第十六話 刻みに隠す
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
今日から11月ですね。
この小説も後半に入ってきました。
一七三一年春〜一七三五年冬 ヴェネツィア/二〇二六年十二月十四日 東京・中野
父が死んだのは、一七三一年の春だった。
ある朝、写譜台に向かったまま、ペンを握って動かなくなっていた。インク壺の縁に、最後の一滴が乾いて残っていた。六十二歳だった。工房は、三十歳になったマッダレーナと、古参の写譜師ジローラモと、若い弟子二人とで引き継ぐことになった。
表向き、工房の主はジローラモだった。女が工房を持つことは、この町では難しい。けれど、仕事の割り振りも帳簿も、マッダレーナがすべてやった。ジローラモは何も言わずに、それに従った。
彼は、もう昼間に狂ってみせることはなくなっていた。
代わりに、夜に変わった。
皆が帰ったあと、ジローラモは一人で工房に残り、明け方まで写譜台に何かを広げていた。ある朝、突っ伏して眠る彼の腕の下に、マッダレーナはその紙の束を見てしまった。
《狂えるオルランド》第三幕の、総譜だった。一七一四年の、作曲者の名のない、あの総譜。劇場の書庫にしまわれているはずのものだった。
その表紙の余白に、彼の字で、何度も何度も、同じ文字が書かれては消されていた。
Girolamo Ventura.
紙は、その一か所だけ薄くなり、今にも破れそうだった。書いては消し、消しては書く。消すのは、誰かに見られるのが怖いからだろう。書くのは、誰かに見てほしいからだろう。
マッダレーナは、総譜の表紙をそっと閉じ、束を元の位置に、元の角度で戻した。
マッダレーナは、誰にも言わなかった。
言えば、ジローラモは劇場の物を盗んだ罪で捕まる。工房もただでは済まない。それに、あの総譜の中には、名前の書かれていない彼の歌が一曲入っている。
ある夜、マッダレーナは階段の途中から、彼の独り言を聞いた。
「これも僕だ。この転調も、僕が写したときに直したんだ。あの人は気づいていない。気づいていないなら、僕のものだ」
頁をめくる音。
「全部、僕のものだ」
狂っているのか。ふりをしているのか。もう、どちらでもなかった。十五年前、彼は楽屋で、ふりをするのに稽古が要ると言った。その稽古は、いつのまにか、終わらない本番になっていた。
ジローラモは、いつか総譜に自分の名前を書き込むだろう。そうなれば、あのオペラは彼のものとして残る。リストーリの音楽も、ヴィヴァルディ師の音楽も、ベッタの歌声も、全部。
止められない、と彼女は思った。けれど、残すことはできる。
本当のことを。
工房の柱には、数年前にジローラモが小刀で刻んだ B・G の二文字が、黒ずんで残っていた。その隣の、父の写譜台の脚の、床すれすれのところには、七つか八つのころの自分が釘の先で刻んだ M がある。父にひどく叱られ、泣きながらこすっても、消えなかった。父はそれ以上何も言わず、その写譜台を死ぬまで使い続けた。
誰も覗き込まない場所に、名前を刻む。
低音も、同じだ、と思った。
その冬から、マッダレーナは夜ごと、彼が眠っているあいだに総譜を借りてきて、自分の部屋で第三幕を写し直すようになった。刻みの数を変えるのは、その中の一曲の、低音の段だけ。
ベッタのトランクの歌。ARSI の歌。
その低音は、ソの音を速く叩き続ける、怒りの刻みでできていた。一小節に、八分音符が八つ。それが何十小節も続く。歌い手も聴衆も、刻みの数など数えない。
けれど、低音を写す者は数える。
符頭は、八つのまま。隣り合う二つの音のあいだに、細い弧を一本引く。タイでつながれた音は、弓では一つにまとめて弾く。弧を一本引けば七つ。二本なら六つ。三本なら五つ。
細い弧は、インクのかすれと見分けがつかない。目で数える者は、八つの符頭を数えて、そこで終わる。弾く者の腕だけが、空を切る。小節の長さは、一つも崩れない。
ソの音の刻みだけを。レやドの刻みは、そのままにしておいた。全部を変えれば、写し間違いでは済まなくなる。ソだけなら、うっかり者の写譜師の癖だと思われるだろう。
二小節を一組にする。子どものころ、父の工房で、字の練習の帳面の巻末に刷られていた、二十の文字の表。五段四列。一つ目の小節の弧の数で段を、二つ目の小節の弧の数で列を選ぶ。弧のない小節は、どこにも当たらない。それを、言葉の切れ目にした。
IO MADDALENA SCRISSI IL BASSO.
