第十八話 宛名
低音を弾く者は、誰にも見上げられない。歌い手の足元で、同じ音を、同じ数だけ叩き続ける。それが仕事だ。
けれど、もしその数が、ある小節から少しずつ狂っていたとしたら。
三百年前のヴェネツィアで、一人の女が、誰にも読まれない場所に何かを刻んだ。
十五年前の冬、煙の中で、十七歳の少女が一つの歌声に救われた。
そして十二月三日の朝、暖炉の灰に、三つの文字が残された。
S、O、L。
これは、名前を書かなかった者たちの物語だ。
どうか、数えてほしい。ソの音を、一つずつ。
数え間違えれば、また誰かが燃える。
二〇二六年十二月十六日 東京・三鷹/目白
午前の稽古を終えて、奏は目白へ向かった。
冴子の家の書斎は、一週間前と同じように、静かだった。
二台のチェンバロは、蓋を閉じて並んでいる。窓辺の譜面台には、何も載っていない。冬の午後の光が、絨毯の上に斜めの格子を描いていた。
冴子は、書斎の机の前に座り、紐でくくられた手紙の束をほどいていた。薄い水色の封筒が、十通ほど。どれも、同じ丸みのある字で宛名が書かれている。白洲恭介様。
「白洲さんの遺志を確かめてから、と思っていたけれど」
冴子は、束から一通を抜き出し、奏の前に置いた。
「柘植さんがあんなことになって、もう、私一人で持っていていいものじゃないと思ったの。久我さんにも、あとでお見せするわ。でも、その前に、あなたに読んでほしかった」
「私に」
「あなたは、千尋さんの最後の夜に、同じ家にいた人だから」
奏は、封筒を手に取った。消印は、平成二十三年十月。火事の、二か月前だった。
便箋は二枚。千尋の字は、楽譜に写したときと同じく、丸く、几帳面だった。
——恭介さん。
——今日、ホールの楽屋口の桜に、名前を彫りました。小さな、小さな字で。誰にも見つからないように、と思ったけれど、きっと誰かが見つけるでしょう。見つけて、首を傾げるでしょう。それでいいの。
——C・K。
——千尋と、恭介。
——あなたは、こういうことをすると、子どもみたいだって笑うでしょうね。でも、私はずっと、こういうことがしてみたかったの。鳴海先生の前でも、合宿の皆の前でも、あなたの名前を呼べないから。せめて、木にだけは。
奏は、便箋から目を上げた。冴子が、頷いた。
「千尋さんが愛していたのは、白洲さんだったのよ。最初から最後まで」
「でも、柘植さんは、自分の名前だと」
「柘植さんは、そう思いたかったのね。圭吾の K。ずっと」
冴子は、手紙の束から、もう一通を抜き出した。
「これも、読んでおいてほしいの。千尋さんが、火事の一週間前に書いたもの」
封筒の消印は、平成二十三年十二月三日。
——恭介さん。合宿が始まりました。鳴海先生のお宅は、相変わらず寒いです。暖炉の火だけが頼り。
——先生が、古いヴェネツィアの楽譜の束から一枚を抜いて、私に貸してくださいました。合宿のあいだに、自分で写しなさいって。トランクの歌だそうです。昔の歌い手が、自分の荷物に入れて、どこの劇場にも持っていった歌。今度の《オルランド》の第三幕に、私が差し込んで歌っていいって。
——歌詞の頭を縦に読むと、ARSI になるの。燃えた、とも、恋い焦がれた、とも読める。先生は、この歌を書いた人は、誰かに恋い焦がれて、燃えてしまったんだろうね、って笑っていました。
——でも、本当は少し、私がこの歌を歌うのを怖がっていらっしゃるみたい。あの歌は、聴く人によっては毒になる、って。誰のことかは、教えてくださいませんでした。
——私、この歌を、あなたのために歌います。客席のどこかで、聴いていてください。
——それと、桜の K のこと。あれを自分の名前だと思っている人がいるの。合宿のあいだに、ちゃんと言うつもりです。あなたの名前だとは言わないけれど、その人の名前ではない、と。
——それから、今日、先生が合宿の誰かと、ひどく言い争っていらっしゃるのを、隣の部屋で聞いてしまいました。相手の声は聞こえませんでした。そのあと、廊下で誰かが、ARSI を口ずさんでいました。低い声で。
奏は、便箋を持つ指が、冷たくなっていくのを感じた。
千尋は、ARSI を、白洲のために歌うつもりだった。桜の K を自分の名前だと思っている人。柘植のことだ、と奏は思った。
