↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/20

第十五話 腕で数える

 低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。

 けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。

 三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。

 十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。

 そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。

 S、O、L。

 これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。

 どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。

 数え間違えれば、また誰かが燃える。

二〇二六年十二月十四日 東京・新宿/中野/三鷹


 午前一時、新宿の雑居ビルの守衛室で、夜間警備員は、五階の窓の明かりが消えるのを見た。

 十二分後、灰色の上着の男が、通用口から出ていった。携帯を耳に当てたまま、足元がおぼつかなかった。

 「……ホールで?」

 「……千尋の?」

 それだけが、守衛室の小窓越しに聞こえた。男は、駅とは反対の方角へ歩いていった。


 柘植圭吾は、歩きながら、自分が笑っているのに気づいた。笑っているのか、泣いているのか、酒のせいで顔の筋肉がどちらに動いているのかも分からないまま、上着の前も合わせずに通りでタクシーを拾い、行き先を言ったきり目を閉じて、どうやってここまで来たのか、よく覚えていなかった。気づくと、見覚えのある雑木林の坂の下にいた。千尋の手紙がある、と電話の声は言った。お前の知らない千尋が書いてある、と。知りたいに決まっている。十五年だ。十五年、俺は、あの桜の K を自分の名前だと信じて、信じて、信じるふりをして、あいつの写真の顔だけ擦り切れるまで撫でて、あいつの姪の顔をポスターに貼って、それでも、あいつが最後に誰の名前を呼んだのかだけは、知らなかった。

 憎い、と思った。千尋が。あの冬、事務室の窓から見下ろした庭で、白洲の外套の襟を直してやっていた千尋が。憎くて、会いたかった。

 ホールの裏の雑木林は、真っ暗だった。楽屋口の扉が、細く開いていた。中から、低い声が聞こえた。ラ、ソのシャープ、ラ、シ。稽古場で毎日聞かされた、あの歌。

 柘植は扉に手をかけ、その声を、俺は知っている、と思い、知っている、知っている、知っている、と思ったまま暗がりの中へ足を踏み入れ、千尋の手紙はどこだ、と言おうとして、言う前に、歌がやんだ。やんだ歌の代わりに、自分の息だけが、廊下の暗がりで、一つ、二つ、三つと数えられるほど大きく鳴り、千尋、と、四つ目の息の代わりに呼んだとき、背後で、楽屋口の扉が、ひとりでに閉まった。


 十四日の朝、奏はほとんど眠らないまま、床に座って数字の列を眺めていた。

 楽譜の写しの、ソの刻みの数を、腕で数えて、小節ごとに書き出したもの。五、七、四、七、八、五、五、七、七、七、四……。

 刻みは、ふつうなら八つ。少ない小節では、三つまで減っていた。一つの小節だけでは、数通りのことしか言えない。アルファベットを表すには足りない。けれど、二つの小節を組にすれば、足りるかもしれない。

 奏は、そこまでは昨夜のうちに考えついていた。けれど、その先が分からなかった。二つの数を、どうやって文字に当てはめるのか。

 朝の七時に、エレナから着信があった。ヴェネツィアは夜の十一時だった。

 「早瀬さま。お休みのところ、申し訳ございません。わたくし、目録を当たっておりましたら、面白いものを見つけてしまいまして」

 画面の向こうのエレナは、髪がさらに乱れていた。机の上に、古い本が何冊も積み上がっている。

 「十八世紀の初めのヴェネツィアで、写譜師たちが使っていた、手習いの帳面でございます。字の練習用の。当時のイタリアの写譜師の多くは、二十文字で書いておりました。J も K も W も X も Y も使わない。U と V は、同じ一つの字として書きました。それで、その一冊の巻末に、こういう表が」

 エレナが、帳面の頁を画面に近づけた。褪せたインクで、二十の文字が、五段四列に並んでいた。A、B、C、D。E、F、G、H。I、L、M、N。O、P、Q、R。S、T、U、Z。

