第十四話 恩人の夜
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月十二日〜十三日 東京・三鷹/中野
鑑識から結果が届いたのは、十二日の昼前だった。
三鷹署の小会議室で、三浦がタブレットの画面を久我と奏に向けた。拡大写真の中で、親指の先ほどの鈍色の塊が、白い背景に浮かんでいた。
「鉛です。純度が高い。で、この穴」
三浦は、写真の一か所を指で広げた。塊の片側に、小さな穴が開いている。穴の縁に、ごく細い真鍮の線が、千切れたように残っていた。
「楽器屋さんに見てもらったら、弦楽器の弱音器の重りだそうです。昔の、鉛の重りをつけて使うタイプの。こう、駒に載せて、音をうんと小さくするやつ」
「鉛の弱音器」
奏は、思わず声に出した。
「《狂えるオルランド》で、使う場面があるんです。アルチーナのアリオーソで、ヴァイオリンが鉛の重りをつけて弾く。チェンバロは黙る。ヴィヴァルディが楽譜に指定していて」
「じゃあ、公演の小道具か何かってことですか」
「いえ、今回の公演では、普通のゴムの弱音器を使います。鉛のものなんて、いまどき誰も持っていない」
三浦は、タブレットの画面を切り替えた。
「それが、持ってた人がいたんですよ。十五年前に」
画面には、古い書類の写しが映っていた。罫線の引かれた表に、手書きの品名が並んでいる。表題は「鳴海宗一郎氏 所蔵楽器・楽譜目録(火災による損失分)」。
「保険会社に出された、火事の損害の目録です。この行」
三浦が指さした行に、こう書かれていた。
——ヴァイオリン用弱音器(鉛製、十八世紀イタリア、真鍮線付)一組六点。焼失。
「十八世紀の弱音器。鳴海さんが、あの写本と一緒に、ヴェネツィアの古書店から買ったものらしいです。この目録の書き方からすると、六点組で、一つずつ真鍮の線で繋がってた。白洲さんの家に落ちてたのは、たぶん、そのうちの一つ」
久我は、目録の写しを睨むように見ていた。それから、表の一番下の欄を指さした。
「作成者の署名は」
三浦は画面を拡大した。几帳面とは言いがたい、右下がりの崩れた字だった。
柘植圭吾。
「当時、鳴海さんの事務方だった柘植さんが、保険の手続きを全部やってます。焼失、って書いたのも、柘植さんです」
会議室が、しんと静まった。
焼けたはずの弱音器が、十五年後、殺人の現場に落ちていた。焼けたはずの写本の一葉が、白洲の手元にあった。そして、それを焼失と書いたのは、柘植だった。
「柘植さんを、もう一度呼びます」
久我は、立ち上がった。
その日の稽古の前、奏は楽屋の廊下の外套掛けの前で、足を止めた。
黒いコートが、三着並んで掛かっていた。葛城のもの、柘植が前の日に置いていったもの、副指揮者のもの。どれも丈が長く、どれも襟が高かった。昨日の駅の階段で見た背中が、どれだったのか、奏には分からなかった。分からないまま、足を速めて前を通り過ぎた。
その日の夕方、奏は稽古のあとで、ホールの客席に一人で残った。
照明の半分落ちた客席は、薄暗く、冷えていた。舞台の上には、第二幕の装置がそのまま残されている。オルランドが恋人たちの名前を見つける、木の書き割り。その幹に、アンジェリカとメドーロの名前が、大きな飾り文字で描かれていた。
奏は、客席の真ん中の席に座り、その書き割りを見上げた。
恋人たちが木に刻んだ名前を見て、オルランドは狂う。
十五年前の秋、楽屋口の桜に C・K と刻まれた。誰の名前なのか、刻んだ本人しか知らない文字。柘植は自分の名前だと言い張る。千尋が何と答えたのかは、誰も知らない。
そしてこの冬、同じ桜に、楓が A・M と刻んだ。その夜のうちに、誰かがそれを削り取った。C・K には、指一本触れずに。