そして千尋は、その一週間後に、死んだ。
「千尋さんは、結局、この歌を舞台で歌えなかったのね」
冴子の声が、少しかすれた。
「合宿の最中に、あの火事で。……白洲さんは、ずっと、それを悔やんでいたわ。自分があの夜、早く帰ったりしなければ、って」
冴子は、便箋をそっと封筒に戻した。
「火事の夜、白洲さんは、九時に鳴海先生の家を出たでしょう。そのとき、先生から一枚の楽譜を預かって帰ったんですって。家に置いておくと落ち着かないから、持っていってくれって。千尋さんが写しの手本にしていた、あの古い一葉よ」
冴子は、目を伏せた。
「白洲さんは、十五年、それを開けられなかった。この秋、ようやく開いたとき、どんな気持ちだったのかしら。千尋さんが歌えなかった歌の、本物の楽譜を」
冴子は、別の封筒を開いた。
——恭介さん。柘植さんが、また事務室の窓から私を見ていました。気味が悪いと言ったら、あなたはきっと怒るでしょうから、言わないでおきます。
——それから、遼くんのこと。あの人は本当に優しい人です。柘植さんが近づいてくると、いつもそれとなく間に入ってくれる。舞台の上のオルランドとは大違い。
奏は、その一行で、指を止めた。遼くん。葛城さんのことだ。
「葛城さんは、千尋さんを守っていたんですね」
「そうね。同じ舞台に立つ相手として、とても大事にしていたわ」
冴子は、窓の外を見た。
「葛城さんは、千尋さんが亡くなったあと、十五年間、千尋さんのことを、自分からはほとんど話さなかったのよ。私の知るかぎり。それだけ、つらかったんでしょうね」
奏は、十三日の夜のことを思い出した。部屋の床に座って、紅茶のカップを両手で包んでいた葛城。桜の K が誰か、千尋は最後まで教えてくれなかった、と彼は言った。
あの人は、答えを知らないまま、長い年月を過ごしたのだ。
柘植が桜の K を誇らしげに語るたびに、何も言わずに。
冴子は、立ち上がって、窓辺のチェンバロの蓋を開けた。
鍵盤に、指を置いた。短い前奏を弾いた。ゆっくりとした、三拍子の、哀しい舞曲だった。
「千尋さんがね、合宿の前の晩に、この部屋で歌ったのよ」
冴子は、弾きながら言った。
「白洲さんがチェンバロを弾いて、私が横で聴いていた。千尋さんは、そこの窓のところに立って、ハンカチを握りしめて歌っていたわ。歌い終わったら、恥ずかしそうに笑って、まだ全然だめです、って」
冴子の指が、止まった。
「全然だめなんかじゃなかったのよ。あの人の声は、聴いている人の胸の奥の、いちばん柔らかいところに、まっすぐ入ってくる声だった。杏奈ちゃんの声を初めて聴いたとき、私、息が止まったわ。あのころに戻ったのかと思って」
冴子は、鍵盤の蓋を、そっと閉じた。
「白洲さんは、あの晩のあと、二度と、この部屋でチェンバロを弾かなかった。蓋を開けることさえ、しなかったのよ」
奏は、閉じられた蓋を見つめた。
黒い漆の上に、窓の光が、細長く映っていた。
冴子は、最後の一通を取り出した。
それは、千尋の手紙ではなかった。白洲の字だった。冴子への短いメモで、手紙の束と一緒に預けられていたのだという。日付は、十一月の終わり。白洲が死ぬ、一週間ほど前だった。
——冴子さん。読み上げてくれて、ありがとう。おかげで、確かめたいことは確かめられた。
——K に、本当のことを話すつもりだ。十五年、遅れたが。
——あの桜の文字が誰を指していたのか。それを本人に教えずにきたのは、僕の弱さだった。あの夜のことも、写本のことも、全部まとめて、話す。そして、自分の口で、警察に話してもらう。
——二十日が終わるまで、この束を預かっていてほしい。もし僕に何かあったら、早瀬くんに見せてやってくれ。
奏は、メモの最後の一行を、何度も読んだ。
ひと月あまり前、初めて白洲から電話をもらったときのことを、奏は思い出した。
君の低音は、地面の形を知っている。
あのとき、それは褒め言葉だと思った。いまは、違うように聞こえた。地面の形を知っている者にしか、預けられないものがある。白洲は、そう言いたかったのかもしれない。
白洲さんは、最初から、私に何かを託すつもりだったのだ。
「K に本当のことを話す」
奏は、声に出して読んだ。
「K って、誰のことでしょう」
冴子は、便箋の端を指で揃えた。
