第十七話 畳まれた衣服
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月十五日 東京・狛江/新宿/三鷹
通報は、十五日の朝六時過ぎだった。
多摩川の河川敷を、犬を連れて散歩していた老人が、狛江の水道橋の少し下流で、それを見つけた。
久我が現場に着いたのは、七時半だった。夜明けの河原は、冷たい霧に包まれていた。土手の上に、所轄のパトカーが二台停まり、黄色いテープが風に揺れていた。
「警部補、こっちです」
三浦が、葦の茂みの切れ目から手を振った。
川べりの、平らな砂地だった。水際から三メートルほど離れたところに、衣服が置かれていた。置かれていた、としか言いようがなかった。
灰色のスーツの上着。ズボン。白いワイシャツ。紺のネクタイ。下着。靴下。黒い革靴が一足。どれも、丁寧に畳まれ、上から順に、きちんと積み重ねられていた。いちばん上に、スマートフォンと、財布と、車の鍵と、金の指輪が一つ、まっすぐに並べて置かれていた。
まるで、ホテルの部屋で、明日着る服を整えておくように。
霧の中で、その小さな衣服の山だけが、異様にくっきりと見えた。土手の上の道に、一台の車が停まっていた。久我は運転席を覗き、座席がずいぶん後ろまで下げてあることに、ふと目を留めた。
「柘植圭吾さんの、ものです」
三浦が、財布の中の免許証を、手袋の指でつまんで見せた。
「指輪の内側に、刻印があります。K から M へ。奥さんのイニシャルみたいです。……もう、離婚してるらしいですけど」
久我は、衣服の山の前にしゃがみこんだ。
砂地には、足跡がいくつも残っていた。散歩の老人のもの、駆けつけた警官のもの。そのほかに、川のほうへ向かう、裸足の足跡が、ひと筋。水際で、足跡は途切れていた。
「入水、ですかね」
三浦が言った。
「わざわざ服を畳んで、靴を揃えて、それから川に入った。遺書代わりってことですかね」
久我は、答えなかった。
水際まで歩き、足跡が消えるところを見下ろした。冬の多摩川は、水かさが少ない。この辺りの流れは、深いところでも大人の胸ほどだろう。泳ぐ気のない者が入れば、流されて溺れることはありうる。
けれど。
久我は振り返り、もう一度、衣服の山を見た。
畳み方が、丁寧すぎた。
死のうとする人間が、ネクタイを三つ折りにするだろうか。靴の爪先を、まっすぐ川のほうへ向けて揃えるだろうか。スマートフォンと財布と鍵と指輪を、定規で測ったように一列に並べるだろうか。
これは、誰かに見せるための並べ方だ。
「三浦」
「はい」
「先週、楽屋口で早瀬さんが話していたことを覚えているか。オペラの筋の話だ」
「え、えっと……オルランドが、狂って、木を倒すとか」
「第三幕だ」
久我は、衣服の山を見下ろした。
「狂ったオルランドは、第三幕で、服を脱ぎ捨てて現れる。早瀬さんが、楽屋口でそう説明していた」
三浦が、ぽかんと口を開けた。
「じゃあ、これ」
「死ではない」
久我は、霧の向こうの川面を見ていた。
「上演だ」
鑑識の係官が、衣服の山を一枚ずつ持ち上げ、ビニール袋に収めていった。ワイシャツを持ち上げたとき、畳まれた生地のあいだから、一枚の紙がはらりと落ちた。係官が拾い上げ、久我に見せた。
古い紙のコピーだった。イタリア語の文字が、活版で刷られている。頁の上の端に、題名があった。
ORLANDO FINTO PAZZO.