 「字の並びを覚えるための表でございます。でも、こうして段と列で数えれば、どの字も二つの数で言えます。昔、ギリシャの人が、松明で字を送るのに使った方法だそうで」

 段は五つ。列は四つ。奏は、数字の列を見た。五、七、四、七、八、五、五、七。どれをそのまま当てはめても、段にも列にも収まらない。

 奏は、額を押さえた。

 頭が回らない。眠っていないせいだ。白洲の暖炉の灰と、楓の包帯と、柘植の赤い目と、葛城の温かい手が、交互に浮かんでは消えた。

 「早瀬さま」

 エレナが、穏やかに言った。

 「お疲れでいらっしゃいます。少し、休まれてはいかがですか」

 「いえ、もう少しだけ」

 奏は、チェロをケースから出した。床に座り、楽譜の写しを譜面台に立て、最初のソの小節を弾いた。五つ目で、弓が次の小節に着く。腕が、三つぶん空を切る。

 数えるべきなのは、弾いた数ではなかった。空を切った数だ。符頭と符頭をつなぐ、かすれのような弧の数。

 「エレナさん。八から、弾いた数を引いてみてください。つまり、タイの数です。一つ目の小節が段、二つ目の小節が列」

 「タイの数で……一つなら一段目、五つなら五段目。ちょうど収まります」

 「タイのない小節は、八つのまま。どこにも当たらない。だから、言葉の切れ目」

 奏は、一小節ずつ、ゆっくりと弾いた。刻みを、目ではなく、腕で数えた。タイでつながれた音は一つ。休符の後の音は、新しい一つ。

 最初の組。五つと七つ。タイが三つと一つ。三段目の一列目。I。

 次の組。四つと七つ。四段目の一列目。O。

 次は、一小節だけの八つ。タイのない小節。言葉の切れ目。

 IO。

 イタリア語で、私。

 奏は、弓を握り直した。数え間違えないように、次の組へ進んだ。

 その次の組。五つと五つ。M。七つと七つ。A。D。D。A。L。E。N。A。

 MADDALENA。

 「マッダレーナ」

 画面の向こうで、エレナが息を呑んだ。

 「女の名前です」

 奏は、もう一度チェロを構え、一小節ずつ弾いて確かめながら、続きを書き出していった。

 SCRISSI。書いた。私は書いた。

 IL BASSO。低音を。

 IO MADDALENA SCRISSI IL BASSO。

 私、マッダレーナが、低音を書いた。

 奏は、鉛筆を床に置いた。

 三百年前、誰も見向きもしない低音の刻みに、一人の女が、自分の名前を刻んでいた。歌い手が誰も数えない、ソの音の刻みに。

 「低音に問え、嘆きにではなく」

 エレナが、歌詞の四行目を、囁くように読んだ。

 「早瀬さま。この歌を書いた人と、この低音を書いた人は、別の人だったのです。歌の人は、自分の心を歌詞の頭に縦に隠した。低音の人は、自分の名を刻みの数に隠した」

 奏は、楽譜の写しを見下ろした。

 一葉の刻みは、そこで尽きていた。裏面の最後の段の、右端の小さな印。低音は、この紙の外へ、まだ続いている。

 エレナとの通話を終えたあと、奏は、楽譜の写しの束を抱えて、床に座り込んでいた。

 IO MADDALENA SCRISSI IL BASSO.

 数字の列の上に、自分の字で書き込んだ二十五の文字。それを、何度も指でなぞった。

 遠いヴェネツィアで、誰かが、夜ごとこの刻みを数えていた。一小節に一つずつ。数を間違えないように、息を詰めて。歌い手が誰も数えない場所に、自分の名前を刻むために。

 その人は、どんな顔をしていたのだろう。

 どんな部屋で、どんな蝋燭の明かりの下で、ペンを動かしていたのだろう。

 奏は、自分の手を見下ろした。弓を持つ右手。弦を押さえる左手。指先の、硬くなった皮膚。その人の手も、こんなふうだったのだろうか。インクの染みの消えない、写譜師の手。

 私マッダレーナが、低音を書いた。

 低音を書く人の名前は、どこにも残らない。歌い手の名前は台本に載り、作曲家の名前は総譜の表紙に書かれる。低音を弾く者も、写す者も、名前のないまま、地面になる。

 奏は、ずっとそれでいいと思ってきた。地面は、名前を必要としない。歌い手が立っていられれば、それでいい。

 けれど、三百年前のその人は、名前を刻んだ。誰にも読まれないかもしれない場所に。

 読まれないかもしれないからこそ、刻めたのかもしれない、と奏は思った。

 そして、三百年経って、それは読まれた。奏は、楽譜の束を胸に抱えて、目を閉じた。

 マッダレーナさん。あなたの名前を、私が読みました。


 午後二時を過ぎたころ、久我から電話があった。

 「冴子さんの件、片がつきました」

 久我の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

 「十二月二日の夜、冴子さんは八時半に白洲さんの家を出て、吉祥寺の駅前でタクシーに乗っています。運転手の証言と、駅前の防犯カメラで確認が取れました。目白のご自宅に着いたのが、九時十分。そのあとは、ご自宅の前のカメラに、翌朝まで出入りが映っていません」