私、マッダレーナが、低音を書いた。
ペンで紙の上に自分の名前を書いたのは、生まれて初めてだった。
写譜師の名前は、どこにも書かれない。低音の名前は、どこにも。誰にも読まれないかもしれない場所だからこそ、書けた。
刻みを一つ減らすたびに、彼女はその小節を声に出さずに歌ってみた。七つは足元が軽くなり、六つはつまずき、五つは息が詰まる。数が変わるたびに、怒りの形が変わった。文字を刻んでいるつもりで、彼女は、一人の男の二十年分の怒りを写していた。
蝋燭の炎を見ていると、ときどき、それを廊下の床のほうへ傾けたくなった。彼女は、そのたびに燭台を窓の側へ遠ざけた。
ジローラモが夜ごと総譜の上で呟く言葉を、彼女は階段の途中で聞き、刻みの数に変えていった。
四年が経った。
刻みは、終わりの一文を残すところまで来た。最後の一小節だけは、彼の名前のために取っておくと決めていた。
一七三五年の冬の夜、マッダレーナはその最後の一文の前で、ペンを止めた。
最後の組の一つ目の小節にだけは、先に弧を二本引いておいた。六つ。二段目。G は、その三列目。あとは、最後の一小節に、弧を三本引けばいい。G、と刻めば、それで足りる。彼の名前の最初の一文字。続きは、読む者が補えばいい。
けれど、ペン先が、五線の上で動かなかった。
十二歳の冬の夜、工房の階下で聴いた歌声を思い出していた。付点はね、音符にくっついていないと、ただの染みになる、と笑った男。
数えられないものは、無かったことになる。
それなら、彼の名前を刻まなければ、彼の罪は無かったことになるのか。
それとも。
背後で、床板が軋んだ。
マッダレーナは振り返らなかった。振り返らなくても、誰なのか分かった。蝋燭の光が、二つの影を壁に映していた。
「何を数えている」
ジローラモの声だった。
昼間の掠れ声ではなかった。歌うときの、あの澄んだ高い声でもなかった。そのどちらでもない、聞いたことのない声だった。
二〇二六年十二月十四日の夜、三浦は中野の住宅街で、マンションの裏手に一人で立っていた。
カウンターテナー、葛城遼の住む建物だった。正面玄関の防犯カメラには、十四日未明、葛城が帰宅し、朝まで出てこなかった姿が残っている。携帯電話の位置情報も、それと合っていた。
裏手には、駐輪場があった。自転車の列の奥に、灰色の鉄の扉が一枚。見上げても、カメラはどこにも付いていなかった。
三浦は、扉の前まで歩いた。ノブは冷たく、鍵は内側から回すだけの簡単なものだった。そのとき、扉が内から開いて、ゴミ袋を提げた住人が出てきた。三浦に軽く会釈して、集積所のほうへ歩いていく。しばらくすると、自転車を押した学生が、同じ扉から入っていった。
三浦は、扉が閉まりきる前に、取っ手を押さえた。
内側は、細いコンクリートの通路だった。郵便受けの裏側と、配電盤と、ゴミ置き場の金網。突き当たりに、エレベーターの扉が見えた。正面のエントランスを通らずに、そのまま上の階へ上がれる。
手を離すと、扉は、油の切れた蝶番の音を立てて、ゆっくりと閉まった。外から取っ手を引いても、もう開かなかった。外から開けるには、鍵が要る。住人なら、誰でも持っている鍵だ。
住人は、ここを毎日使っている。それだけのことだった。
三浦は、駐輪場を抜けて、裏の路地に出た。街灯が二本、間を空けて立っていた。どちらにも、カメラはなかった。路地を右へ歩くと、三分ほどで、バスの通る大きな通りに出た。空車のタクシーが、二台、続けて通り過ぎていった。
三浦は腕時計を見て、手帳に書いた。通用口から大通りまで、三分十秒。走れば、もっと短い。
書いてから、少し恥ずかしくなった。カメラにも、携帯にも、葛城は朝まで家にいた、と出ている。機械が二つ、同じことを言っている。それを、自分の足と腕時計で疑っている。
来た道を戻り、マンションを見上げた。上のほうの階の窓に、いくつか明かりがついていた。そのうちの一つは、カーテンが薄く開いていた。どれが葛城の部屋なのか、三浦は知らなかった。
十日の明け方、病室で見た手を、なぜか思い出した。土を握り込んだまま、明け方まで一度も開かなかった、楓の右手。あの手が何を掴んでいたのか、まだ誰も知らない。
三浦は、携帯電話を取り出した。
「警部補、自分です。葛城さんのマンション、裏に通用口がありました。カメラはないです」
「それで」
「いえ、それだけなんですけど。一応、と思って」
短い沈黙があった。
「管理官が、もう判断してる。カメラと位置情報で十分だ。戻ってこい」
「……はい。分かりました」
電話が切れた。三浦は携帯電話をポケットにしまい、手帳を開いた。三分十秒、の下に、細い線を一本引いた。消すための線ではなかった。消さないための線だった。それから手帳を閉じ、駐輪場を出た。
通りへ出る角で、一度だけ振り返った。鉄の扉は、街灯の光を鈍く跳ね返して、閉じたままそこにあった。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




