロを歌うカストラートだった。

 旋律だけ借りる。歌詞は変える。それで、わしの歌になる。

 夏の終わりに、工房で師が言った言葉が、そのまま耳の中で鳴っていた。

 歌が終わった。

 一瞬の静寂のあと、客席が割れんばかりの喝采に包まれた。平土間の客が立ち上がり、桟敷の貴族たちが扇を打ち鳴らし、天井桟敷のゴンドラ漕ぎたちが口笛を吹いた。舞台の前で、赤毛の司祭がヴァイオリンを掲げ、客席に向かって深々と頭を下げた。

 ブラーヴォ、ヴィヴァルディ。

 ブラーヴォ、プレーテ・ロッソ。

 劇場じゅうに、一つの名前が鳴っていた。その名前の渦の中で、ジローラモの名前を呼ぶ者は、一人もいなかった。ルッジェーロのアリアの旋律を、どこの誰が最初に書いたのか、この劇場の誰も知らなかった。歌っていた歌手でさえ。

 マッダレーナは、喝采の渦の中で、天井桟敷の反対側の隅を探した。

 いた。

 ジローラモが、柱の陰に立っていた。十三年前と同じ場所に。

 彼は、拍手をしていなかった。笑っていた。

 最初は、口の端が少し上がっただけだった。それが、だんだん大きくなっていった。肩が震え、体が折れ曲がり、彼は柱に手をついて、声を上げて笑い出した。周りの客が、怪訝そうに彼を見た。誰かが、酔っ払いだ、と言った。

 喝采がやまないあいだ、ジローラモは、ずっと笑い続けていた。

 天井桟敷の端と端。そのあいだには、口笛を吹くゴンドラ漕ぎたちの背中が、何重にも並んでいた。笑い声は、喝采にかき消されて、マッダレーナのところまでは届かなかった。ただ、肩が揺れているのだけが見えた。


 終演後、マッダレーナは楽屋口へ回った。

 狭い路地に、歌い手を待つ贔屓の客たちが群がっていた。その人混みの外れ、運河に下りる石段の上に、ジローラモがしゃがみこんでいた。

 足元に、紙の束が置かれていた。マッダレーナには、それが何か、すぐに分かった。十四年前に彼が書き、ベッタのトランクに入っていた歌の、写しの束だった。ベッタが置いていったトランクから、彼が取り出して、大事に持っていたもの。

 ジローラモは、手にした蝋燭の火を、紙の端に近づけていた。

 「やめて」

 マッダレーナは石段を駆け下り、彼の腕を掴んだ。ジローラモは、ゆっくりと顔を上げた。

 その目を見て、マッダレーナは手を離しそうになった。

 十一年前の楽屋で、彼が床を転げ回ったとき、目は見開かれていたけれど、その奥はちゃんと醒めていた。ふりをしている人の目だった。

 いまの目は、違った。

 どこも見ていなかった。マッダレーナの顔も、蝋燭の火も、運河の黒い水も。その目の奥では、何かがゆらゆらと燃えていた。

 「聴いたかい、マッダレーナ」

 ジローラモは、楽しそうに言った。

 「僕の歌が、鳴っていた。ヴィヴァルディの名前で。あんなに大きな拍手を、僕は聴いたことがない」

 紙の端に、火が移った。小さな炎が、五線の上を這い上がっていく。マッダレーナは束を奪い取り、石段の濡れた石に叩きつけて、炎を踏み消した。

 ジローラモは、それを止めなかった。ただ、彼女が火を踏み消すのを、面白い芝居でも見るように眺めていた。

 「君は、いつも低音を守るね」

 「これは、あなたの歌」

 「もう、僕の歌じゃない」

 彼は立ち上がり、外套の裾を払った。

 「名前の無い歌は、誰のものにもなる。いちばん大きな名前の持ち主のものに」

 そう言って、ジローラモは路地の闇の中へ歩いていった。

 マッダレーナは、半分焦げた紙の束を、胸に抱えたまま、その背中を見送った。

 炎を見つめていたときの彼の顔は、もう、演技の顔ではなかった。


 今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。

 もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。

 次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。

 それでは、次の小節でお待ちしています。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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