 奏は、長い息を吐いた。

 「よかった」

 「管理官も、納得しました。灰の三文字を恋の歌と読む線は、捨てます」

 「久我さん。今朝、低音の暗号が、少しだけ読めました」

 奏は、IO MADDALENA SCRISSI IL BASSO のことを話した。電話の向こうで、久我のペンの走る音がした。

 「三百年前の、女の名前ですか」

 「はい。低音を書いた人の。続きは、まだです」

 「続けてください」

 久我は言った。それから、少し間を置いた。

 「それと、こちらからも一つ。柘植さんと、連絡が取れなくなりました」

 奏は、携帯を握りしめた。

 「今日の午後一時に、もう一度話を聞く約束をしていました。時間になっても現れない。事務所にも、自宅にもいない。携帯は、電源が切られています。ビルの警備員の話では、今日の午前一時過ぎに、携帯で誰かと話しながら通用口を出ていったきりだそうです」

 「逃げたんでしょうか」

 「分かりません」

 久我の声が、硬くなった。

 「今夜、ホールと、杏奈さんの自宅の周りに、人を置きます。早瀬さんも、今夜は一人で出歩かないでください」

 「もう一つあります。楓さんが、十四日の零時四十分に、病院の夜間出入口から出ています。戻ったのは三時。本人は、眠れなかったので廊下を歩いていた、と言っています。出入口のカメラの映像と、合いません」

 奏が何か言う前に、久我は続けた。

 「関係者全員の、今日の未明の所在を当たっています。葛城さんは、昨夜、早瀬さんのお部屋に寄られたそうですね。ご本人から伺いました。何時に帰られましたか」

 「十一時半ごろ、だったと思います」

 「合っています。零時十分に、ご自宅のマンションのエントランスを通っています。カメラに映っています。朝の七時まで、出入りはありません。携帯の位置情報も、朝まで自宅です。三浦は、正面のほかに出入口がないか気にしていましたが、管理官が、カメラと携帯で十分だと押し切りました」

 奏は、知らないうちに詰めていた息を、そっと吐いた。

 「冴子さんは、一人でご自宅にいた、と。ご自宅前のカメラは、十日に隣の家の外壁工事で配線が切られて、録画が止まっていました。こちらは、裏づけがありません」

 冴子さんが、と言いかけて、奏は口をつぐんだ。目白の書斎で、千尋の楽譜の束を胸に抱えていた冴子の手を、思い出していた。千尋の手紙を持っているのは、冴子だ。

 電話が切れた。

 夕方、奏は楓の病室を訪ねた。

 楓は、ベッドの上で上体を起こし、窓の外の駐車場を眺めていた。頭の包帯は、この前見たときより少し薄くなっていた。奏に気づくと、いつものように片手を挙げた。

 「早瀬さん。稽古、どうっすか」

 「楓くんのメドーロを、皆が待ってる」

 「すぐ戻ります。喉は、ほんとに平気なんで」

 奏は、ベッドの脇の丸椅子に腰を下ろした。どう切り出せばいいのか、分からなかった。

 「昨日の夜、眠れた?」

 楓の目が、ほんの一瞬だけ、窓のほうへ逃げた。

 「……まあ、ぼちぼちっす。病院の夜って、静かすぎて」

 「廊下を歩いてたって、聞いた」

 「あー」

 楓は、頭の包帯に触れかけて、やめた。

 「すいません。それ、いまは言えないっす。悪いことはしてないです。でも、ちょっと、恥ずかしいことなんで」

 楓は、笑ってみせた。いつもの軽い笑い方だった。けれど、膝の上の手は、シーツを固く握っていた。

 病室を出て、エレベーターを待ちながら、奏は、楓の手のことを考えていた。言えないこと。恥ずかしいこと。九日の夜のことは、知っている。若木の前で、彼が何をしようとしていたのか。けれど、十四日の未明は。

 疑いたくなかった。けれど、数が合わないものを、合っていることにはできなかった。

 病院の玄関を出ると、冬の日は、もう沈みかけていた。柘植さんは、どこへ行ったのだろう。

 部屋に戻ると、床の上に、数字の列を書いた紙が広がっていた。IO MADDALENA SCRISSI IL BASSO。その先は、どこにもなかった。

 公演まで、あと六日。


 今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。

 もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。

 次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。

 それでは、次の小節でお待ちしています。


今日はハロウィンですね。

もとは死者の日の前日に霊を鎮める行事でした。

日本でいうお盆みたいなものですね。

そして、家族や知人の安寧を願う日でもあります。

皆さまにとって心安らぐ日でありますように......


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。