久我には読めなかった。けれど、その頁の中ほどの数行に、黒い鉛筆で、太い線が引かれているのは分かった。
昼前、久我は、柘植の事務所を訪ねた。
新宿の雑居ビルの五階。芸能事務所の看板が、色褪せた文字で扉に貼られていた。中では、若い社員が三人、電話の応対に追われていた。社長の失踪の報せは、まだ外には出ていなかったが、取引先からの問い合わせが朝から鳴りやまないのだという。
社長室は、奥の小部屋だった。廊下の天井の防犯カメラに、「修理済」と書かれた新しいシールが貼られていた。
机の上は散らかっていた。書類の山、飲みかけの缶コーヒー、吸い殻であふれた灰皿。壁には、杏奈の公演のポスターが何枚も貼られていた。いちばん大きなポスターの、杏奈の顔の上に、画鋲の穴がいくつも開いていた。何度も貼り直したのだろう。
「社長、朝霧さんのポスターだけは、自分で貼るんです」
若い女性社員が、戸口から小さな声で言った。
「誰にも触らせなくて。剥がれかけてると、すごく怒って」
久我は、机の引き出しを開けた。
いちばん下の引き出しに、古い写真が一枚、伏せて入っていた。裏返すと、あの冬の、鳴海邸の庭で撮られた集合写真だった。合宿の参加者たちが、縁側の前に並んでいる。真ん中に、白髪の鳴海宗一郎。その隣に、千尋。後列の端に、若い柘植。
写真の、千尋の顔の部分だけが、指で何度も撫でられたように、表面の艶が擦り減っていた。久我は、写真を元の場所に戻した。
戸口の女性社員は、まだそこに立っていた。二十代の半ばだろう。社員証の紐を、指に巻きつけたりほどいたりしていた。
「最近の社長のこと、何か気づいたことはありますか」
久我が訊くと、女性社員は、少しためらってから口を開いた。
「先月くらいから、お酒の量がすごく増えて。夜、事務所に一人で残って飲んでるんです。朝来ると、この部屋、お酒の匂いがして」
「ほかには」
「電話で、怒鳴ってるのを聞きました。誰が相手かは分かりませんけど。俺の名前だ、とか、十五年だぞ、とか。いつもは、すごく丁寧な言葉づかいの人なのに、そのときは、別の人みたいで」
女性社員は、自分の腕を抱いた。
「それから、一度だけ、変なことを訊かれました。君は、オペラの狂乱の場って知ってるか、って。知りませんって言ったら、そうだろうね、と笑って。その笑い方が、なんだか怖くて」
久我は、手帳にそれを書き留めた。
「その電話は、いつですか」
「今月の、二日です。夕方でした。確か、ちょうど白洲先生がうちに電話をくださった日で」
久我のペンが、止まった。十二月二日。白洲が死んだ日だ。
机の上の灰皿の中に、柘植の銘柄の吸い殻が、何十本も押しつぶされていた。
その日の昼過ぎ、奏は三鷹署の小会議室で、そのコピーの写真を見せられた。
奏は写真を手に取り、線の引かれた行を読んだ。読みながら、指先が冷たくなっていった。
「《偽りの狂気のオルランド》です」
「偽りの、狂気」
久我が、繰り返した。
「ヴィヴァルディの、一七一四年のオペラです。同じブラッチョーリの台本で、オルランドが、狂ったふりをする話。この行は、ブランディマルテという騎士の言葉です」
奏は、線の引かれた行を、ゆっくりと訳した。
「欺きそのものが、美徳になる。残酷を打ち倒すときには。そして、しばしば、しばしば、皆のためになるのなら、病んだふりをすることは、卑怯ではない」
会議室が、静まり返った。
「柘植さんが、これを」
三浦が、低く言った。
「狂ったふりをして、逃げたってことですか。自殺に見せかけて」
「そう読める」
久我が言った。
「でも、どうして、わざわざそんなことを」
三浦が首をひねった。
「狂気は、量刑になる」
久我は、写真の線を指でなぞった。
「捕まったとき、心神喪失を主張できる。あるいは、死んだと思わせて、どこかへ消える。どちらにしても、この頁は、誰かに読ませるために挟んである」
「誰に」
「私たちに。あるいは」
久我は、奏を見た。
「この歌が読める人に」
奏は、写真を机に置いた。
柘植さんが、これを書き残した。狂ったふりをすることは、卑怯ではない、と。
そう思おうとして、奏はどこかで、それがうまく噛み合わない感覚を覚えた。稽古場でチェンバロの蓋を割ったときの、柘植の呆然とした顔。オルランドの真似か、俺は、と笑ったときの、あの濁った目。あれは、台本の頁を用意して、川辺に服を畳んで並べるような人間の目だっただろうか。
けれど、それを言葉にすることはできなかった。
その日の午後、奏はホールで稽古に出た。楓の抜けたメドーロの段は、副指揮者が口で歌った。
夕方のニュースは、柘植の失踪を大きく報じた。
有名ソプラノのマネージャー、多摩川で衣服を残し行方不明。殺人事件の関係者か。狂気を演じたのか。テレビの画面には、稽古場の外で撮られた、柘植の険しい顔の写真が繰り返し映された。
奏は、夜、杏奈の部屋を訪ねた。