名前を刻むことは、なぜ、こんなにも人を狂わせるのだろう。
背後で、客席の扉が開く音がした。振り返ると、安西が、事務室の鍵の束を手に立っていた。
「早瀬さん、まだいらしたんですか。そろそろ閉めますよー」
「すみません、すぐ出ます」
安西は、舞台の書き割りを見上げて、ため息をついた。
「あたし、このオペラ、ちゃんと最後まで観たことないんですよ。このお話、結局どうなって終わるんですか」
「正気に戻るの。もとになったアリオストの物語では、友だちの騎士が月まで飛んでいって、瓶に詰められたオルランドの正気を取ってくるの。それを嗅がせたら、目が覚める」
「へえ。月まで行かないと、治らないんだ」
安西は、意外そうに言った。
「狂うのは一瞬なのに、治るのは大変なんですね」
安西は、鍵の束をじゃらりと鳴らし、客席の照明を一列ずつ落としはじめた。
「でも、オルランドが正気に戻っても、恋人たちの名前は、木に刻まれたまんまなんですよね。それって、ちょっと可哀想」
「可哀想?」
「だって、目が覚めたって、失恋したことは消えないじゃないですか。あたしだったら、もう一回狂っちゃいそう」
安西は、笑いながら最後の列の照明を消した。奏は、楽屋口から外へ出た。楽屋口の合鍵は、葛城と冴子と杏奈、主役の三人にも一本ずつ預けてあるのだと、前に聞いたことがあった。
桜の老木の下を通るとき、幹に目をやった。削り取られた A・M の跡が、暗がりの中に浮かんでいた。そのすぐ上に、古い C・K が、樹皮に呑まれかけて、黒く残っていた。
狂うのは、一瞬。
それなら、あの火の夜に、誰かは一瞬で狂ったのだろうか。そして、その正気は、いまもどこか遠いところで、瓶に詰められたままなのだろうか。
冬の風が、裸の枝を鳴らした。
その日、稽古が終わると、葛城は、目白の冴子さんの家で二重唱の合わせがあるからと言って、先に帰っていった。柘植の二度目の聴取は、夕方まで続いた。
奏はそれに同席しなかった。夜、久我からの短いメッセージで、結果を知った。
——目録は、鳴海さんの奥さんが口頭で言ったものを、自分が書き写しただけだと言っています。中身は確認していない。焼失かどうかも知らない。そう言い張っています。今日は帰しました。
奏は、携帯の画面を、画面が暗くなるまで見ていた。公演まで、あと八日。
あの冬の火事。焼けたはずの写本。焼けたはずの弱音器。二階で歌われたフォリア。白洲の暖炉の灰。削られた刻み跡。殴られた楓。割れたチェンバロの蓋。
どれもが、一人の男の名前のまわりに集まるように、並べられていた。
それなのに、奏の胸の底の、釈然としない何かは、まだ消えていなかった。
十三日の夜、九時を回ったころ、部屋の呼び鈴が鳴った。ドアスコープを覗くと、葛城が立っていた。
コートの襟を立て、手に紙袋を提げていた。奏は慌てて、部屋着の上にカーディガンを羽織り、ドアを開けた。
「ごめんね、こんな時間に。近くまで来たから」
葛城は少し照れたように笑い、紙袋を差し出した。中に、温かい焼き菓子の箱が入っていた。
「杏奈がね、奏さんが最近ちゃんと食べてないみたいだって心配してたんだ。僕も、そう思う」
「そんな、わざわざ」
「いいんだ。僕も、一人でいたくなかった」
奏は、少し迷ってから、葛城を部屋に上げた。
六畳の居間は、楽譜と本で散らかっていた。床の隅にチェロケースが寝かせてあり、譜面台には、例の楽譜の写しが立てかけたままになっていた。葛城はコートを脱ぎ、床のクッションに腰を下ろした。奏は台所で湯を沸かした。湯が沸くまでのあいだ、居間からは何の音もしなかった。紅茶を二つ淹れて、居間に戻った。