「桜の文字が誰を指していたのか、本人に教えずにきた、と書いてあるわ」
「柘植さん」
奏が言うと、冴子は答えなかった。奏は、膝の上で、指を組んだ。
ずっと、桜の K を自分の名前だと信じてきた男。千尋に執着し、事務室の窓から見つめていた男。その男に、白洲は真実を告げると決めた。あの夜のことも、写本のことも、全部まとめて。そして、自分の口で警察に話してもらう、と。
それは、あの火事の夜に、何かがあったと、白洲が知っていたということだ。
「冴子さん。これ、すぐに久我さんに」
「ええ。もう連絡したわ」
冴子が言い終わる前に、玄関の呼び鈴が鳴った。
久我は、書斎の椅子に浅く腰かけ、手紙を一通ずつ、黙って読んだ。最後に白洲のメモを読み、それを机の上に戻した。
「冴子さん。白洲さんが亡くなって二週間、なぜ、これを警察に出さなかったのですか」
冴子は、答えかけて、口をつぐんだ。膝の上で組んだ指が、白くなっていた。
「……白洲さんの遺志を、確かめてから、と思って」
久我は、それ以上は訊かなかった。手帳に、何かを一行だけ書きつけた。
「白洲さんの手帳が、事務所の机の引き出しから見つかっています」
久我は、内ポケットから写真を一枚取り出した。手帳の、十二月の見開きの頁を撮ったものだった。
十二月二日の欄に、白洲の右上がりの字で、短く書かれていた。
——21時 K
奏は、その文字を見つめた。
「あの夜、九時に、白洲さんは K と会う約束をしていました」
久我が言った。
「K に、あの夜の真実を告げるために。そして、その夜のうちに殺されました」
冴子が、膝の上で手を握りしめた。
「柘植圭吾。K」
久我は、写真をしまった。
「千尋さんの手紙で、柘植さんが十五年間信じてきたことが、嘘だったと分かった。それを白洲さんから告げられた夜に、白洲さんは死にました。そして柘植さんは、狂ったふりをして、姿を消しました」
K で始まる名前なら、ほかにもいる、と奏は思った。けれど、桜の K を自分の名前だと十五年間言い張ってきたのは、柘植だけだった。
筋は、通っていた。
あまりにも、きれいに通っていた。
奏は、窓の外の、冬の空を見上げた。目白の坂の上に、薄い雲が流れていた。
その男にとって、白洲の告げた真実は、どれほどの重さだったのだろう。
信じていたものが、ある夜、一言で崩れる。
自分が愛されていたと思っていた年月が、一枚の便箋で、他の誰かのものになる。
奏は、その痛みを想像しようとした。想像しようとして、胸の奥が冷たくなった。
それは、人を殺すのに、十分な重さだった。
帰りぎわ、玄関で靴を履きながら、久我は自分の手帳を開き、ある頁をしばらく見ていた。奏の立っているところからは、行の頭の「0:04」という字だけが見えた。久我は、何も言わずに手帳を閉じ、内ポケットにしまった。
その夜、自宅に戻った奏は、譜面台の前に座り、杏奈のカードを脇へ寄せて、白洲の一葉の写しを広げた。明日の稽古の前に、もう一度、刻みを確かめておくつもりだった。この二日、写しは鞄に入れて、ホールの楽屋へ持っていっていた。
写しの裏面の、最後の段。次の頁の最初の音を示す、あの小さな印。
その後ろの余白に、鉛筆で、全音符が一つ書き込まれていた。
ソ。
奏の字ではなかった。
公演まで、あと四日。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
低音の刻みを一つずつ数えるように、一話ずつ積み重ねていく物語です。今日の一話の中に、気になる一行や、引っかかる音はあったでしょうか。一緒に数えながら、真相を追いかけてもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、コメントやいいねで教えていただけると、とても励みになります。「ここが怪しい」「この人が好き」、そんな一言でも大歓迎です。一つひとつ、大切に読ませていただきます。
次の話は、明日の朝八時にアップします。毎朝八時、一日一話ずつです。通勤のお供に、朝のコーヒーのお供に、また覗きにきてください。
それでは、次の小節でお待ちしています。
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