杏奈は、ソファの上で膝を抱えていた。テレビは消してあった。部屋の明かりも、間接照明が一つ灯っているだけだった。
「私のせいなんです」
杏奈は、膝に顔を埋めたまま言った。
「私が湊くんと付き合ったりしたから。柘植さん、おかしくなっちゃった。白洲さんも、湊くんも、私のせいで」
「杏奈さんのせいじゃないよ」
奏は、杏奈の隣に座り、その背中を撫でた。
「柘植さんが何をしたのか、まだ分からない。何も、杏奈さんのせいじゃない」
杏奈は、顔を上げなかった。小さな肩が、震えていた。
テーブルの上で、杏奈の携帯が光った。メッセージの通知だった。差出人は、葛城遼。
——今夜は、一人でいないで。何かあったら、いつでも呼んで。僕が行くから。
杏奈は、その画面を見て、また泣いた。
奏は、杏奈の背中を撫で続けた。窓の外では、冬の夜の風が、ガラスを細かく鳴らしていた。
多摩川の冷たい水の中に、本当に柘植はいないのだろうか。それとも、どこかで、狂ったふりをしながら、次の何かを待っているのだろうか。
奏には、分からなかった。
奏が帰ったのは、十一時を過ぎてからだった。マンションの前に停まった車の中で、所轄の若い刑事が、あくびを噛み殺していた。
零時を少し回ったころ、呼び鈴が鳴った。ドアスコープの向こうに、葛城が立っていた。コートの肩に、細かい雨粒が光っていた。
「起きていたんだね。よかった」
杏奈は、チェーンを外した。外してから、湊くんに電話をすればよかった、と思った。病室の湊くんは、もう眠っている時間だった。
葛城は、玄関から上がらなかった。三和土に立ったまま、杏奈の顔を見た。
「泣いていたんだね」
「……奏さんが、来てくれてたので。もう、大丈夫です」
「大丈夫じゃない声だよ」
葛城は、杏奈の頬に手を伸ばした。親指で、乾きかけた涙の跡をなぞった。指は、外の雨で冷えていた。杏奈は、その手を払えなかった。誰かにこうしてほしかったのだと、そのとき初めて気づいた。
顔が近づいた。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。葛城の唇は、ひどく静かで、ひどく熱かった。
唇が離れる前に、葛城の唇が、声にならないまま、小さく動いた。名前の形だった。杏奈の名前の形ではなかった。
それから、彼は凍りついた。杏奈の頬に手を当てたまま、目を見開き、自分の唇が作った形に、怯えているようだった。
杏奈は、一歩下がった。背中が、靴箱にぶつかった。
「……私、杏奈です」
「ごめん」
葛城の声は、ひどく掠れていた。歌うときの声でも、話すときの低い声でもなかった。
「ごめん。今夜のことは、忘れて。僕は、どうかしている」
葛城は、背を向けてドアを開けた。雨の匂いが流れ込み、ドアが閉まった。廊下を遠ざかる足音が、一度だけ止まり、また歩き出した。
杏奈は、鍵をかけ、チェーンを掛け直し、その場に座り込んだ。
唇に、まだ熱が残っていた。自分ではない名前で触れられた熱だった。手の甲で、何度拭っても、消えなかった。
その夜、久我は三鷹署の小会議室に一人で残り、河原の写真を見ていた。
鑑識が撮った、裸足の足跡の拡大写真。砂地に、川のほうへ向かうひと筋。
踵の跡が、浅かった。
指の跡が、なかった。五本の指が砂を掴んだ形が、どこにもない。足の裏の平らなところだけが、等間隔に、型で押したように並んでいる。
久我は、写真の端の物差しを見た。二十五センチ。柘植の靴は、二十七だった。
人は、裸足で冷たい砂を歩くとき、指で地面を掴む。冬の夜明けの河原なら、なおさらだ。
この足跡は、歩いた跡ではない。誰かが、手で押しつけた跡だ。久我は、写真を机に伏せた。
柘植圭吾は、川に入っていない。
入水を演じて、用意しておいた別の靴で、どこかへ歩き去ったのだ。
それとも、と久我は思った。手で足跡を押しつけてまで偽装する誰かが、ここに来たのか。
夕方、三浦が持ってきた二つの報告を、久我は思い返した。
「白洲さんの家の二軒先の、ドアホンのカメラです。二日の夜十時過ぎに、グレーのコートの女が一人、前の道を通ってます。顔は、街灯の陰で映ってません」
冴子は、グレーのコートを持っている。久我は、それを覚えていた。九時十分から朝まで、目白の家のカメラが彼女を見ている。それでも、忘れることはできなかった。
「もう一つ。白洲さんの床に落ちてた鉛の小片、鉛の弱音器は、このオペラでは、アルチーナのアリオーソでしか使わないって」
アルチーナを歌うのは、冴子だった。十四日の未明のアリバイも、裏づけがない。千尋の手紙を、まだ警察に出していない。
「管理官が、明日、冴子さんにもう一度当たれと」
久我は、しばらく黙ってから、頷いた。
それから、壁の日めくりを見た。公演まで、あと五日。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