葛城は、カップを両手で包み、湯気を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「十五年前のこと、少しだけ、話してもいいかな」
奏は、頷いた。
「千尋はね、本当にいい歌い手だった。声がきれいなだけじゃない。歌詞の一語一語を、本当に信じて歌う人だった。嘘の歌詞でも、千尋が歌うと本当になる。……僕は、ずっと彼女の隣で歌っていた。三年間。オルランドとアンジェリカとして」
葛城は、紅茶の湯気を見つめていた。
「楽屋口の桜、知ってるよね。C・K」
「柘植さんが、自分の名前だと」
「うん。柘植さんは、昔からそう言ってる」
葛城は、小さく笑った。笑ったけれど、目は笑っていなかった。どこか遠くを見ていた。
「千尋があれを彫ったのは、合宿の前の秋だった。僕は、彫っているところを見ていたんだ。誰の名前かって訊いたら、千尋は笑って、内緒、って言った」
葛城は、カップを床に置いた。
「桜の K が誰か、彼女は最後まで教えてくれなかった」
その声に、奏は胸を突かれた。
答えを聞けないまま、ずっと、彼はあの桜の前を通り続けてきたのだ。柘植が自分の名前だと吹聴するのを、黙って聞きながら。
「葛城さんは、千尋さんのことを」
奏は言いかけて、口をつぐんだ。訊くべきではないと思った。
葛城は、奏のほうへ顔を向けた。それから、そっと手を伸ばし、奏の手に重ねた。
「君を、あの夜、運び出せてよかった」
手は温かかった。あの夜、煙の中で自分を抱えた腕の温かさを、奏は思い出していた。
「僕が、あの夜にできた、たった一つのいいことだ」
二人とも、何も言わなかった。窓の外を、中央線の電車の音が通り過ぎていった。
やがて葛城は、手を離して立ち上がった。コートを羽織りながら、部屋の隅に目をやった。床に寝かせたチェロケースと、譜面台の楽譜の写しを。
「それが、冴子さんの言っていた楽譜?」
「写しです。原本は、警察に」
「そう」
葛城は、譜面台には近づかなかった。少し離れたところから、写しの束を眺めただけだった。それから、微笑んだ。
「いい歌だね。千尋が、好きそうな歌だ」
話は、思いのほか長くなった。時計を見ると、十一時を回っていた。玄関で靴を履きながら、葛城は振り返った。
「奏さん。二十日、一緒にいい演奏をしよう。白洲さんのために。千尋のためにも」
ドアが閉まった。
奏は、玄関の内側に立ったまま、動けなかった。手の甲に、まだ温かさが残っていた。
奏は、その手の甲を、もう片方の手で包んだ。十七の春、最後列の席から見ていただけの人の温かさだ、と思った。思ってから、頬が熱くなった。誰も見ていない玄関で、奏は一人で俯いた。
この人を、信じていよう、と奏は思った。あの冬、自分を炎の中から運び出してくれた人を。
台所に戻り、二つのカップを洗った。紙袋の中の焼き菓子の箱には、杏奈の丸い字で、小さなカードが添えられていた。奏さん、ちゃんと食べてください。二十日、一緒に。
奏はそのカードを、譜面台の楽譜の写しの隣に立てかけた。
ソの刻みの並ぶ黒い楽譜と、杏奈の丸い字のカード。その二つを並べて眺めているうちに、この十日あまりで初めて、奏は少しだけ眠くなった。
眠りに落ちる前、枕元の携帯が一度だけ震えた。杏奈からだった。
——柘植さんの事務所の子から、電話がありました。社長、どこにも電話に出ないって。事務所の明かりは、点いたままなんだそうです。
奏は、その文面を二度読んだ。それから、携帯を伏せた。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




